婚約破棄された悪役令嬢~金貨と狂犬大公、どちらが効率的ですか?〜

萩月

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「……平和ですね」

私は執務室の窓から、雲ひとつない青空を見上げて呟いた。

「おい、昨日の夜も同じこと言ってなかったか?」

マクシミリアン殿下が、書類(私が作成した『筋肉でもわかる報告書フォーマット』)を片手に突っ込む。

「ええ。ですが、平和は何回確認しても良いものです。この砦の財政は黒字化し、兵士たちの栄養状態は改善され、ヨハンさんの顔色も『死人』から『重病人』くらいには回復しました」

「最後のは回復って言うのか?」

「生存率は上がっています。つまり、私のスローライフ計画……改め『快適なひきこもり計画』の基盤は盤石になりつつあるということです」

私は満足げにコーヒーを啜った。

壁にかけられたカレンダーを見る。
ここに来て二週間。
そろそろ、庭に家庭菜園でも作ろうかと考え始めた、その時だった。

ウゥゥゥゥゥ―――ッ!!

不穏なサイレンの音が、砦全体に鳴り響いた。

「敵襲ぅぅぅッ!!」

廊下から兵士の絶叫が聞こえる。

「ああん? どこのバカだ。俺のティータイムを邪魔する奴は」

殿下が不機嫌そうに立ち上がる。

「魔獣ですか? それとも山賊?」

「いや、このサイレンは『人間』だ。しかも、正規軍の旗を掲げてる」

殿下は窓から外を睨みつけた。

「……ありゃあ、お前の国旗じゃねぇか?」

「え?」

私が窓に駆け寄ると、砦の門前に、見覚えのある紋章を掲げた馬車と、数十名の騎士たちが陣取っていた。
あれは間違いなく、私の祖国、オルコット王国の紋章だ。

「……チッ。嗅ぎつけるのが早いですね」

私は舌打ちをした。
公爵令嬢らしからぬ音が出てしまったが、気にしない。

「どうする? 大砲で吹き飛ばすか?」

「短絡的すぎます。まずは用件を聞きましょう。……まあ、ろくな用件ではないでしょうけど」

私は眼鏡を直し、覚悟を決めた。

「行きますよ、殿下。私の『過去』の清算に」

***

砦の正門前。

そこには、豪奢な服を着た一人の男が、鼻息荒く仁王立ちしていた。
見覚えがある。
元婚約者フレデリックの腰巾着で、外務省の役人である男爵、バーナードだ。

「開門! 開門せよ! 我々はオルコット王国からの正規の使者であるぞ!」

バーナード男爵は、閉ざされた門に向かって叫んでいる。

「うるせぇ!!」

ドガァァン!!

マクシミリアン殿下が、城壁の上から怒鳴り声を浴びせた。
その声圧だけで、男爵の帽子が少し浮いた気がする。

「な、なんだ貴様は! 野蛮な!」

「ここを通したくば用件を言え! 三秒以内にだ! イチ、ニ……」

「ま、待て! 早すぎる! 我々は、そこにいる犯罪者、クリスティーン・オルコットの引き渡しを要求しに来たのだ!」

男爵がビシッと私を指差した。

「……犯罪者?」

私が眉をひそめると、殿下が低い声で唸った。

「おい、クリスティーン。お前、何やったんだ。銀行強盗か?」

「失礼な。私がやったのは『正当な債権回収』と『労働環境からの脱出』だけです」

私は城壁から身を乗り出し、冷ややかな声で返した。

「お久しぶりですね、バーナード男爵。私が犯罪者とは聞き捨てなりませんが、どのような容疑でしょうか?」

「ふん! 出てきたな、悪女め! 容疑は『国家機密の持ち出し』および『公務執行妨害』だ!」

「はぁ?」

「貴様がいなくなったせいで、外務省の重要書類がどこにあるか分からなくなった! これは実質的な『持ち出し』と同じだ! さらに、貴様がいないことでフレデリック殿下の精神が不安定になり、公務が滞っている! これは立派な『妨害』である!」

