婚約破棄? 喜んで! …その前に訂正を求めますわ!

萩月

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カイル殿下から贈られた魔導計算機のキーを叩く音だけが、午後の書斎に響いていました。

「……なるほど。この演算速度なら、領地の過去十年の気象データと収穫量の相関関係を、わずか三十分で弾き出せますわね。素晴らしい効率ですわ」

私は悦びに浸っていました。
数字は裏切らない。論理は嘘をつかない。
そんな私の至福の時間を邪魔するように、庭の方から「ドシン! ドシン!」という、知性のかけらも感じられない足音が近づいてきました。

「おい、ミルム! そこにいるのは分かっているぞ! セドリック殿下の命により、貴様を連行しに来た!」

窓の外を見ると、そこには鎧をギラつかせた大男が立っていました。
王宮騎士団でも随一の怪力を誇ると噂の、バルトロ中尉です。

私は深いため息をつき、計算機のカバーを丁寧に閉じました。

「……お父様も、不法侵入者を通すなんてセキュリティが甘すぎますわ。後で警備コストの再計算を提案しなくては」

私はバルコニーへ出ると、下で鼻息を荒くしている大男を冷ややかに見下ろしました。

「バルトロ中尉。貴方がそこに立っていることで、私の庭の芝生が平方センチメートルあたり約百二十キログラムの圧力で踏み荒らされています。その修繕費、貴方の給料から差し引いてもよろしいかしら?」

「黙れ、小娘! 殿下は怒っておられる! 『理屈をこねる女は、力でねじ伏せて連れてこい』との仰せだ!」

中尉は背中の大剣を引き抜き、空中で振り回しました。
野蛮です。あまりに非効率なデモンストレーションです。

「……殿下の命令の語彙力については今更追求しませんが。中尉、貴方は今、重大な『エネルギーの無駄遣い』をしていますわよ」

「ああん? エネルギーだと?」

「ええ。その大剣を意味もなく振り回すことで、貴方の体温は上昇し、発汗によって水分と電解質が失われています。さらに、その重い鎧を着たまま叫び続けるのは、肺活量の無駄使い。戦闘が始まる前に疲弊してどうするのですか?」

中尉は一瞬、呆気に取られたように動きを止めました。

「な、何を……。俺様は王宮一の力自慢だ! こんな重い剣、一日中振り回したって平気なんだよ!」

「それは医学的に不可能ですわ。筋肉の収縮にはATP(アデノシン三リン酸)の消費が不可欠であり、乳酸の蓄積を無視できる生物はこの世に存在しません。貴方が主張しているのは『私は生物学の法則を超越した怪物です』という、極めて非論理的な妄想ですわ」

「ぐ、ぐぬぬ……! 理屈を並べるな! 男は力、女は愛嬌だ! 大人しく縛り上げられてろ!」

中尉が私を捕らえようと、壁の蔦(つた)を掴んで登ろうとしました。

「……お待ちになって。その蔦の耐荷重は最大でも八十キログラム。貴方の体重と鎧の総重量、さらに加速度を加えれば……」

バキッ。

「うわあああ!?」

中尉は二メートルほど登ったところで、蔦が根元から千切れ、無様に地面へと落下しました。
ドスン、という鈍い音が響きます。

「……という風に、重力加速度 $9.8m/s^2$ の法則に従って落下するのは自明の理ですわ。私の警告を聞かないからそういうことになるのです」

「い、痛え……。クソっ、卑怯な術を使いやがって……!」

「術ではありません、物理です。中尉、貴方のその自慢の筋肉も、正しく物理法則を理解していなければ、ただの重荷でしかありませんわよ。例えば……その構え」

私は立ち上がろうとする中尉の足元を指差しました。

「右足に重心が寄りすぎています。その状態で大剣を振れば、遠心力によって貴方の体軸は左へ大きくブレる。私が一歩左へ動くだけで、貴方は自らの重さでバランスを崩し、無様に回転して顔面を強打するでしょう。試してみます?」

中尉は構えた剣を止めたまま、凍りついたように動けなくなりました。

「……どうしました? 力でねじ伏せるのでしょう? それとも、自分の行動がもたらす悲惨な結末を、ようやく脳が演算し始めましたかしら?」

「あ、ああ……あう……」

「筋肉は脳の命令に従う末端組織に過ぎません。その指令塔である脳が、私の提示した論理的な死角に恐怖を抱いている。……これでは、勝負になりませんわね」

中尉がガタガタと震え始めた時、庭の木陰からパチパチと拍手の音が聞こえてきました。

「素晴らしい。筋肉の構造から重心移動、さらには熱力学的な視点での挑発。……これほど完璧な『不戦勝』は初めて見たよ」

カイル殿下が、いつの間に来たのか、優雅に姿を現しました。

「カ、カイル殿下!? なぜここに……」

「中尉。君を雇ったセドリック殿下は、一つ大きな計算違いをしていたようだね。ミルム嬢を力で屈服させるには、まず『重力』と『物理法則』を買収してから来るべきだった」

カイル殿下は中尉の肩をポンと叩き、哀れみの視線を向けました。

「……君はもう帰りなさい。そして殿下に伝えろ。『ミルム嬢に挑むなら、せめて三桁の掛け算を暗算できるようになってからにしろ』とね」

「は、はいぃっ!」

中尉は剣を鞘に収めるのも忘れ、尻尾を巻いた犬のように逃げ去っていきました。
また一つ、公爵家の庭に静寂が戻ります。

「……殿下。いつからそこに?」

「彼女の蔦が耐えきれなくなる三分前だ。助けに入ろうかと思ったが、君の講義があまりに面白くてね」

カイル殿下はバルコニーを見上げ、眩しそうに目を細めました。

「筋肉より論理。……君の隣にいると、この世界のすべてが数式に見えてくるよ、ミルム」

「……お世辞は結構ですわ。私はただ、無駄な喧嘩に時間を割きたくなかっただけですもの」

私は冷たく言い放ちましたが、胸の奥で小さな高鳴りがしているのを、必死で無視しました。
バカの相手には慣れていましたが、こうして自分の思考を肯定してくれる存在がいることは……。

(……論理的に言って、少しばかり『気分が良い』というカテゴリーに分類されますわね)

私は計算機の元へ戻るため、殿下に背を向けました。
自由な生活十日目。
私は「力」という不確かなものより、「知性」という研ぎ澄まされた武器の価値を、改めて確信したのでした。
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