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哲学(てつがく)、という言葉を知っていますか。自分の持っている辞書で調べてみてください。どんなことが書いてあるでしょうか。正直そこに何が書いてあるのか私もわかりません。哲学ということは言ってしまえば全てのことに関わるからです。例えば次のようなことが書いてありますか?
「世界、人生についての根本原理を追究する学問」
難しい言葉の意味はいいのです。世界、人生、それは何も長く住んだからと言って大人たちのためだけのものだと決まったわけではありません。みなさんにも関わりのあることですし、きっと一度は考えたことがあるだろうと思います。
「何でこの世界はあるんだろう?」
「何で自分は生まれてきたんだろう?」
「好きってなんだろう?」
そんな、大人に聞いても答えてくれないようなことを考えたことは? 何でもいいのです、でも答えが出ない不思議を悩んだのなら、それはもう「哲学」なのです。
あなたはそれをどこでいつ、誰と悩みましたか? たとえば寝る前、枕に頭を沈めて、一人で不思議をかかえて悩んでいたのではないでしょうか? それはどうでもいいことかもしれません。明日には忘れちゃうような、何でも答えになっちゃうテキトーでいいかげんなものかも。だって誰も答えを言ってはくれないし、みんなそんなこと気にして生きてはいないし。でも、きっとみんな、人には言わないだけでいろんな「哲学」を考えているのです。子どもの頃から、ずっと、特別ななやみを抱えています。
ここではとある小学五年生の男の子である佑樹君とさまざまな人との「哲学」が語られます。それは彼一人のものもありますが、ほとんどは人との間に語られます。
かつて、大哲学者ソクラテスという人はそのような「対話」の中からの真の言葉たちを用いて今につながる哲学の土台をつくったと言います。
「哲学」の大事なことはそのように「対話」なのです。佑樹君のお話を読んで考え、みなさんも、普段からじゃなくて大丈夫です。時々、ちょっと恥ずかしくて話すのに勇気がいる、自分たちの本気で悩んだことを誰かに話し分かち合ってみて下さい。自分の思いを素直に伝え、相手の言葉に耳を傾ける。それは、みなさんにとっても、そして人間にとてもとても大切なことなのです。時代が進み、AIの時代になっても、私たちが人間じゃなくなるわけではありません。人間はいます。そして私たちはいつまでも人間として生きていきます。「哲学」して悩み、「対話」を通して他の人と通じ合うことでより人間らしい生き方が見つかるかもしれません。つまり、「自由な生き方」をです。
そんな幸せな冒険に満ちた未来を、ここから始めてみませんか?
文字数 2,199
最終更新日 2026.07.08
登録日 2026.07.08
「もっとも幸福な一日」とはなんだったのだろう。愛する人との恋が成就した日、積年の努力が実った日、結婚した日、子供が生まれた日、いろんな日があるかもしれない。
主人公である「僕」にもそんな一日があった。それは何でもないような日の一部、もっとも幸せだったころのある一日だった。小学生の頃、まだ元気なお母さんがいてお父さんがいて、優しいおじいちゃんやおばあちゃんがいて、何気ない友達がたくさんいて、何より「君」がいたあの日、特別なことには花火大会がその街で行われた。
始まるまでの朝も昼も「君」と過ごした。行かねばならない学校にも初めて行かないでいつも新しく現れる世界との出会いに心を震わせながら、初めに「君」に引かれた手と足で時に「君」を導い
て、自由に走り回ったあの時の街。終わることを恐れたその夜。花火が上がり、そして散った。
すべてが、もう遠い。
「僕」はあのもっとも幸せだった日からだんだらと伸びた、傾く日に映される長い影の日々を送っている。そしてそれも今、夜の闇に呑まれようとしている。
あの日々、あの日もっとも生が強く放った輝きも、「君」もどこにもないのか、もう何もかも遅いと思われた「僕」は奔走する。その果てには何があるのか、あの日を求めて——。
文字数 6,361
最終更新日 2026.07.07
登録日 2024.07.31
ある小さな港町で、船大工の小僧として雇われていた少年ニールは、日々いろんなことに悩んでいた。
「何でこんな下働きばかりしてる」
「これが何の役に立つんだ」
「俺はこんなことをしているべきなのか」
ほとんどため息のような悩み。それだけでなくとも、いろんなことがニールには気になって、仕事はいつまでも叱られてばかり。
何か偉大なことをしてやろうだとか、金持ちになってやろうとも思わない。だが、何か。
どこに手を伸ばせばいいのかも分からず、ただ空を眺める。海風ばかりが物言いたげに彼の髪をなびかせた。
文字数 8,118
最終更新日 2026.06.29
登録日 2026.06.19
伝え聞く話。私が心を傾け、やがて耳を傾け、全てを捧げようとした聖人の道を通ったかつての人々はどうか。みなそれぞれ、生まれたときから、そう宿命づけられていたかのように類まれな才と同時に謙虚さ、慈悲をもあわせ持ち、不正と争いを嫌い、慎ましく、いかなる欲も悪しきものと払いながら、しかも人々の欲に向かうさまに微笑みと、過ぎるならば哀れみの視線をくれる、そんな「祝福された」子供だった。
私はどうか。私は、とても褒められた子供ではなかった。才の無いのを妬みに変えて、周りの子供に大事にされたことなどは、その妬みを茶化しに変えるいたずらとずる賢さの才であり、都合に応じて優しさを変え、いじめるようなことはなくとも、興味のない人物にはあからさまなまでに冷淡に接してきた。不正も争いも中途半端に好きであれば嫌いでもあり、自分の美点はそれとなく明かして汚点は必死に隠した。欲に対して厳しく当たっているようで、その実、誘惑には弱かった。人々のあさましい様には眉をひそめながら、自分に訪れる甘美な経験は天からの褒美や見逃しだと考えていた。
私は時には、生きていることが恥ずかしい。ただ日々は敬虔さを求めながら過ぎ行くなかで、それでも何かすれ違う人の中に、私への慰めの声に、細やかで優しい手に、私はまたしも誘われていく。私はそういう人なのか。それとも祈りの果てにこの日々をこえて、すべてを洗い流した美しい景色がこの眼の前に訪れるのか。
文字数 2,571
最終更新日 2024.08.11
登録日 2024.08.11
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