……開いた口が塞がらない。

それは「私がいないと何もできない無能です」と自己紹介しているだけではないか。

「あのですね……書類の場所なら、全てインデックスをつけて棚にしまってあります。『あかさたな』順も読めないのですか?」

「うるさい! とにかく、貴様は重要参考人だ! 直ちに拘束し、本国へ連行する!」

男爵は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「抵抗すれば、この砦ごと『外交問題』として訴えるぞ! 野蛮なバルトアン帝国など、我が国の経済制裁があればひとたまりも……」

ブチッ。

隣で、何かが切れる音がした。

見ると、マクシミリアン殿下のこめかみに、ミミズのような青筋が浮かび上がっている。
手元の石壁(硬い花崗岩)が、彼の手によって粉々に砕かれていた。

「……おい、三流役人」

殿下の声は、地獄の底から響いてくるようだった。

「ひっ」

男爵が悲鳴を上げる。

「今、なんて言った? クリスティーンを連行する? 拘束するだと?」

「そ、そうだ! 彼女は我が国の所有物であり……」

「所有物?」

ドォォォォォン!!!

殿下は城壁から飛び降りた。
高さ十メートルはある場所から、着地音だけで地面を揺らして。

土煙の中から、彼はゆらりと立ち上がった。
その背後には、赤黒いオーラのような殺気が渦巻いている。

「あいつはモノじゃねぇ。人間だ。……いや、それ以上だ」

殿下は一歩ずつ、男爵に歩み寄る。

「あいつは、俺の飯を作り、俺の城を掃除し、俺の金を管理し、俺に説教できる唯一の女だ」

「な、なな、何を訳のわからぬことを……!」

「つまりだ」

殿下は男爵の胸ぐらを片手で掴み上げ、軽々と宙に浮かせた。

「俺の『宝』に手を出そうってのか? ああん?」

「ヒィィィッ!! ご、誤解です! これは勅命で……!」

「知るか。王だろうが神だろうが関係ねぇ」

殿下の赤い瞳が、ギラリと光った。

「クリスティーンは俺が拾った。俺が選んだ。だから、あいつは俺のもんだ。……文句があるなら、俺を倒してから言え」

(……殿下)

城壁の上で見ていた私は、思わず胸を押さえた。

「俺のもの」という独占欲丸出しの言葉。
普段なら「所有権の侵害です」と論破するところだ。
だが、なぜだろう。
今はその言葉が、どんな騎士の誓いよりも頼もしく、そして――甘く響いてしまう。

「と、とにかく放せ! 野蛮人め!」

男爵がジタバタと暴れる。

「おう、放してやるよ。……国境の向こう側にな」

殿下はニヤリと笑うと、野球のピッチャーのように振りかぶった。

「え、ちょ、待っ……」

「失せろぉぉぉぉぉッ!!!」

ズドォォォン!!!

男爵は星になった。
いや、正確には放物線を描いて、森の向こう側へと飛んでいった。

残されたオルコットの騎士たちは、呆然と空を見上げ、そして一斉に青ざめた。

「つ、次は誰だ! まとめて飛ぶか!?」

殿下が吼える。

「ひぃぃぃ! 撤退! 撤退だぁぁぁ!」

騎士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
所要時間、わずか五分。
外交交渉(物理)の終了である。

「……ふん。口ほどにもねぇ」

殿下は手をパンパンと払い、何食わぬ顔で城壁を見上げてきた。

「おいクリスティーン! ゴミ掃除終わったぞ! 茶の続きだ!」

その笑顔は、まるで「褒めてくれ」と言わんばかりの無邪気さだ。

私はため息をつき、しかし自然と口元が緩むのを止められなかった。

「……本当に、手の掛かる飼い犬ですね」

私は呟き、階段を降りた。

だが、私は知っていた。
あの男爵はただの先触れに過ぎない。
「国家機密(=私の事務能力)」を取り戻すために、なりふり構わなくなった祖国が、次なる手を打ってくることを。

そしてその「次なる手」こそが、あの迷惑極まりない元婚約者本人であることを、私たちはまだ知らない。

「……とりあえず、殿下には追加の『用心棒代』として、夕食にハンバーグでも作ってあげましょうか」

私は少しだけ軽やかな足取りで、厨房へと向かった。
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