婚約破棄、歓迎~自称聖女を返品不可で引き取って~

萩月

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五日間の旅を経て、私たちが到着したのは「冬の城」と呼ばれる北の要塞だった。

切り立った崖の上にそびえ立つ、黒い石造りの巨城。
背景には万年雪を抱く山々が連なり、吐く息は白く凍る。

「……寒いですね」

馬車から降りた私は、思わず身震いをしてショールをきつく巻き直した。
王都とは空気が違う。
肌を刺すような冷気だが、どこか澄んでいて清々しい。

「すまん。ここは年中こんな気候だ」

オルグレン様が申し訳なさそうに言いながら、私の肩に自分の毛皮のマントを掛けてくれた。
彼の体温が残っていて、驚くほど暖かい。
そして重い。
これを着て平然と歩いている彼の筋力はどうなっているのか。

「歓迎するぞ、ダーリ。ここが俺の……いや、お前の新しい職場だ」

城門の前には、屈強な騎士たちが整列していた。
全員が身長190センチ級の巨漢で、顔には古傷、背中には大剣。
どう見ても「山賊の親玉とその手下たち」にしか見えないが、彼らの眼差しはキラキラと輝いていた。

「閣下! おかえりなさいませ!」
「そちらが噂の『救世主』殿でありますか!?」

一人の騎士が鼻息荒く進み出てきた。

「救世主?」

私が首をかしげると、オルグレン様が気まずそうに視線を逸らした。

「……とにかく、中へ入れ。事務室へ案内する」

私たちは重厚な扉をくぐり、城内へと入った。
外観は無骨だが、内部は暖炉が焚かれ、意外と暖かい。
しかし、廊下を進むにつれて、どこからともなく異様な気配が漂ってきた。

紙の匂いだ。
古本屋の倉庫のような、埃っぽい紙の匂い。

「ここだ」

オルグレン様が、突き当たりにある大きな両開きの扉の前に立った。
プレートには『中央政務室』とある。

「覚悟してくれ」

彼は謎の警告を発してから、扉を開け放った。

「失礼しま――」

私は挨拶をしようとして、言葉を失った。

そこは、地獄だった。
ただし、炎の地獄ではない。
紙の地獄だ。

広い部屋の中央には、天井に届きそうなほどの書類の山が、いくつも連なっていた。
山脈だ。
机が見えない。
床も見えない。
窓すら半分埋まっている。

そして、その山脈の谷間で、数人の文官(に見えるが体格はプロレスラー)が、死んだ魚のような目をして埋もれていた。

「あ、閣下……おかえりなさい……」
「もうだめです……計算が合いません……1+1が田んぼの田に見えてきました……」

ゾンビのような呻き声。

「……これは?」

私が震える声で尋ねると、オルグレン様は遠い目をして答えた。

「過去三年分の、未処理案件だ」

「三年分!?」

「領地の魔物討伐や防衛戦が忙しくてな。事務処理を後回しにしていたら、いつの間にかこうなった」

「いつの間にかで済む量ではありませんわ!」

私はフラフラと部屋の中へ足を踏み入れた。
足元でカサリと音がする。
拾い上げると、それは『一昨年の冬期暖房費請求書(未払い)』だった。

「……オルグレン様」

「なんだ」

「この領地が今まで破綻していなかったことが、奇跡に思えます」

「俺もそう思う。商人が督促に来たら、とりあえず酒を飲ませて腕相撲で勝って帰らせていた」

「物理で解決しないでください!」

私は頭を抱えた。
これは予想以上だ。
王宮のブラック環境など可愛く思えるほどの、カオスがここにはある。

しかし。

不思議なことに、絶望感はなかった。
むしろ、体の奥底からフツフツと湧き上がるものがあった。

(……燃える)

そう、これは挑戦状だ。
私の事務官としてのプライドを刺激する、巨大な敵だ。
王太子殿下の理不尽なワガママに比べれば、ただそこに積まれているだけの書類など、可愛いものではないか。

