婚約破棄された悪役令嬢~金貨と狂犬大公、どちらが効率的ですか?〜

萩月

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ボルマン子爵邸での「カツアゲ……いえ、視察」を終えた私たちは、夜風を切って馬を走らせ、砦へと戻ってきた。

「ふぅ……。本日の収支報告です」

執務室に戻るなり、私は手帳を開いた。

「寄付金の総額、金貨三百五十枚。貴族たちの貴金属の売却益見込み、金貨二百枚。……時給換算すると、私の人生で最も効率の良い労働でした」

私は満足げに眼鏡を直す。

「お前なぁ……帰ってきて早々、金の話かよ」

マクシミリアン殿下は呆れたように笑い、上着を脱ぎ捨ててソファに寝転がった。
その手には、子爵邸から「お土産」として持ち帰った(強奪した)高級ワインのボトルがある。

「飲みますか、殿下?」

「おう。お前も付き合え」

「私は勤務中ですので」

「勤務? 今はプライベートだろ。ほら、座れ」

殿下は強引に私の手首を掴み、隣に座らせた。

近い。

ソファが沈み込み、彼との距離が縮まる。
酒の匂いと、夜風に冷やされた革の匂い、そして彼自身の体温が伝わってくる。

「……殿下。距離が近すぎます。ソーシャルディスタンスを確保してください」

「うるせぇ。暖房代わりだ」

彼はボトルをラッパ飲みし、ふぅ、と熱い息を吐いた。
顔が少し赤い。
どうやら、いつもの安酒よりも度数が高いようだ。

「……おい、クリスティーン」

「なんでしょう」

「今日のあれ、最高だったな」

「集金のことですか?」

「違う。貴族どもが、お前の言葉一つで青ざめて、震え上がってたところだ」

殿下は楽しそうにクックッと喉を鳴らした。

「俺はな、今まで力でねじ伏せるしか知らなかった。だが、お前は言葉と計算だけで、奴らを完全に支配した。……ゾクゾクしたぜ」

「それはどうも。ですが、あれは単なる事実の列挙です」

「それがいいんだ。お前は俺にない『武器』を持ってる。……やっぱり、お前は俺の隣にいるべきだ」

彼は酔った目で私を見つめてくる。
その瞳は、普段の鋭い赤色ではなく、どこか蕩けるような、甘い色をしていた。

(……危険ですね)

私の防衛本能が警鐘を鳴らす。
この雰囲気は、私の「スローライフ計画」にとって最大の阻害要因だ。

私はさりげなく立ち上がろうとした。

「さて、夜も更けましたし、私は明日の朝食の仕込み確認に……」

「逃げるな」

ガシッ。

太い腕が、私の腰を抱き寄せた。

「きゃっ!?」

抵抗する間もなく、私はソファに押し戻され――いや、もっと悪いことに、殿下が私に覆い被さるような体勢になった。

いわゆる、ソファドンである。

「で、殿下!?」

「どこに行くつもりだ。厨房か? それとも、まだ『引退生活』なんて寝言を考えてるのか?」

殿下の顔が目の前にある。
整った鼻筋、長い睫毛、そして獲物を逃さない肉食獣の瞳。

「こ、困ります! これはセクシャルハラスメントに該当します! 慰謝料請求の対象ですよ!」

「金ならやる。俺の全財産、お前が管理してるだろ?」

「そういう問題では……っ!」

「クリスティーン」

彼は私の名前を呼んだ。
低く、掠れた声で。
その響きが、鼓膜を震わせ、背筋をゾクリとさせる。

「なぜ、そんなにここから出たい? 俺の待遇が不満か?」

「ふ、不満とかではなく……私は平穏が欲しいのです! 戦いも、政治も、面倒ごともない生活が!」

「なら、俺がくれてやる」

「はい?」

「お前が平穏を望むなら、俺がこの国の敵を全員ぶっ潰して、平和にしてやる。面倒ごとは俺が切り捨てる。お前が望むもの、全部俺が叶えてやる」

殿下の手が、私の頬に触れた。
ゴツゴツとした、剣ダコのある指先。
けれど、触れ方は壊れ物を扱うように優しい。

「だから……俺じゃ、ダメか?」

「――っ」

思考が停止した。

ダメか、と聞かれたら、論理的には「ダメです」と答えるべきだ。
彼は野蛮で、乱暴で、部屋を汚すし、計画性がない。
私の理想とする「理知的で静かなパートナー」とは対極にいる。

だというのに。

なぜ、私の心臓はこんなにうるさいのだろうか。

ドクン、ドクン、ドクン。

早鐘を打つ心音が、彼に聞こえてしまいそうだ。

(これは……不整脈? それともカフェインの摂りすぎ? いいえ、今の状況におけるストレス反応……?)

私が必死に脳内で言い訳を探していると、殿下がさらに顔を近づけてきた。
唇が触れそうな距離。

「……お前、顔が赤いぞ」

「き、気のせいです! 室温が高いせいです!」

「そうか? 俺には、お前が動揺してるように見えるが」

殿下はニヤリと笑った。
勝ち誇ったような、でもどこか安心したような笑顔。

「……悪役令嬢ってのは、もっとふてぶてしいもんじゃないのか?」

「私は悪役令嬢ではありません! ただの合理主義者です!」

「なら、合理的に答えろ。……今、俺に抱かれて、嫌だと感じたか?」

直球すぎる質問。
私は息を呑んだ。

嫌悪感はない。
恐怖もない。
あるのは、どうしようもないほどの「ドキドキ」だけだ。

「……計算、不能です」

私は目を逸らし、蚊の鳴くような声で答えた。

「今の私の生体反応は、論理的な説明がつきません。よって、回答を保留します」

「ハッ! 保留かよ」

殿下は楽しそうに笑い、ようやく体を離してくれた。
ただし、私の頭を乱暴に撫で回しながら。

「いいぜ、待ってやる。俺は気が長いんだ。……獲物が罠にかかるのを待つのは、狩りの基本だからな」

「誰が獲物ですか!」

「お前だろ。もう半分くらい、足を取られてる気がするがな」

彼は満足げにソファに寝転がり直すと、すぐに寝息を立て始めた。
数秒で熟睡モードだ。
この図太さ、信じられない。

「……馬鹿な人」

私は乱れた髪と眼鏡を直し、寝ている彼を見下ろした。

無防備な寝顔は、起きている時の狂暴さが嘘のように幼く見える。
私はため息をつき、近くにあったブランケットを彼にかけてやった。

「風邪を引かれては、医療費がかかりますからね」

それは精一杯の強がりだ。

私は執務室を出て、自分の部屋へと早足で向かった。
廊下を歩きながら、胸元をぎゅっと握りしめる。

まだ、心臓がうるさい。

「……計算外です。本当に、計算外です」

私は自分の頬が熱いのを感じながら、冷たい壁に額を押し当てた。

「こんな脳筋男にときめくなんて……私の人生設計に、重大なバグが発生しています」

私はまだ認めるわけにはいかない。
この感情の名前を認めてしまえば、私は二度とこの砦から――彼の隣から、離れられなくなってしまう気がしたからだ。

しかし、運命とは皮肉なものだ。

私たちがこうして距離を縮めている間に、国境の向こうからは、私の「平穏」を物理的に破壊しに来る「元・婚約者」たちが迫っていたのである。

愛の告白(?)の余韻に浸る間もなく、次なるトラブルの足音は、すぐそこまで来ていた。
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