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第10話「婚約は儀式」
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その講義は、まるで家畜の品種改良について学ぶ時間のようだった。
大講堂の黒板には、『皇配(プリンス)選定基準』という文字が大きく書かれている。
教壇に立つのは、宮廷儀礼を司る初老の女性官だ。彼女は冷徹な声で、未来の私たちの「夫」となる存在について説明している。
「よいですか、皆様。皇配とは、愛する殿方のことではありません」
彼女は杖で床を一つ叩いた。乾いた音が響く。
「皇配とは、女帝を支える最も強固な『杖』であり、次代へ血を繋ぐための『器』であり、そして決して女帝よりも前に出ることのない『影』であります」
教室には、ペンを走らせる音だけが響く。
そこにはロマンチックな溜息も、年頃の少女が抱くような夢想もない。あるのは、優秀な部下を選定するための計算基準だけだ。
「選定において考慮すべきは三点。家柄による政治的バランス、実務能力、そして遺伝的な健常性です。個人の嗜好や、一時の情熱といった不安定な要素は排除なさいませ」
私はノートに要点を書き留める。
――感情は不要。機能のみを評価せよ。
その言葉は、私にとって福音のように心地よかった。
もし「愛し合う者を選べ」と言われたら、私は途方に暮れていただろう。私には誰かを愛する資格も、愛される要素もない。
けれど、「条件の合う契約者を選べ」というのであれば、それは事務処理の延長だ。とても簡単で、間違いがない。
「カテリーナ様。貴女ならどのような殿方を選びますか?」
女性官に指名され、序列三位のカテリーナ様が優雅に立ち上がる。
「わたくしの生家は海軍に影響力を持っております。ですから、陸軍とのパイプを持つ伯爵家の子息か、あるいは外交に強い文官を望みますわ」
「よろしい。完璧な回答です」
彼女の答えに、愛の入り込む隙間は一ミリもない。
まるで、新しい別荘を建てる立地を選んでいるような口調だ。
周囲の候補者たちも、感心したように頷いている。
私は、教室の隅に控えている彼の方をちらりと見た。
彼は壁を背にして直立し、無表情で前方を見つめている。
ここでの話は、使用人である彼には関係のない、雲の上の政治の話だ。
講義が終わり、休憩時間になった。
候補者たちは、カタログを見るような手つきで、皇配候補者のリストが載った資料をめくっている。
「見て、この方。財務処理能力がAランクよ」
「でも、家格が少し低いわね。バランスを取るならこちらかしら」
私は自分の席で、冷めた紅茶を口にする。
私には、具体的な希望などない。
第十三位の私に回ってくるのは、きっと上位の候補者たちが選び終わった後の、余り物の誰かだろう。
それで構わない。機能さえ満たしていれば、余り物だろうが出がらしだろうな、誰が夫になろうと差はないのだから。
「……貴女様は」
背後から、彼がポットを持って近づいてきた。
カップに紅茶を注ぎ足しながら、彼が低い声で問う。
「貴女様は、どのような方を望まれるのですか」
それは、単なる世間話のようでありながら、どこか張り詰めた響きを含んでいた。
「私?」
私は少し考えて、正直に答える。
「そうね……静かな人がいいわ」
「静かな人、でございますか」
「ええ。余計なことを話さず、私に干渉せず、ただ書類上の夫としてそこにいてくれる人。空気のように無害な人が理想ね」
愛も憎しみもいらない。
ただ、システムを円滑に回すためのパーツとして、静かに隣にいてくれればいい。
それは、今の私の生活を脅かさない、最も安全な関係だ。
「……そうですか」
彼は短く呟いた。
注がれる紅茶の水面が、わずかに揺れた気がした。
「心を通わせることも、支え合うことも、望まれないのですか」
「契約にそんな条項は含まれていないわ。先ほどの講義でもそう言っていたでしょう?」
私が淡々と返すと、彼はポットを強く握りしめた。
「……左様でございましたね。ここは、そういう場所でした」
彼の声は、ひどく冷えていた。
それは私に向けられた冷たさではなく、この教室、この制度、そしてこの国全体を覆う空気に対する、諦めにも似た嫌悪のように聞こえた。
「ですが、もし……」
彼は言いかけて、言葉を切った。
その視線が、資料のリストに載っている「皇配候補」たちの顔写真――身分の高い貴族の息子たち――の上を滑る。
そこには、使用人の彼が入る余地など、どこにもない。
彼はただの、お茶を注ぐ者なのだから。
「……いえ。お茶が冷めないうちに、どうぞ」
彼はいつもの無表情な仮面を被り直し、一歩下がった。
けれど、その沈黙は、雄弁だった。
彼が飲み込んだ言葉が何であったのか、私には想像もつかない。
ただ、彼がこの「効率的なシステム」を、あまり好ましく思っていないことだけは伝わってきた。
私は温かい紅茶を飲む。
愛のない結婚。条件だけの夫。
その未来図は、私にとって砂漠のように乾いていて、だからこそ歩きやすそうに見えた。