「……マリー」

「は、はい! お嬢様!」

後ろで震えていたマリーを呼ぶ。

「戦闘準備よ」

「えっ、武器ですか?」

「いいえ。エプロンと三角巾、それから一番書きやすい羽ペンを用意して。あと、換気のために窓を全開にするわよ!」

私はバサリとマントを翻した。
ドレスの袖をまくり上げ、仁王立ちになる。

「総員、注目!」

よく通る声で叫ぶと、死にかけていた文官たちがビクリと顔を上げた。

「これより、この『書類山脈』の殲滅作戦を開始します! 指揮を執るのは私、ダーリ・アークライトです!」

私の宣言に、部屋の空気が変わった。

「まずは分類から始めます! 『即時処理』『保留』『破棄』! この三つに分けること! 日付のない書類は破棄! 読めない文字の書類も破棄! 誰が出したか分からない苦情も全部破棄です!」

「は、破棄していいんですか!?」

一人の文官が泣きそうな顔で聞く。

「三年も放置されて問題になっていないなら、それは重要じゃない証拠です! 燃やします!」

「うおおお! 燃やしていいんだ! 助かったぁぁぁ!」

文官たちが歓喜の雄叫びを上げた。
彼らは長年、「捨てていいのか分からない恐怖」と戦っていたのだ。
誰かが「捨てろ」と命令してくれるのを待っていたのだ。

「オルグレン様!」

「お、おう」

私の剣幕に、さすがの北の英雄もタジタジになっている。

「閣下には、この『決裁待ち』の山を担当していただきます。私が内容を要約して読み上げますので、閣下はひたすら『承認』のハンコを押してください。1秒に1枚のペースでお願いします」

「1秒……?」

「筋肉があれば可能です! さあ、行きますよ!」

そこからは、怒涛の進撃が始まった。

「はい次! 橋の補修工事予算案! 承認!」
「承認!」(バンッ!)

「次! 冬用備蓄食料の追加購入! 承認!」
「承認!」(バンッ!)

「次! 謎の宴会費請求! 却下!」
「却下!」(ビリッ!)

私の読み上げと、オルグレン様のハンコ押し、そして文官たちのゴミ捨て作業が、完璧なリズムで噛み合っていく。
オルグレン様の腕力のおかげで、ハンコの音が「ドォン!」という砲撃音のように響く。

一時間後。
部屋の書類は、目に見えて減っていた。

「す、すごい……」

マリーが呆然と呟く。

「床が見えたわ……三年ぶりに、床の木目を見たぞぉぉ!」

文官の一人が床に頬ずりをして泣いている。

私は額の汗を拭い、ふぅと息を吐いた。

「とりあえず、緊急性の高いものは片付きましたね。あとは……」

私は部屋の隅にある、ひときわ古びた木箱に目を留めた。
厳重に封印されている。

「あれは?」

「……開けるな」

オルグレン様が止めるのも聞かず、私は好奇心で封を解いた。

中から出てきたのは、一枚の古ぼけた羊皮紙。
そこには、震える文字でこう書かれていた。

『始末書:オルグレン辺境伯が、酔っ払って執務室の壁を素手で破壊した件について』

「…………」

私は無言でオルグレン様を見た。

彼は明後日の方向を見て口笛を吹いている(音が出ていないが)。

「……これは、『永久保存』ですね」

「待て! 燃やせ! それは燃やしてくれ!」

「いいえ。閣下の弱みとして、私の机の一番奥にしまっておきます」

「ダーリィィィ!!」

悲鳴を上げる閣下を見て、私は今日一番の笑顔になった。

この職場、思っていたよりもずっと楽しいかもしれない。

「さあ、休憩です! マリー、お茶を淹れて! 閣下、契約通りおやつを出してください!」

「くっ……ポチの分まで取られるとは……」

オルグレン様は渋々といった様子で、隠し持っていた高級クッキーの缶を差し出した。

こうして私の、辺境伯領での最初の一日が、騒がしくも華々しく幕を開けたのだった。
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