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朝陽が差し込むダイニングルーム。
テーブルの上には、焼きたてのクロワッサンと、温度管理が徹底されたダージリンティーが並んでいます。
私は優雅にティーカップを傾けながら、向かいに座る「招かれざる……いえ、勝手に来た客」を観察しました。
「……それで、カイル殿下。貴方は一体、いつからあそこで待機していらしたの? 私の予測では、殿下が門前に現れる少なくとも三十分前には、馬車の中で待機していたはずですわ」
カイル殿下は、サラダのパプリカをピンセットのように正確な動作でフォークに刺し、口へ運びました。
「さすがだね、ミルム嬢。正解は三十五分前だ。セドリック殿下の『起床から逆上までの平均時間』を計算すれば、あの時刻にここへ来るのは自明の理だったからね」
「……他国の王子の生活リズムをデータ化して予測するなんて、随分と暇なんですのね。それとも、よほど性格が歪んでいらっしゃるのか」
「知的好奇心の充足、と言ってほしいな。……ところで、君は昨夜のパーティーで、私がなぜあのようなタイミングで声をかけたか、疑問に思わなかったかい?」
私はカップをソーサーに戻し、彼を真っ直ぐに見つめました。
「ええ。貴方は、まるで舞台の袖で出番を待つ役者のようでしたわ。……殿下、貴方はいつから、私を『観察』していらしたの?」
カイル殿下は、楽しそうに目を細めました。
彼はポケットから、古びた手帳を取り出し、テーブルの上に置きました。
「一年半前。君が学院の図書館で、誰も見向きもしない『近世農政における税収の統計的矛盾』という論文を読んでいた時からだ。君は三時間、一度も瞬きを忘れたかのように没頭し、最後には余白にびっしりと修正案を書き込んでいた」
(……なんですって?)
私は絶句しました。
それは、私が誰にも見られずに、趣味の「数字の整合性チェック」を行っていた時のことです。
「君は気づいていなかっただろうが、私はその二つ隣の棚で、君の『思考のプロセス』を観察していた。独り言で呟く論理の展開、矛盾を見つけた時のわずかな眉の動き……。それ以来、私は確信したんだ。この国には、ダイヤモンドよりも硬く、磨き抜かれた知性を持つ令嬢がいるとね」
「……殿下、それは褒め言葉の皮律を被った『ストーカー宣言』ではありませんこと?」
「ははは! 手厳しいな。だが、私はただの傍観者でいたわけじゃない。君がセドリック殿下の無茶苦茶な要求を、いかに論理的に、かつ最短ルートで処理し、彼を『有能に見せていたか』もすべて見てきた」
カイル殿下の手帳には、私がこれまでに行ってきた事務処理や、殿下の教育記録が細かくメモされていました。
「君が彼を支えることで、この国の崩壊は免れていた。……だが、同時に私は思っていたんだ。『なぜ、これほどのリソースをドブに捨て続けるのか』とね」
「……それは、私が彼の婚約者として、契約上の義務を果たしていただけですわ」
「その契約が破棄された今、君という最高級の演算機はフリーになった。……私が動かない理由があるかな?」
カイル殿下は身を乗り出し、真剣な眼差しで私に問いかけました。
「ミルム・ファン・アトラス。私は、君の『心』が欲しいと言っているんじゃない。……いや、もちろんそれも興味はあるが、まずは君の『脳』が欲しい。我が国の歪んだシステムを、君のその冷徹な論理で、徹底的に解体し、再構築してほしいんだ」
「……殿下、私は公爵令嬢ですわよ? 他国のシステムエンジニア……いえ、改革者になるなんて、前例がありませんわ」
「前例がない? そんな非論理的な言葉を君が使うのかい? 前例とは、常に『最初の一人』が作るものだ」
私は黙り込みました。
これまでの人生、私は常に「誰かのため」に、自分の能力を削ってきました。
バカな婚約者のフォロー、公爵家の帳簿の穴埋め。
しかし、目の前の男は、私の能力そのものを「主役」として扱おうとしています。
「……ふん。口が上手いですわね。ですが、私はまだメンテナンス中だと言いましたわよ」
「分かっている。だから今日は、君のメンテナンスを加速させるための『プレゼント』を持ってきた」
カイル殿下は執事を呼び、大きな木箱を運ばせました。
開けられた箱の中には、見たこともないほど精密な造りの「魔導計算機」と、最新の経済学論文が詰まっていました。
「……! これは……帝国の最新モデル。それに、この論文はまだ未発表のはずでは……?」
「私のコネクションを総動員して取り寄せた。……どうだい? ジャガイモの計算をするより、よほど刺激的だろう?」
私の指が、吸い寄せられるように計算機のボタンに触れました。
……心地よい打鍵感。
……論理の海が、目の前に広がっていくような感覚。
「……殿下。貴方は本当に、性格が悪いですわね」
「最高のご褒美だろう?」
私は、自分の唇がわずかに弧を描いていることに気づきました。
カイル殿下は、私の「正論」ではなく、その裏側にある「知的欲求」を正確に射抜いていたのです。
「……朝食の時間は終わりですわ。私はこれから、この計算機の精度を検証しなくてはなりませんもの。お引き取りください」
「ああ。検証が終わる頃に、また来るよ。……次は、君が断りきれないほどの『難題』を持ってね」
カイル殿下は満足げに立ち上がり、優雅に一礼して去っていきました。
静かになった部屋で、私は新しい計算機を見つめました。
自由。
それは単に何もしないことではなく、自分の意志で「何に知能を費やすか」を決めること。
(……カイル殿下。貴方の論理に、私がどこまで付き合ってあげるか……。まずは、この計算機の誤差を修正してから考えましょうか)