そのはずなのに彼の苦しげな沈黙が、私の背中に重くのしかかっているようにも感じた。
大講堂の黒板には、『皇配(プリンス)選定基準』という文字が大きく書かれている。
教壇に立つのは、宮廷儀礼を司る初老の女性官だ。彼女は冷徹な声で、未来の私たちの「夫」となる存在について説明している。
「よいですか、皆様。皇配とは、愛する殿方のことではありません」
彼女は杖で床を一つ叩いた。乾いた音が響く。
「皇配とは、女帝を支える最も強固な『杖』であり、次代へ血を繋ぐための『器』であり、そして決して女帝よりも前に出ることのない『影』であります」
教室には、ペンを走らせる音だけが響く。
そこにはロマンチックな溜息も、年頃の少女が抱くような夢想もない。あるのは、優秀な部下を選定するための計算基準だけだ。
「選定において考慮すべきは三点。家柄による政治的バランス、実務能力、そして遺伝的な健常性です。個人の嗜好や、一時の情熱といった不安定な要素は排除なさいませ」
私はノートに要点を書き留める。
――感情は不要。機能のみを評価せよ。
その言葉は、私にとって福音のように心地よかった。
もし「愛し合う者を選べ」と言われたら、私は途方に暮れていただろう。私には誰かを愛する資格も、愛される要素もない。
けれど、「条件の合う契約者を選べ」というのであれば、それは事務処理の延長だ。とても簡単で、間違いがない。
「カテリーナ様。貴女ならどのような殿方を選びますか?」
女性官に指名され、序列三位のカテリーナ様が優雅に立ち上がる。
「わたくしの生家は海軍に影響力を持っております。ですから、陸軍とのパイプを持つ伯爵家の子息か、あるいは外交に強い文官を望みますわ」
「よろしい。完璧な回答です」
彼女の答えに、愛の入り込む隙間は一ミリもない。
まるで、新しい別荘を建てる立地を選んでいるような口調だ。
周囲の候補者たちも、感心したように頷いている。
私は、教室の隅に控えている彼の方をちらりと見た。
彼は壁を背にして直立し、無表情で前方を見つめている。
ここでの話は、使用人である彼には関係のない、雲の上の政治の話だ。
講義が終わり、休憩時間になった。
候補者たちは、カタログを見るような手つきで、皇配候補者のリストが載った資料をめくっている。
「見て、この方。財務処理能力がAランクよ」
「でも、家格が少し低いわね。バランスを取るならこちらかしら」
私は自分の席で、冷めた紅茶を口にする。
私には、具体的な希望などない。
第十三位の私に回ってくるのは、きっと上位の候補者たちが選び終わった後の、余り物の誰かだろう。
それで構わない。機能さえ満たしていれば、余り物だろうが出がらしだろうな、誰が夫になろうと差はないのだから。
「……貴女様は」
背後から、彼がポットを持って近づいてきた。
カップに紅茶を注ぎ足しながら、彼が低い声で問う。
「貴女様は、どのような方を望まれるのですか」
それは、単なる世間話のようでありながら、どこか張り詰めた響きを含んでいた。
「私?」
私は少し考えて、正直に答える。
「そうね……静かな人がいいわ」
「静かな人、でございますか」
「ええ。余計なことを話さず、私に干渉せず、ただ書類上の夫としてそこにいてくれる人。空気のように無害な人が理想ね」
愛も憎しみもいらない。
ただ、システムを円滑に回すためのパーツとして、静かに隣にいてくれればいい。
それは、今の私の生活を脅かさない、最も安全な関係だ。
「……そうですか」
彼は短く呟いた。
注がれる紅茶の水面が、わずかに揺れた気がした。
「心を通わせることも、支え合うことも、望まれないのですか」
「契約にそんな条項は含まれていないわ。先ほどの講義でもそう言っていたでしょう?」
私が淡々と返すと、彼はポットを強く握りしめた。
「……左様でございましたね。ここは、そういう場所でした」
彼の声は、ひどく冷えていた。
それは私に向けられた冷たさではなく、この教室、この制度、そしてこの国全体を覆う空気に対する、諦めにも似た嫌悪のように聞こえた。
「ですが、もし……」
彼は言いかけて、言葉を切った。
その視線が、資料のリストに載っている「皇配候補」たちの顔写真――身分の高い貴族の息子たち――の上を滑る。
そこには、使用人の彼が入る余地など、どこにもない。
彼はただの、お茶を注ぐ者なのだから。
「……いえ。お茶が冷めないうちに、どうぞ」
彼はいつもの無表情な仮面を被り直し、一歩下がった。
けれど、その沈黙は、雄弁だった。
彼が飲み込んだ言葉が何であったのか、私には想像もつかない。
ただ、彼がこの「効率的なシステム」を、あまり好ましく思っていないことだけは伝わってきた。
私は温かい紅茶を飲む。
愛のない結婚。条件だけの夫。
その未来図は、私にとって砂漠のように乾いていて、だからこそ歩きやすそうに見えた。
そのはずなのに彼の苦しげな沈黙が、私の背中に重くのしかかっているようにも感じた。
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