婚約破棄された悪役令嬢~金貨と狂犬大公、どちらが効率的ですか?〜

萩月

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「……飛びましたね」

私は城壁の上で、遥か彼方の空を見つめたまま呟いた。

「おう。いい角度だったな」

マクシミリアン殿下は、満足げに腕を回してストレッチをしている。

「肩の調子も悪くねぇ。次は二人まとめて投げられそうだ」

「次はやめてください。外交問題が悪化します」

私は溜め息をついた。
バーナード男爵は、おそらく国境の緩衝地帯にある深い森に着地しただろう。
命があれば運がいい。
なければ、森の生態系の一部として貢献することになる。

「しかし、殿下。あのような暴力的な解決方法は、短期的には有効ですが、長期的にはリスクを伴います」

私は冷静に分析を始めた。

「祖国オルコット王国は、私の『事務処理能力』を取り戻すために必死です。今回の失敗を受けて、次はより強硬な手段に出るか、あるいは……」

「あるいは?」

「情に訴えかけてくるか、ですね」

私は眼鏡を直した。
あのプライドの高い王家が、なりふり構わず「泣き落とし」に来る可能性もゼロではない。
特に、あの思考回路がお花畑な元婚約者なら、「愛の力で説得できる」と勘違いして乗り込んでくるかもしれない。

「情、ねぇ……」

殿下はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「お前、あいつらに未練あんのか?」

「ありません」

即答である。
コンマ一秒の迷いもない。

「私は彼らに搾取され続けました。感謝されたことも、労われたこともない。あるのは『やって当たり前』という押し付けだけです。そんな職場に戻る理由は、合理的にも感情的にも皆無です」

