志村けんがMC業を敬遠したワケ…酒井法子、羽生善治夫人も出演の“過渡期”アイドル番組

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1969年から1985年の長きに渡ってTBS系にて放送された『8時だョ!全員集合』(画像は、ポニーキャニオンより発売の『8時だョ!全員集合 最終盤』DVDジャケットより)

志村けんは、コーナー司会のみを担当

 そんな『~全員集合』以後の志村だが、コントなしの番組MC歴がゼロではない。『発掘!あるある大事典』(フジテレビ系、1996~2004年)もその領域に近いが、実は『天才!志村どうぶつ園』以上に極めて異色のレギュラー番組があった。しかも、その番組はなぜか、Wikipediaの「志村けん」のページに掲載されていない(2020年4月26日現在)。

 それは、1986年10月から日曜日の11時~11時30分に放送されていたアイドル番組『モモコクラブ』(TBS系)である。同番組は、学習研究社(現・学研ホールディングス)が1983年に創刊した女性アイドル誌「Momoco」のレギュラーコーナー「モモコクラブ」から生まれた。

 雑誌のコーナーとしての「モモコクラブ」は、プロアマ問わず、少女の顔写真とプロフィールが、何ページにも渡りズラリと掲載されているもの。同コーナーに登場することで芸能プロにスカウトされる場合と、もともと芸能プロに所属していた新人が仕込まれる場合と両方があったようだが、そこから、西村知美、杉浦幸、島田奈美が、1986年の上半期にアイドルとして続々とソロデビューを果たしている。当時、アイドル志望の少女たちは、こぞって編集部に自分の写真を送っていた。読者はそのなかから、毎回“お気に入り”を探す楽しさがあった。

 そして、西村、杉浦、島田に続けと、「モモコクラブ」掲載者の人気選抜メンバーを売り出すべく、同年秋に始まったテレビ番組が、先述の『モモコクラブ』だ。これは、メンバー数十名がスタジオにズラリと揃い、歌ったりゲームをしたり何かに挑戦したり……といった、おニャン子クラブを生んだ『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系、1985~1987年)の影響も見られるアイドルバラエティ番組だった。先行デビュー組が一定の人気を得ていたこともあり、モモコクラブ勢は当時、人気絶頂のおニャン子の強力な対抗馬と見られていたのだ。

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自身の半生を振り返った著作『変なおじさん 完全版』(新潮文庫)。オリジナルの単行本は日経BP社より1998年に発行。

志村けんがMC業を敬遠したワケ

 この番組のスタートにあたり発表されたレギュラー出演者の一番上に、志村けんの名前があった。『8時だョ!全員集合』が前年に終了。『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が同年1月にスタートしていた、そんな頃だ。つまり、志村が“全員集合後”の、自らの進み方を模索していた時期なのかもしれない。

 しかし、このテレビ番組『モモコクラブ』は、オープニングから志村が登場し、「え~始まりましたモモコクラブ。さて、今週は……」とやる形式ではなかった。あくまで進行を務めていたのは、酒井法子や、後に棋士・羽生善治と結婚する畠田理恵ら、運営側に推されていたメンバー数名。 そもそもそのオープニング時のスタジオに志村の姿はなく、『ケンちゃんと遊ぼ~』という、ゲームをメインとしたコーナーに森尾由美と共に登場し、メンバーに軽くツッコミを入れつつ、コーナーを回すのが役割だった。

 つまり、志村けんが司会を務める番組にモモコクラブのメンバーが出演していた……ということではなく、モモコクラブの番組に志村けんが呼ばれてコーナー司会をしていた……といったおもむきだった。途中から、メンバーが志村流のコントに挑戦という展開も見られたが、あくまで主役はアイドルたちであることに変わりはなかった。

 酒井法子と畠田理恵は人気アイドルとなったが、結局、テレビ番組『モモコクラブ』は大きな旋風を起こすことなく1年で終了している。

 この番組は、その後、定番となる“多数の若い女性タレントの中心に志村がいる”……という構図の原点だともいえなくもない。しかし、以降のそれらは、いずれも志村が主であったという点で、『モモコクラブ』とは大きく異なる。

 志村過渡期の番組ともいえる『モモコクラブ』以降、彼は、前述のようにスタジオで番組を軽く回すだけのMC業にはほとんど取り組まず、テレビでも舞台でも、自らが座長としてフル稼働する道を選ぶことになる。それが、志村けんのコメディアンとしての強い“意志”だったのだろう。

(文=編集部)