4
件
平成十九年二月、猪野一郎はなんの目標もなく、バツなし独身で根無し草のように半生を費やしていた。この九年足らずは北千住を拠点に東武本線沿いで新聞拡張員を生業としている。
空風の吹き荒ぶ中、埼玉の越谷で勧誘している際に、身にも心にも沁み込んでいる寒さや冷たさ、堅気とは言い難い裏新聞屋の仕事に感じているむなしさから一時的に逃れようと、駅前のファッションへルス店に入る。敵娼は、「春風」という源氏名で、違法風俗業界から足を洗うこと決心した二十歳と称する女性だった。物悲しさを醸し出していたその裏ヘルス嬢に、次回の指名を約束する。
同月末に再び訪れたが、春風は予告よりも早く店を辞めていた。五十絡みの人の好さそうな本番ヘルス店長が預かっていた手紙を読んで、彼女の過去や自分との関連を知り、拡張員を辞めて表の新聞屋に戻るのも悪くないと思うに至る。
第八八回オール読物新人賞二次通過作品です。
文字数 27,742
最終更新日 2024.06.27
登録日 2024.06.26
猪野一郎は、練馬区石神井にある新聞販売店と、武蔵野市吉祥寺にある四年制私立大学に籍を置く、いわゆる新聞奨学生である。高校卒業後に一年浪人し、故郷の熊本から上京して八ヶ月足らず。バブル景気を迎えて世間が沸き立っていた昭和六十三年十一月に、新聞屋の仕事と大学の勉強を地道に両立させる生活にようやく慣れつつあった。
起床は、未明の三時ごろ。三百部を超える朝夕刊の配達の合間に通学し、晩には集金、販売拡張、翌朝の折込みの準備、読者管理といった業務をこなす。就寝は、深夜の十一時をすぎてしまう。時代に浮かれてお祭り騒ぎの普通の大学生たちを尻目に、雨にも負けず風にも負けず、都会の世知辛さや新聞販売業界の悪習にも負けず、親から自立し、社会に貢献していることを誇りに毎日を送っていた。
そんな一郎の最上の楽しみは、二トントラックを運転している担当読者の「佐藤の若奥さん」と、夕刊配達中にときおり路上で擦れ違うことだった。毎月の集金時にも、小学一年生の一人娘がいて訳ありのシングルマザーかもしれない三十歳前後の女性の明るい笑顔に、日々の厳しい生活でささくれかけた心をなだめてもらっている。
去る八月に、童貞のままで二十歳になった。新聞奨学生寮の同室の先輩から新宿区歌舞伎町の個室高級サウナに誘われつづけているが、彼女を「裏切る」ことはできずにいた。
昭和六十四年が明け、ほどなく元号が平成に改まったころから、夕刊配達中に佐藤の若奥さんを見かけなくなる。仲の良かった同僚の失踪に心を痛めていた二月下旬に、彼女が転出することを知り、愕然としてしまう。引っ越し当日の昼下がりに、集金のためにアパートの部屋を訪ね、トラック運転手を辞め転職していたことを聞かされた後に、一組の布団と電気ストーブだけが残った肌寒い六畳間で、素人でなくなった彼女を相手に初体験をする。
この作品は、エブリスタにも投稿掲載しております。
第九八回オール読物新人賞及び第十二回林芙美子文学賞一次選考通過作品です。
文字数 35,346
最終更新日 2021.06.14
登録日 2021.06.05
昭和二十年八月九日、永井緑は命を絶たれるも、夫の隆のために霊魂は現世に留まった。
後に浦上の聖者と呼ばれた永井隆博士と妻の緑の絆を、戦争や原爆に断ち切られていいはずがなかった。
(400字詰め原稿用紙換算34枚)
この作品は、「エブリスタ」にも掲載しています。
文字数 11,956
最終更新日 2021.04.06
登録日 2020.04.02
4
件