婚約破棄された悪役令嬢~金貨と狂犬大公、どちらが効率的ですか?〜

萩月

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「失礼する」

ノックの音とともに現れたのは、氷のように冷たい男だった。

きっちりと撫でつけた髪。
神経質そうな薄い唇。
そして、顔の半分を覆うような銀縁眼鏡。

帝都から派遣された査察官、ゲルハルト。

彼は部屋に入るなり、私とマクシミリアン殿下を交互に見やり、鼻で笑った。

「噂通りの『野蛮な巣窟』かと思えば……意外と片付いているようですね。もっとも、帳簿の中身は泥だらけでしょうが」

嫌味な第一声だ。

マクシミリアン殿下が不機嫌そうに唸る。

「ああん? 言いたいことはそれだけか、ゲルハルト。用がないなら帰れ。貴様の顔を見ると、部下が腹痛を起こすんだよ」

「相変わらずの暴言ですね、マクシミリアン閣下。ですが、今回はそうはいきません。宰相閣下より『厳格な監査』を命じられておりますので」

ゲルハルトは持参した鞄から、分厚いファイルをドサリと机に置いた。

「直近三ヶ月の出納記録。全て洗わせていただきました。……酷いものですね。使途不明金、過剰な飲食費、そして謎の備品購入。これは明らかに『横領』の疑いがあります」

「横領だと? 俺がいつ金を盗んだ」

「盗んだとは言いません。使い方が『不適切』だと言っているのです。例えばこれ」

彼は一枚の書類を指差した。

「『筋肉増強用特別食費』……金貨三百枚。たかが食事に、これほどの予算を割く必要がどこにありますか? 兵士など、麦粥でも食わせておけばいいのです」

殿下の眉がピクリと跳ね上がる。
空気が張り詰める。
暴力(物理)が発動する五秒前だ。

(……出番ですね)

私は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、静かに一歩前へ出た。

「お待ちください、査察官殿」

「ん? 誰だ、君は。大公の愛人か?」

「いいえ。『環境整備コンサルタント』兼『臨時経理責任者』のクリスティーンと申します」

私は優雅にカーテシーをした後、ゲルハルトの目の前に自分のファイルを叩きつけた。

「その『特別食費』について、ご説明させていただきます」

「説明? 言い訳の間違いだろう?」

「いいえ、合理的根拠の提示です。まず、こちらのグラフをご覧ください」

私は手書きの折れ線グラフを指し示した。

「これは、当砦の兵士の『負傷率』と『食事の質』の相関データです」

「は……?」

「以前の『麦粥のみ』の期間、兵士のスタミナ不足による任務中の負傷率は40%を超えていました。しかし、高タンパク・高カロリーな食事を導入して以降、負傷率は5%まで激減しています」

私は畳み掛ける。

「負傷した兵士の治療費、休業補償、そして戦力ダウンによる代替要員の採用コスト。これらを合算すると、金貨五百枚の損失となります。対して、食費の増加分は三百枚。つまり、二百枚の『経費削減』に成功しているのです。これを無駄遣いと呼びますか?」

「なっ……」

ゲルハルトが言葉に詰まる。
私はさらにページをめくった。

「次に、『過剰な宴会費』について。これは『福利厚生費』として計上すべきものです」

「ふ、福利厚生だと? ただの酒盛りだろう!」

「当砦の勤務地は、魔獣が出没する危険地帯であり、かつ娯楽の一切ない僻地です。このような過酷な環境下で、兵士のメンタルヘルスを維持するためには、定期的なガス抜きが必須です」

私は別の資料を取り出す。

「帝都の騎士団の離職率は年間15%。対して、当砦の離職率は『ほぼ0%』です。採用教育コストが一切かかっていない。これは奇跡的な数字ですよ? その秘訣が『酒盛り』にあるとしたら、安い投資だと思いませんか?」

「ぐぬぬ……」

ゲルハルトの額に汗が滲む。
彼は焦ったように、別の項目を指差した。

「で、では、これはどうだ! 『武器修繕費』の異常な高騰! 新品を買ったほうが安いレベルだぞ!」

「ああ、それですか」

私は冷ややかに言い放った。

「それは、中央からの配給品が『粗悪品』だからですが?」

「な、なんだと!?」

「こちらが、先月届いた剣の金属疲労テストの結果です。規定の強度の半分もありませんでした。一回振れば折れるようなナマクラを送っておいて、現場で修理するなというのは、兵士に『死ね』と言うのと同じです」

私はゲルハルトに詰め寄った。

「むしろ、こちらから請求させていただきたい。粗悪品納入業者との癒着疑惑について、宰相閣下に監査を依頼すべき案件では?」

「ば、馬鹿な! そんなはずは……!」

「証拠の折れた剣なら、倉庫に山ほど保管してありますが? 今すぐ現物確認に行きますか? それとも、この場で私が宰相閣下への告発状をしたためましょうか?」

「ひ、ひぃ……!」

ゲルハルトが後ずさる。
その顔色は蒼白だった。

論理、データ、そして現場の事実。
机上の空論で武装しただけの官僚に、百戦錬磨の(元ブラック企業社員並みの)私が負けるはずがないのだ。

「……いかがいたしますか? このまま監査を続けますか? それとも、『当砦の会計は極めて健全かつ効率的である』という報告書にサインをなさいますか?」

私はニッコリと微笑み、ペンを差し出した。
それは、婚約破棄の時に王子に向けたものと同じ、悪魔の微笑みだったはずだ。

「わ、わかった……! 私の負けだ……!」

ゲルハルトは震える手で書類にサインをした。

「だが、覚えておけ! こんな小娘に国政が操られてたまるか! この件は必ず宰相閣下に報告するからな!」

彼は捨て台詞を吐き、逃げるように部屋を出て行った。

バタンッ!

扉が閉まると、静寂が戻った。

「……ふぅ。チョロいですね」

私は眼鏡を直し、肩の力を抜いた。

「勝った……のか?」

後ろで固まっていたマクシミリアン殿下が、呆然と呟く。

「はい、完全勝利です。これで当分、中央からのいちゃもんは来ないでしょう」

私が振り返ると、殿下は腹を抱えて笑い出した。

「ハッハッハッハ!! すげぇ! 傑作だ! あの『毒蛇』ゲルハルトが、尻尾を巻いて逃げ出しやがった!」

殿下は涙を流しながら、私の背中をバンバンと叩いた。
痛い。骨が折れる。

「お前、最高だ! 剣を使わずに人を斬るとは、まさにこのことだな!」

「褒め言葉として受け取っておきます。……ですが殿下」

「ん?」

「先ほどの『粗悪品の剣』の話。あれ、実は半分ハッタリです」

「は?」

「実際に強度は低かったですが、すぐに折れるほどではありません。殿下の部下たちが馬鹿力で振り回すから折れるのです。……なので、今後は武器の扱いをもっと丁寧にするよう指導してくださいね?」

私はウィンクしてみせた。

殿下は一瞬きょとんとし、それからさらに大きな声で笑った。

「くくっ……ハハハ! 悪党だな、お前も!」

「心外です。私はただの、優秀な経理担当ですよ」

こうして、私は「VS陰湿メガネ」の戦いを制した。

だが、この勝利が、私の名を帝都の中枢――冷徹な宰相の耳にまで届かせてしまうことになる。

「あーあ、目立ちたくなかったのに」

私のスローライフ計画は、順調に「国家を巻き込む大騒動」へとシフトしつつあった。
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