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第一話 「忘れる者と、拒むもの」

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十葉の記憶が戻っているのかは判別できなかった。ただ彼女は、巫女か何かのように漆黒のストリートピアノに触れ、水色の楽譜を開き、立てかける。黒と青はよく似合っており、そこだけが舞踏会のピアノのように特別だった。駅の喧騒に構うこともなく、白色の鍵盤へ指を置く。

つぐみは独り言のように呟いた。

「十葉ちゃんはピアノを習ってはよ」

「えっ」

未来の消え入りそうな声と、低めなピアノの出だしがハモった。

まるで波のような音階。行ったり来たりしている。音量自体は小さいのに、そこに秘めているエネルギーは計り知れない。つぐみのからわらでは未来がうずくまり耳を塞いでいた。必死にピアノの音色を脳内から除外しようとしている。彼女にとってしてみれば、その音色は美しすぎて断罪されているような気分にしかならないのだろう。

いつしかサビも終わりを告げ、また和やかなトーンへと戻ってきていた。十葉の顔には相変わらず表情がなくーいや、嬉々とした光を瞳にを宿してー一音一音を楽しんでいるのみ。

終わった、と思った瞬間これまでとは一味違ったメロディーになった。未来が呆けた表情をしているので、ピンと来た。

(これは、、、アドリブか)

一転して跳ねるような調子に変化し、足のペダルの踏み込みがすばやくなる。それでいてどこか儚く、空天気ではないかと思えてしまう裏表のない音。

一曲終わる頃には、未来の目尻は赤くなっていたが、涙は止まっていた。

「十葉ちゃーん」

つぐみが呼ぶと、ピアノ椅子に腰掛けたまま俯いていた十葉が駆け寄ってきた。その顔はつぐみが見たことがないほど晴れやかだった。これが本来の彼女か、とつぐみは納得する。明るくて、素直で大雑把な小花衣十葉。

十葉は迷うことなく未来の目の前へ姿を見せる。未来はまるで儀式のひとつかのように頭を下げ、「ごめんなさい」と言った。

一時沈黙が続いたが、十葉はいくらか正気の通った声で言葉を差し出す。

「さっきまでは、何も感じなかったんだけどね。つぐみさんへの懺悔も私への憎しみも、どうでもいいって。けど、私の言い方も悪かったってことだろうし、正直に話してくれたからよかった。結果的にそのおかげで記憶も戻ったんだから、結果オーライかな」

記憶を無くした原因は未来だけど、取り戻したきっかけも未来だから、と朗らかに言う。

「それでも私は、未来みたいに自己主張の道具にピアノを使ったことはないよ。楽しむための手段だって思うから。自分が楽しまないと、歌う側も聴く側も楽しく思えないもの。何より私は未来と一緒に弾いてみたいから。未来の音が好きだから。ね?これからもよろしくね」

十葉の最後の言葉に、未来は年相応の拙い笑顔で「ありがとう」と返し、微笑んだ。

つぐみが一件落着か、と喜んだところに、十葉が礼を言う。

「ありがとうございます。つぐみさんがいてくれて」

「そんな、とんでもないよ」

「つぐみさんは本当に、裏表のない、優しい方ですね」

大業な物言いに苦笑いしつつ、心の中では一人ごちる。

(そんな評価、に言っちゃだめだよ)



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