私は、かつてないほど高揚した気分で、ペンを手に取ったのでした。
テーブルの上には、焼きたてのクロワッサンと、温度管理が徹底されたダージリンティーが並んでいます。
私は優雅にティーカップを傾けながら、向かいに座る「招かれざる……いえ、勝手に来た客」を観察しました。
「……それで、カイル殿下。貴方は一体、いつからあそこで待機していらしたの? 私の予測では、殿下が門前に現れる少なくとも三十分前には、馬車の中で待機していたはずですわ」
カイル殿下は、サラダのパプリカをピンセットのように正確な動作でフォークに刺し、口へ運びました。
「さすがだね、ミルム嬢。正解は三十五分前だ。セドリック殿下の『起床から逆上までの平均時間』を計算すれば、あの時刻にここへ来るのは自明の理だったからね」
「……他国の王子の生活リズムをデータ化して予測するなんて、随分と暇なんですのね。それとも、よほど性格が歪んでいらっしゃるのか」
「知的好奇心の充足、と言ってほしいな。……ところで、君は昨夜のパーティーで、私がなぜあのようなタイミングで声をかけたか、疑問に思わなかったかい?」
私はカップをソーサーに戻し、彼を真っ直ぐに見つめました。
「ええ。貴方は、まるで舞台の袖で出番を待つ役者のようでしたわ。……殿下、貴方はいつから、私を『観察』していらしたの?」
カイル殿下は、楽しそうに目を細めました。
彼はポケットから、古びた手帳を取り出し、テーブルの上に置きました。
「一年半前。君が学院の図書館で、誰も見向きもしない『近世農政における税収の統計的矛盾』という論文を読んでいた時からだ。君は三時間、一度も瞬きを忘れたかのように没頭し、最後には余白にびっしりと修正案を書き込んでいた」
(……なんですって?)
私は絶句しました。
それは、私が誰にも見られずに、趣味の「数字の整合性チェック」を行っていた時のことです。
「君は気づいていなかっただろうが、私はその二つ隣の棚で、君の『思考のプロセス』を観察していた。独り言で呟く論理の展開、矛盾を見つけた時のわずかな眉の動き……。それ以来、私は確信したんだ。この国には、ダイヤモンドよりも硬く、磨き抜かれた知性を持つ令嬢がいるとね」
「……殿下、それは褒め言葉の皮律を被った『ストーカー宣言』ではありませんこと?」
「ははは! 手厳しいな。だが、私はただの傍観者でいたわけじゃない。君がセドリック殿下の無茶苦茶な要求を、いかに論理的に、かつ最短ルートで処理し、彼を『有能に見せていたか』もすべて見てきた」
カイル殿下の手帳には、私がこれまでに行ってきた事務処理や、殿下の教育記録が細かくメモされていました。
「君が彼を支えることで、この国の崩壊は免れていた。……だが、同時に私は思っていたんだ。『なぜ、これほどのリソースをドブに捨て続けるのか』とね」
「……それは、私が彼の婚約者として、契約上の義務を果たしていただけですわ」
「その契約が破棄された今、君という最高級の演算機はフリーになった。……私が動かない理由があるかな?」
カイル殿下は身を乗り出し、真剣な眼差しで私に問いかけました。
「ミルム・ファン・アトラス。私は、君の『心』が欲しいと言っているんじゃない。……いや、もちろんそれも興味はあるが、まずは君の『脳』が欲しい。我が国の歪んだシステムを、君のその冷徹な論理で、徹底的に解体し、再構築してほしいんだ」
「……殿下、私は公爵令嬢ですわよ? 他国のシステムエンジニア……いえ、改革者になるなんて、前例がありませんわ」
「前例がない? そんな非論理的な言葉を君が使うのかい? 前例とは、常に『最初の一人』が作るものだ」
私は黙り込みました。
これまでの人生、私は常に「誰かのため」に、自分の能力を削ってきました。
バカな婚約者のフォロー、公爵家の帳簿の穴埋め。
しかし、目の前の男は、私の能力そのものを「主役」として扱おうとしています。
「……ふん。口が上手いですわね。ですが、私はまだメンテナンス中だと言いましたわよ」
「分かっている。だから今日は、君のメンテナンスを加速させるための『プレゼント』を持ってきた」
カイル殿下は執事を呼び、大きな木箱を運ばせました。
開けられた箱の中には、見たこともないほど精密な造りの「魔導計算機」と、最新の経済学論文が詰まっていました。
「……! これは……帝国の最新モデル。それに、この論文はまだ未発表のはずでは……?」
「私のコネクションを総動員して取り寄せた。……どうだい? ジャガイモの計算をするより、よほど刺激的だろう?」
私の指が、吸い寄せられるように計算機のボタンに触れました。
……心地よい打鍵感。
……論理の海が、目の前に広がっていくような感覚。
「……殿下。貴方は本当に、性格が悪いですわね」
「最高のご褒美だろう?」
私は、自分の唇がわずかに弧を描いていることに気づきました。
カイル殿下は、私の「正論」ではなく、その裏側にある「知的欲求」を正確に射抜いていたのです。
「……朝食の時間は終わりですわ。私はこれから、この計算機の精度を検証しなくてはなりませんもの。お引き取りください」
「ああ。検証が終わる頃に、また来るよ。……次は、君が断りきれないほどの『難題』を持ってね」
カイル殿下は満足げに立ち上がり、優雅に一礼して去っていきました。
静かになった部屋で、私は新しい計算機を見つめました。
自由。
それは単に何もしないことではなく、自分の意志で「何に知能を費やすか」を決めること。
(……カイル殿下。貴方の論理に、私がどこまで付き合ってあげるか……。まずは、この計算機の誤差を修正してから考えましょうか)
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