「だよな」

殿下はニヤリと笑った。

「安心しろ。お前を連れて行こうとする奴は、全員俺が空へ還してやる」

「……物理的な解決は最終手段にしてくださいと言っています」

私は苦言を呈したが、内心では少し救われていた。
「空へ還す」という物騒な表現だが、それは彼なりの「絶対にお前を守る」という誓いだからだ。

***

その日の夜。

私は執務室で、今後の対策を練っていた。
もし祖国が軍を動かしてきた場合、この砦の防衛ラインをどう維持するか。
兵站の確保、弾薬の在庫、そして避難経路。

「……計算上は、三ヶ月は持ちこたえられますね」

私は羊皮紙に数字を書き込みながら、独りごちた。

「だが、それがお前の望む『スローライフ』か?」

ふいに、背後から声がした。
振り向くと、マクシミリアン殿下が立っていた。
手には、どこから持ってきたのか、温かいミルクが入ったマグカップが二つ。

「……殿下。ノックを」

「したぞ。心の目で聞け」

「無理難題を言わないでください」

殿下は私の向かいの椅子にドカッと座り、マグカップを差し出した。
砂糖と蜂蜜の甘い香りがする。

「飲め。頭使いすぎると糖分が欲しくなるんだろ」

「……気が利きますね」

「ヨハンに聞いたんだ。『クリスティーン様は根詰まると眉間の皺が深くなるので、甘いものを投入してください』ってな」

「ヨハンさん……余計なことを」

私は苦笑しつつ、カップを受け取った。
温かい液体が喉を通り、疲れた脳に染み渡っていく。

「……クリスティーン」

「はい」

「さっきの話だがな」

殿下はマグカップを両手で包み込みながら、珍しく真面目な顔をした。
赤い瞳が、揺れる蝋燭の炎を映している。

「お前の国は、お前の『能力』を欲しがってるんだよな」

「ええ。安くて便利な計算機だと思っていますから」

「俺もだ」

ドキリ、とした。

「俺も、お前の能力を買ってる。計算ができる、飯が美味い、城が片付く。……お前がいなけりゃ、この砦はまた元のゴミ溜めに戻っちまうだろうな」

殿下の言葉は、事実だ。
彼もまた、私の能力を評価し、利用している。
構造としては、祖国と同じだ。

「……そうですね。ですから私は、ここで『業務』をこなし、対価として『安全』と『生活』を得ている。健全な契約関係です」

私は努めて事務的に返した。
胸の奥が少しチクリとしたけれど、それは無視した。

「だがな」

殿下は身を乗り出した。
机越しに、彼の手が伸びてくる。
そして、私の眼鏡をそっと外した。

「えっ……」

視界が少しぼやける。
けれど、至近距離にある彼の顔だけは、はっきりと見えた。

「俺が欲しいのは、計算機じゃねぇ」

「……では、何ですか」

「お前だ」

低い声。
けれど、確信に満ちた強い響き。

「お前が計算をミスしても、飯を焦がしても、掃除をサボっても構わねぇ。……ただ、俺の隣で、あの生意気な口を叩いて、笑っていてくれればいい」

「……それは、非効率です」

私は反論しようとした。
声が震えてしまう。

「能力のない私に、価値などありません。給料泥棒になります」

「価値なら俺が決める。俺がお前を気に入ってる。それだけで十分だろ」

殿下の指が、私の目尻を優しく撫でた。

「国のためとか、役目とか、そんなもん知るか。俺はお前という女が欲しい。……それだけだ」

「…………」

言葉が出なかった。

祖国では、常に「公爵令嬢として」「王子の婚約者として」「有能な補佐役として」の価値しか求められなかった。
クリスティーンという個人を見てくれた人間はいなかった。

けれど、この野蛮で乱暴な「狂犬」は。
私の能力を評価しつつも、それ以上に「私自身」を求めてくれている。

(……ずるいですね)

私は視線を伏せた。
顔が熱い。
ミルクのせいではない。

「……計算、できません」

「ん?」

「貴方様の言葉は、費用対効果も、損益分岐点も、全く計算できません。……ただの感情論です」

「ああ、そうだな」

殿下は嬉しそうに笑った。

「で、その感情論に対するお前の答えは?」

「……保留です」

私は精一杯の虚勢を張った。

「ですが……」

「ですが?」

「眼鏡を返してください。……貴方様の顔がよく見えすぎて、心臓に悪いですから」

殿下は声を上げて笑った。
そして、眼鏡を私の鼻に戻すと、その上からコツンと自分のおでこをぶつけてきた。

「焦らすねぇ。まあいい、時間はたっぷりある」

彼は立ち上がり、私の頭を乱暴に、でも温かく撫でた。

「明日は早いぞ。また変な客が来るかもしれねぇからな。ゆっくり休め」

「はい。おやすみなさい、殿下」

殿下が部屋を出て行った後、私はしばらく動けなかった。

甘いミルクの味と、おでこに残る熱。
そして、「お前が欲しい」という言葉の余韻。

「……本当に、調子が狂います」

私は手帳を開いた。
そこには今後の計画がびっしりと書かれている。
けれど、どのページのどの項目にも、「恋」なんていう不確定要素は書かれていない。

「書き直しですね……」

私は小さく呟き、ペンを取った。
スローライフ計画の修正案。
その一番下に、小さく、誰にも見えないような文字で書き加える。

『但し、隣に狂犬がいる生活も、許容範囲とする』

***

しかし、私の甘い感傷は、翌日またしても物理的に破壊されることになる。

「クリスティーン!! 迎えに来たぞぉぉぉ!!」

砦の門前で響き渡る、聞き覚えのある情けない声。
そして、見覚えのある金髪のキラキラ(今はボロボロ)な王子。

フレデリック殿下が、ついに国境を越えてやってきたのだ。
それも、なぜかリリーナ嬢を伴い、二人揃って涙目で。

「……前言撤回です」

私は城壁の上で、冷めた目をした。

「殿下、あいつらも空へ飛ばしていいですか?」

私の問いに、隣のマクシミリアン殿下は、これ以上ないほど凶悪な笑みで答えた。

「おう。特大のホームランにしてやるよ」

元婚約者との再会は、感動の涙ではなく、物理的な衝撃と共に始まろうとしていた。
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