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第7話「使用人の距離」
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夜が更け、城は深い静寂に包まれている。
私は自室の鏡台の前に座っていた。
一日の公務と修練を終え、ようやく重たいドレスから解放された時間だ。
部屋には暖炉の薪が爆ぜる音と、柱時計の針が進む音だけが響いている。
背後には、彼がいる。
彼は私の髪から飾り紐を解き、櫛を通している。
本来、これは侍女の仕事だが、夜の最後の身支度だけは、彼が行うことが習慣になっていた。
彼の手つきは、昼間の事務仕事と同じように正確で、けれど作業というにはとても優しい。
私の髪は細く絡まりやすいが、彼の手にかかると一度も痛みを覚えたことがない。
「……今日は、疲れたでしょう」
鏡越しに、彼がぽつりと呟いた。
使用人が主人に労いの言葉をかけるのは、本来なら少し馴れ馴れしい。
けれど、この部屋の中だけは、外の世界よりも少しだけ空気が緩んでいる。
「いいえ。いつも通りよ」
私は短く答える。
疲労は管理されるべきパラメータの一つに過ぎない。
適切に休息をとれば回復するものであり、感情を挟む余地はない。
「そうですね。貴女様は、いつだって完璧です」
彼の手が止まる。
櫛を置く音が、カタリと小さく響いた。
彼は私の肩にショールをかけ、その両端を前で整える。
その手が、私の首筋に触れそうなほど近くにある。
彼の体温が伝わってくる距離だ。
ふと、彼の手が震えていることに気づいた。
昼間、老教師に静かな怒りを向けていた時と同じ震えだ。
「……どうしたの?」
私が尋ねると、彼は視線を伏せたまま、苦しげに息を吐き出した。
「……悔しいのです」
「何が?」
「誰も、貴女様を見ようとしないことが」
彼はショールを整える手を止めず、けれどその声には熱が籠もっていた。
「貴女様は、ただの十三番目の席ではありません。誰よりも努力し、誰よりも聡明で……誰よりも気高い、一人の女性です」
彼の言葉は、使用人の分際を超えている。
けれど、私はそれを咎める気にはなれなかった。
彼の怒りが、私のためだけのものだと知っていたからだ。
それは理解できないけれど、悪い気分ではない。
彼は顔を上げ、鏡の中で私と目を合わせた。
その瞳は、吸い込まれそうなほど真剣で、どこか切羽詰まった色をしていた。
「私にとって、貴女様は……」
彼はそこで言葉を切った。
喉元まで出かかった言葉を、必死に押し留めるように。
唇が微かに動き、音にならない呼称を紡ごうとする。
『ス……』
私には、それが何かの名前の頭文字のように見えた。
けれど、その続きが音になることはなかった。
彼はハッと我に返ったように目を瞬かせ、一歩後ろへと下がった。
瞬時に、あの完璧な使用人の仮面を被り直す。
「……私にとって、貴女様は、お仕えする唯一の主君でございます」
言い直された言葉は、あまりに模範的で、つまらないものだった。
「そう。当然でしょう」
私は鏡の中の彼に頷く。
彼が何を言いかけたのか、私には分からない。
ただの言葉の綾か、あるいは言い淀んだだけだろう。
「髪の手入れは終わりました。温かいミルクをご用意してあります」
「ありがとう」
彼は一礼し、サイドテーブルの上のカップを手に取った。
その動作には、もう迷いも揺らぎもない。
けれど、私にカップを手渡す際、彼の手指が私に触れた。
ほんの一瞬の接触。
そこには、言葉にできなかった何かが残っているような気がした。
「おやすみなさいませ、第十三皇女候補様」
彼はいつもの呼称で私を呼ぶ。
そこには明確な線引きがある。
主と従。
番号を持つ者と、それに仕える者。
「おやすみなさい」
私が答えると、彼は音もなく部屋を出て行った。
閉ざされた扉を見つめながら、私は温かいミルクを口にする。
甘い香りが広がる。
彼が言いかけた言葉。
そして、彼だけが時折見せる、痛切な眼差し。
その理由は分からない。
知る必要もないことだ。
私は第十三皇女候補であり、彼は私の使用人。
その事実は、どんな言葉よりも重く、確かなのだから。
