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第9話「彼女は怒らない」
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移動教室に向かう廊下の曲がり角で、それは起きた。
前方から歩いてきたのは、序列十一位と十二位の候補者だった。
彼女たちは私と同じ「二桁」の区分にいるが、上昇志向が強く、常に何かに焦っているような瞳をしている。
すれ違いざま、彼女たちの進路が不自然に曲がった。
ドン、と鈍い衝撃が肩に走る。
「あっ」
私はよろめき、手に持っていた教科書と書類の束を床にぶちまけてしまった。
バサバサと音を立てて紙が散乱し、インク壺が転がる。
「あら、ごめんなさい」
十一位の候補者は口元に手を当て、まったく申し訳なさそうではない声で言った。
彼女らに「一桁」ほどの余裕も慈愛もない。
彼女らは私を貶めることで憂さを晴らしているに過ぎない。
「そこにいるなんて、気づかなかったわ。あなた、空気みたいに薄いのですもの」
「本当ね。壁かと思ったわ」
十二位が追従して笑う。
典型的な嫌がらせだ。
けれど、私の解釈は少し違う。
彼女たちは、私にぶつかるために、わざわざ軌道を修正したのだ。
ただの空気なら通り抜ければいい。
ただの壁なら避ければいい。
けれど彼女たちは、私を「標的」として瞳に映し、距離を測り、自分の肩を私の肩に当てるという労力を割いた。
その一瞬の間、彼女たちの意識の中心には、間違いなく私がいたと思うと。
少し暖かいとすら思った。
「……申し訳ありません。不注意でした」
私は散らばった書類を拾うために膝をつく。
彼女たちの視線が、私の頭上から突き刺さる。
その視線には「侮蔑」という色がついている。
無色透明な無視に比べれば、なんと鮮やかな色だろう。
「気をつけてくださいませ、第十三皇女候補。ただでさえ価値がないのですから、これ以上汚れては困りますわ」
彼女たちは捨て台詞を吐き、私の足元の書類をわざとらしく踏みつけて去っていった。
踏まれた紙についた靴跡。
それすらも、私にとっては他者と関わった痕跡に見えた。
拾い集めようと手を伸ばした私の指先に、別の手が重なった。
「……触らないでください」
彼だ。
彼は私の制止も聞かず、泥のついた書類を拾い上げていく。
その手袋は、怒りで小刻みに震えていた。
「このような……ゴミ拾いのような真似、貴女様がなさる必要はありません」
彼は書類を回収すると、彼女たちが去っていった廊下の奥を睨みつけた。
その瞳には、私に向けられることのない激しい憎悪が燃えていた。
「……なぜですか」
彼が低い声で呻く。
「なぜ、怒らないのですか」
彼は振り返る。
その表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「あのような理不尽な悪意をぶつけられて……なぜ貴女様は、そんなふうに穏やかでいられるのですか」
「悪意、そうね」
私は彼の手から、汚れた書類を一枚受け取る。
「でも、悪意には『温度』があるわ」
「……え?」
「彼女たちは私を見て、私を憎み、私を傷つけようとした。そこには熱があったわ」
私は踏まれた跡を指先でなぞる。
「無視される冷たさに比べれば、ぶつけられる悪意はずっと温かい。彼女たちは少なくとも、私を『無視できない人間』として扱ってくれた」
それは、長いこと凍えていた指先を、暖炉にかざした時の痛みに似ていた。
熱いけれど、生きている心地がする。
だから私は、この状況を不快だとは思わなかった。
「……っ」
私の言葉を聞いた瞬間、彼の顔が崩れた。
怒りではない。
もっと深い、どうしようもない悲しみが、彼の顔を覆い尽くした。
「……なんと、悲しいことを」
彼は掠れた声で呟いた。見えてはいないが涙を流しているともとれる状態だった。
その手にある書類が、クシャリと握りつぶされる。
「傷つけられることを温かいなどと……そんな場所まで、貴女様は追い詰められていたのですか」
彼は私よりも深く傷ついていた。
私が「温かい」と感じたその熱で、彼自身が火傷を負ったかのように。
「私が……私が、おります」
彼は一歩踏み出し、私の前に立った。
その瞳が、強く、熱く、私を射抜く。
「悪意による熱など、必要ありません。私が貴女様を見ます。私が貴女様を想います。だから……」
彼は言葉を詰まらせ、ひざまずき祈るように言った。
「どうか、ご自分を粗末になさらないでください。貴女様が痛みを感じないとしても、それを見ている私の心が、張り裂けそうなのです」
彼の声は震えていた。
その必死な響きに、私は初めて動揺した。
彼から向けられているこの感情は、彼女らの悪意のそれとは違う。
もっと柔らかく、芯まで届くような、得体の知れない熱源だ。
「……分かったわ」
私は少しだけ戸惑いながらうなずく。
「あなたがそう言うなら、書類は新しく書き直しましょう」
「……はい。私が、最高の上質紙をご用意します」
彼は深く息を吐き、少しだけ安堵したように目尻を下げた。
彼は私の荷物を全て持ち、私に背中を預けるように歩き出す。
その背中は、先ほどよりも少しだけ大きく見えた。
私は自分の肩に手を当てる。
ぶつかられた場所が、まだジンジンと熱い。
けれど、それ以上に、彼に向けられた言葉の余韻が、胸の奥で燻っているような気がした。
悪意よりも温かいものが、この世にはあるのかもしれない。
