婚約破棄された悪役令嬢~金貨と狂犬大公、どちらが効率的ですか?〜

萩月

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「……終わりましたね」

重厚な扉が閉まる音と共に、外界の喧騒が遮断された。

そこは、皇城の最奥にある皇帝の私室――すなわち、私たちの寝室だ。

広さはテニスコート一面分ほど。
床には足首まで埋まりそうな真紅の絨毯。
天井には煌びやかなシャンデリア。
そして中央には、大人五人が余裕で寝られそうな、天蓋付きの巨大なベッドが鎮座している。

「ふぅ……」

私はドレスの裾を蹴り上げ、ドサリとソファに座り込んだ。

「本日の総括です。式典の進行遅延、なし。熊の乱入による被害、ケーキの破損のみ。紙飛行機の回収率、九十八パーセント。……概ね、計画通りの『黒字』ウェディングでした」

私は手帳を開こうとした。
いつもの癖だ。
心を落ち着けるために、数字を確認したいのだ。

だが、その手帳は私の手からスルリと奪われた。

「……おい」

頭上から、低い、甘い声が降ってくる。

マクシミリアン――いいえ、夫となった陛下が、私を見下ろしていた。

彼はすでに堅苦しい礼服の上着を脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外している。
鍛え上げられた胸板がチラリと見え、私は反射的に視線を逸らした。

「まだ仕事をする気か? クリスティーン」

「当然です。日報を書かないと、一日が終わりません」

「今日はもう終わりだ。……ここからは『残業』じゃねぇ。夫婦の時間だろ」

彼は私の手帳をサイドテーブルにポンと放り投げた。
そして、私の隣に座り込む。

ソファが沈む。
彼の体温と、微かな残り香――お酒と、彼特有の男らしい香りが漂ってくる。

「……緊張してるのか?」

図星を突かれた。

「まさか。私はいつだって冷静沈着、合理主義の塊です。心拍数が平常時の二割増しで、手汗が少し出ているだけです」

「それを緊張って言うんだよ」

彼はクックッと喉を鳴らして笑い、私の頬に触れた。
その指先は、熊を素手で倒すほど荒々しいはずなのに、触れ方は驚くほど優しい。

「眼鏡、外すぞ」

「……視界がぼやけると、状況把握に支障が出ます」

「俺だけ見えてれば十分だ」

彼は私の返事を待たず、そっと眼鏡を外した。
視界が揺らぐ。
けれど、至近距離にある彼の赤い瞳だけが、鮮明に焼き付いて離れない。

「クリスティーン」

「……はい」

「綺麗だ」

シンプルな言葉。
装飾も、ひねりもない。
けれど、どんな詩的な愛の言葉よりも、私の胸を深く貫いた。

「……貴方様も、悪くありませんよ」

私は精一杯の虚勢で返した。

「熊と戦っていた時よりも、今のほうが少しだけ格好良く見えます」

「そりゃどうも」

彼は私の髪に挿してあった髪飾りを、一つずつ丁寧に外していく。
銀色の髪がパラリと解け、肩に掛かる。

「重かったろ。こんなもん」

「ええ。肩こりが悪化しました。慰謝料を請求したいくらいです」

「よし、払ってやる。……体でな」

彼はニヤリと笑い、私を軽々と抱き上げた。

「きゃっ!?」

世界が反転し、次の瞬間、私はふかふかのベッドの上に降ろされていた。
背中に沈み込む羽毛の感触。
そして上からは、彼が覆い被さってくる。

逃げ場はない。
いや、逃げるつもりもなかった。

「……クリスティーン」

彼の顔が近づく。
影が落ちる。

「今まで、散々待ったぞ。……もう、計算も、理屈も、へ理屈もなしだ」

彼は私の耳元で囁いた。

「今夜は、俺のことだけ考えろ。……頭の中が真っ白になるまで、愛してやる」

「……それは、非効率的ですね」

私は震える声で呟いた。

「思考停止は、私のポリシーに反します……んっ」

言葉は、彼の唇によって塞がれた。

熱い。
蕩けるように熱いキス。
今までのような、挨拶代わりの軽いものではない。
深く、貪るような、所有欲に満ちた口づけ。

「……ふ、ぁ……」

息が続かない。
頭の芯が痺れていく。
本当に、思考回路がショートしそうだ。

(計算……不能……)

私の脳内の電卓が、エラーメッセージを吐き出して停止していく。

予算も、スケジュールも、効率も。
今の私には何一つ思い出せない。

あるのは、目の前の男の熱と、愛おしさだけ。

「……マクシミリアン」

唇が離れた一瞬の隙に、私は彼の名前を呼んだ。
初めて、敬称なしで。

彼は驚いたように目を見開き、それから今まで見たこともないほど嬉しそうに破顔した。

「……やっと呼んだな」

「……一度だけですよ」

「いいや、これから毎日呼ばせる。……朝も、昼も、夜もな」

彼は再び唇を重ねてきた。
今度は優しく、慈しむように。

ドレスの紐が解かれる感触。
肌に触れる彼の手の熱さ。
私は覚悟を決めて、彼の方へと腕を回した。

「……お手柔らかにお願いしますね。明日も仕事がありますから」

「約束はできねぇな。……お前が可愛すぎるのが悪い」

部屋の灯りが消される。

月明かりだけが、二人の影を映し出していた。

そこにあったのは、「悪役令嬢」でも「狂犬大公」でもない。
ただの、不器用で、幸せな恋人たちの姿だった。

夜は長い。
そして、私の「計算」できない幸せな時間は、まだ始まったばかりだった。

***

翌朝。

チュンチュン。

小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。

「……うぅ」

体が重い。
節々が痛い。
まるで、激しい筋トレをした翌日のような気だるさだ。

「……計算外です」

私は枕に顔を埋めて呻いた。

「まさか、あそこまで体力が無尽蔵だとは……。バルトアン人のスタミナ、恐るべしです」

隣を見ると、マクシミリアン――旦那様が、満足げな顔で熟睡していた。
布団からはみ出した肩には、私が無意識につけてしまった引っ掻き傷がある。

「……馬鹿な人」

私はその傷跡に、そっと指で触れた。

「でも……悪くない朝です」

私は彼を起こさないように、そっとベッドを抜け出した。

窓を開けると、帝都の空は今日も煙に覆われているけれど、差し込む朝日はどこまでも眩しかった。

「さて」

私は眼鏡をかけ、落ちていた手帳を拾い上げた。

「今日の予定は……朝食のメニュー改善、ヨハンさんの業務進捗確認、そして……」

手帳の空白ページに、私は新しい項目を書き加えた。

『夫(皇帝)の健康管理と、幸せな家庭の維持』

「……重要度、Sランクですね」

私は一人で微笑み、新しい一日を始めるために、大きく伸びをした。

私のスローライフはどこかへ行ってしまったけれど。
代わりに手に入れたこの騒がしくも愛おしい日常は、一億枚の金貨よりも価値があるのかもしれない。
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