ただ、彼が去った後の部屋は、いつもより少しだけ広く、そして寒く感じられた。
私は自室の鏡台の前に座っていた。
一日の公務と修練を終え、ようやく重たいドレスから解放された時間だ。
部屋には暖炉の薪が爆ぜる音と、柱時計の針が進む音だけが響いている。
背後には、彼がいる。
彼は私の髪から飾り紐を解き、櫛を通している。
本来、これは侍女の仕事だが、夜の最後の身支度だけは、彼が行うことが習慣になっていた。
彼の手つきは、昼間の事務仕事と同じように正確で、けれど作業というにはとても優しい。
私の髪は細く絡まりやすいが、彼の手にかかると一度も痛みを覚えたことがない。
「……今日は、疲れたでしょう」
鏡越しに、彼がぽつりと呟いた。
使用人が主人に労いの言葉をかけるのは、本来なら少し馴れ馴れしい。
けれど、この部屋の中だけは、外の世界よりも少しだけ空気が緩んでいる。
「いいえ。いつも通りよ」
私は短く答える。
疲労は管理されるべきパラメータの一つに過ぎない。
適切に休息をとれば回復するものであり、感情を挟む余地はない。
「そうですね。貴女様は、いつだって完璧です」
彼の手が止まる。
櫛を置く音が、カタリと小さく響いた。
彼は私の肩にショールをかけ、その両端を前で整える。
その手が、私の首筋に触れそうなほど近くにある。
彼の体温が伝わってくる距離だ。
ふと、彼の手が震えていることに気づいた。
昼間、老教師に静かな怒りを向けていた時と同じ震えだ。
「……どうしたの?」
私が尋ねると、彼は視線を伏せたまま、苦しげに息を吐き出した。
「……悔しいのです」
「何が?」
「誰も、貴女様を見ようとしないことが」
彼はショールを整える手を止めず、けれどその声には熱が籠もっていた。
「貴女様は、ただの十三番目の席ではありません。誰よりも努力し、誰よりも聡明で……誰よりも気高い、一人の女性です」
彼の言葉は、使用人の分際を超えている。
けれど、私はそれを咎める気にはなれなかった。
彼の怒りが、私のためだけのものだと知っていたからだ。
それは理解できないけれど、悪い気分ではない。
彼は顔を上げ、鏡の中で私と目を合わせた。
その瞳は、吸い込まれそうなほど真剣で、どこか切羽詰まった色をしていた。
「私にとって、貴女様は……」
彼はそこで言葉を切った。
喉元まで出かかった言葉を、必死に押し留めるように。
唇が微かに動き、音にならない呼称を紡ごうとする。
『ス……』
私には、それが何かの名前の頭文字のように見えた。
けれど、その続きが音になることはなかった。
彼はハッと我に返ったように目を瞬かせ、一歩後ろへと下がった。
瞬時に、あの完璧な使用人の仮面を被り直す。
「……私にとって、貴女様は、お仕えする唯一の主君でございます」
言い直された言葉は、あまりに模範的で、つまらないものだった。
「そう。当然でしょう」
私は鏡の中の彼に頷く。
彼が何を言いかけたのか、私には分からない。
ただの言葉の綾か、あるいは言い淀んだだけだろう。
「髪の手入れは終わりました。温かいミルクをご用意してあります」
「ありがとう」
彼は一礼し、サイドテーブルの上のカップを手に取った。
その動作には、もう迷いも揺らぎもない。
けれど、私にカップを手渡す際、彼の手指が私に触れた。
ほんの一瞬の接触。
そこには、言葉にできなかった何かが残っているような気がした。
「おやすみなさいませ、第十三皇女候補様」
彼はいつもの呼称で私を呼ぶ。
そこには明確な線引きがある。
主と従。
番号を持つ者と、それに仕える者。
「おやすみなさい」
私が答えると、彼は音もなく部屋を出て行った。
閉ざされた扉を見つめながら、私は温かいミルクを口にする。
甘い香りが広がる。
彼が言いかけた言葉。
そして、彼だけが時折見せる、痛切な眼差し。
その理由は分からない。
知る必要もないことだ。
私は第十三皇女候補であり、彼は私の使用人。
その事実は、どんな言葉よりも重く、確かなのだから。
ただ、彼が去った後の部屋は、いつもより少しだけ広く、そして寒く感じられた。
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