婚約破棄、歓迎~自称聖女を返品不可で引き取って~

萩月

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一方、北の地で焚き火の燃料にされていた手紙の差出人、王太子ギルバート。
彼は今、人生最大のピンチ(ただし自覚は薄い)を迎えていた。

場所は王宮の「白薔薇の間」。
隣国、ガルド帝国からの特使を迎えての、重要な外交お茶会である。

「いいかい、ミナ。今日の君の役目は、僕の隣で可愛らしく微笑んでいることだ。それだけでいい」

「はい、ギルバート様! 笑顔ですね! 私、笑顔には自信がありますぅ!」

ピンク色のフリル全開のドレスに身を包んだミナは、自信満々に胸を張った。
その胸元には、ギルバートが贈った宝石がジャラジャラと輝いている。

対面に座るのは、ガルド帝国のシュトロハイム大使。
規律とマナーを重んじる軍事国家の代表であり、その顔は岩のように厳めしい。

「……王太子殿下。本日はこのような席を設けていただき、感謝する」

「いやいや、大使。我が国と帝国の友好のためだ。堅苦しい挨拶は抜きにして、楽にしようじゃないか」

ギルバートは足を組み、優雅に紅茶のカップを傾けた。
内心では(完璧だ。ダーリがいなくたって、僕のカリスマ性があれば外交なんて楽勝さ)と自惚れていた。

しかし。
彼が忘れていることがある。
これまでの外交がスムーズだったのは、ダーリが事前に相手国の好みを徹底的にリサーチし、地雷となる話題を巧みに逸らし、完璧なマナーで相手を接待していたからだということを。

「ところで殿下。国境付近の関税についてだが……」

大使が真面目な話を切り出した、その時だった。

「あっ、大使様! ケーキ食べないんですかぁ? これ、すごく美味しいですよぉ!」

ミナが空気を読まずに割り込んだ。
大使の眉がピクリと動く。

「……今は公務の話をしているのだが」

「えー、でもぉ、せっかくのお茶会なのにぃ。もっと楽しくお話ししましょうよぉ!」

ミナは無邪気(という名の無神経)な笑顔で、大使の皿に勝手にケーキを取り分けようとした。
それも、手掴みでなさそうな距離にあるトングを、思いっきり身を乗り出して取ろうとして。

「あっ」

彼女の肘が、ティーポットに当たった。

ガシャーン!!

熱々の紅茶がたっぷり入ったポットが転倒する。
そして、その注ぎ口から放たれた茶色い液体は、美しい放物線を描いて――。

「ぬぉっ!?」

シュトロハイム大使の、純白の軍服の股間付近を直撃した。

「きゃぁぁぁっ! ごめんなさぁぁぁい!」

ミナの悲鳴が響く。
大使は熱さと屈辱で顔を真っ赤にし、プルプルと震えている。

「き、貴様っ……!」

「あわわ、あわわ! すぐ拭きますっ!」

パニックになったミナが掴んだのは、布巾ではなく、テーブルの上に広げられていた『通商条約の草案(原本)』だった。

「待てミナ! それは重要書類だ!」

ギルバートが止めるのも聞かず、ミナはその羊皮紙で大使の股間をゴシゴシと拭き始めた。

「こ、この無礼者ぉぉぉぉ!!」

大使の堪忍袋の緒が、ブチリと音を立てて切れた。
彼は立ち上がり、インクと紅茶で汚れた羊皮紙を奪い取ると、床に叩きつけた。

「我が国の軍服を汚し、あまつさえ神聖な条約書を雑巾代わりにするとは! これは帝国への宣戦布告と受け取る!!」

「ち、違います大使! 彼女に悪気はないんです! ただちょっと、手元が狂っただけで……!」

ギルバートが必死に弁解するが、大使の怒りは収まらない。

「えぐっ……ひっ……だ、だってぇ……ポットが勝手に倒れたんですぅ……私、悪くないもん……」

さらに最悪なことに、ミナがその場で泣き出してしまった。
「被害者は私」と言わんばかりの泣きっぷりに、大使の顔色は赤から紫へと変わっていく。

「……帰る!!」

大使は踵を返した。

「王太子殿下。貴国の教育水準と外交姿勢、とくと拝見した。この件は皇帝陛下にありのまま報告させていただく!」

「ま、待ってください大使! 誤解だー!」

バタンッ!!

重厚な扉が叩きつけられるように閉まる。
後に残されたのは、紅茶まみれのテーブルと、泣きじゃくるミナと、呆然とするギルバートだけだった。

「……どうしてこうなった……」

ギルバートは頭を抱えた。

その時、彼の脳裏に、かつての婚約者の姿が鮮やかに蘇った。

『殿下。シュトロハイム大使は猫舌ですので、紅茶は65度でお出ししておきましたわ』

『条約書の予備は三部用意してあります。万が一、殿下がコーヒーをこぼされても大丈夫なように』

『大使の機嫌が悪くなりそうでしたので、故郷の話題を振っておきました。あの方、お孫さんの話になるとデレデレになりますのよ』

ダーリ。
あの、いつも冷静で、愛想はないが完璧だった女。
彼女なら、ポットが倒れる前に指一本で支えていただろう。
あるいは、倒れたとしても、それを「新作のパフォーマンスですわ」と言いくるめて、大使を笑わせていたかもしれない。

「……ダーリなら、どうにかしたのに」

思わず、本音が口をついて出た。

それを聞いたミナが、涙で濡れた顔を上げる。

「……ひどいです、ギルバート様! 私だって頑張ったのに! どうしてあの女の名前を出すんですかぁ!」

「い、いや、今のは言葉の綾だ。泣かないでくれミナ」

「私、傷つきましたぁ! 慰めてくれないと動きません!」

ギャーギャーと騒ぐミナをなだめながら、ギルバートは初めて、背筋が寒くなるのを感じていた。

これまでは、何が起きても誰か(ダーリ)が尻拭いをしてくれていた。
でも、今はいない。
誰も助けてくれない。
この惨状――濡れたカーペット、汚れた重要書類、激怒して帰った大使――の責任を、全て自分が負わなければならないのだ。

「……父上に、なんて報告しよう」

ギルバートの顔色が、急速に青ざめていく。

その夜。
王宮の国王執務室からは、先日の請求書騒動を上回る、雷鳴のような怒号が響き渡ったという。

「バカモーーーン!! 外交をなんだと思っているんだ貴様らはぁぁぁぁ!!」

そしてギルバート王太子は、罰として「王宮のトイレ掃除一ヶ月の刑」を言い渡され、ミナ男爵令嬢は「マナー教室への強制収容」が決定した。

しかし、これはまだ序章に過ぎなかった。
ダーリという「安全装置」を失った王家は、坂道を転がり落ちるように、次々とトラブルに見舞われていくことになるのである。

一方その頃。
北の要塞では、ダーリが優雅にお茶を楽しんでいた。

「……あら? なんだか美味しい紅茶ですわね」

「マリーが淹れたやつだ。温度が絶妙だな」

「ええ。平和って、最高のスパイスですわ」

彼女は王都の混乱など知る由もなく、サクサクのクッキーを齧りながら、幸せなティータイムを満喫していたのだった。
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