そんな不確かな予感を抱きながら、私は彼の足音に従って歩き出した。
前方から歩いてきたのは、序列十一位と十二位の候補者だった。
彼女たちは私と同じ「二桁」の区分にいるが、上昇志向が強く、常に何かに焦っているような瞳をしている。
すれ違いざま、彼女たちの進路が不自然に曲がった。
ドン、と鈍い衝撃が肩に走る。
「あっ」
私はよろめき、手に持っていた教科書と書類の束を床にぶちまけてしまった。
バサバサと音を立てて紙が散乱し、インク壺が転がる。
「あら、ごめんなさい」
十一位の候補者は口元に手を当て、まったく申し訳なさそうではない声で言った。
彼女らに「一桁」ほどの余裕も慈愛もない。
彼女らは私を貶めることで憂さを晴らしているに過ぎない。
「そこにいるなんて、気づかなかったわ。あなた、空気みたいに薄いのですもの」
「本当ね。壁かと思ったわ」
十二位が追従して笑う。
典型的な嫌がらせだ。
けれど、私の解釈は少し違う。
彼女たちは、私にぶつかるために、わざわざ軌道を修正したのだ。
ただの空気なら通り抜ければいい。
ただの壁なら避ければいい。
けれど彼女たちは、私を「標的」として瞳に映し、距離を測り、自分の肩を私の肩に当てるという労力を割いた。
その一瞬の間、彼女たちの意識の中心には、間違いなく私がいたと思うと。
少し暖かいとすら思った。
「……申し訳ありません。不注意でした」
私は散らばった書類を拾うために膝をつく。
彼女たちの視線が、私の頭上から突き刺さる。
その視線には「侮蔑」という色がついている。
無色透明な無視に比べれば、なんと鮮やかな色だろう。
「気をつけてくださいませ、第十三皇女候補。ただでさえ価値がないのですから、これ以上汚れては困りますわ」
彼女たちは捨て台詞を吐き、私の足元の書類をわざとらしく踏みつけて去っていった。
踏まれた紙についた靴跡。
それすらも、私にとっては他者と関わった痕跡に見えた。
拾い集めようと手を伸ばした私の指先に、別の手が重なった。
「……触らないでください」
彼だ。
彼は私の制止も聞かず、泥のついた書類を拾い上げていく。
その手袋は、怒りで小刻みに震えていた。
「このような……ゴミ拾いのような真似、貴女様がなさる必要はありません」
彼は書類を回収すると、彼女たちが去っていった廊下の奥を睨みつけた。
その瞳には、私に向けられることのない激しい憎悪が燃えていた。
「……なぜですか」
彼が低い声で呻く。
「なぜ、怒らないのですか」
彼は振り返る。
その表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「あのような理不尽な悪意をぶつけられて……なぜ貴女様は、そんなふうに穏やかでいられるのですか」
「悪意、そうね」
私は彼の手から、汚れた書類を一枚受け取る。
「でも、悪意には『温度』があるわ」
「……え?」
「彼女たちは私を見て、私を憎み、私を傷つけようとした。そこには熱があったわ」
私は踏まれた跡を指先でなぞる。
「無視される冷たさに比べれば、ぶつけられる悪意はずっと温かい。彼女たちは少なくとも、私を『無視できない人間』として扱ってくれた」
それは、長いこと凍えていた指先を、暖炉にかざした時の痛みに似ていた。
熱いけれど、生きている心地がする。
だから私は、この状況を不快だとは思わなかった。
「……っ」
私の言葉を聞いた瞬間、彼の顔が崩れた。
怒りではない。
もっと深い、どうしようもない悲しみが、彼の顔を覆い尽くした。
「……なんと、悲しいことを」
彼は掠れた声で呟いた。見えてはいないが涙を流しているともとれる状態だった。
その手にある書類が、クシャリと握りつぶされる。
「傷つけられることを温かいなどと……そんな場所まで、貴女様は追い詰められていたのですか」
彼は私よりも深く傷ついていた。
私が「温かい」と感じたその熱で、彼自身が火傷を負ったかのように。
「私が……私が、おります」
彼は一歩踏み出し、私の前に立った。
その瞳が、強く、熱く、私を射抜く。
「悪意による熱など、必要ありません。私が貴女様を見ます。私が貴女様を想います。だから……」
彼は言葉を詰まらせ、ひざまずき祈るように言った。
「どうか、ご自分を粗末になさらないでください。貴女様が痛みを感じないとしても、それを見ている私の心が、張り裂けそうなのです」
彼の声は震えていた。
その必死な響きに、私は初めて動揺した。
彼から向けられているこの感情は、彼女らの悪意のそれとは違う。
もっと柔らかく、芯まで届くような、得体の知れない熱源だ。
「……分かったわ」
私は少しだけ戸惑いながらうなずく。
「あなたがそう言うなら、書類は新しく書き直しましょう」
「……はい。私が、最高の上質紙をご用意します」
彼は深く息を吐き、少しだけ安堵したように目尻を下げた。
彼は私の荷物を全て持ち、私に背中を預けるように歩き出す。
その背中は、先ほどよりも少しだけ大きく見えた。
私は自分の肩に手を当てる。
ぶつかられた場所が、まだジンジンと熱い。
けれど、それ以上に、彼に向けられた言葉の余韻が、胸の奥で燻っているような気がした。
悪意よりも温かいものが、この世にはあるのかもしれない。
そんな不確かな予感を抱きながら、私は彼の足音に従って歩き出した。
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