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王都での騒動を片付け、私たちが北の「冬の城」に戻ってから数日。
平和な日々が戻ってきた――と言いたいところだが、現実は甘くなかった。
「……増えていますね」
「……増えているな」
執務室の中央には、私たちが不在の間に溜まりに溜まった書類が、新たな山脈を形成していた。
その高さ、以前の比ではない。
もはや「山」というより「壁」だ。
デスクの向こうにいるオルグレン様の顔が見えない。
「閣下、生存していますか?」
私が書類の壁越しに声をかけると、ズズズ……と紙が崩れる音がして、オルグレン様の顔がひょっこりと現れた。
「……辛うじて生きている。だが、そろばんを弾く指が限界だ。……親指がつった」
「情けないことを言わないでください。さあ、今夜は残業ですよ。この『未決裁案件のエベレスト』を登頂するまでは帰れません」
「……鬼」
「事務官です」
外は静かな雪夜。
暖炉の火がパチパチと燃え、足元ではポチが「グゥ~」といびきをかいて寝ている。
平和だ。
仕事は地獄だが、あの王都でのドロドロした人間関係に比べれば、ここにあるのは純粋な数字と文字だけ。
精神衛生上、非常にクリーンである。
カリカリ、カリカリ……。
羽ペンの音だけが響く静寂な時間。
「……なあ、ダーリ」
不意に、オルグレン様が手を止めた。
「なんですか? 計算が合いませんか? 1+1は2ですよ?」
「違う。……話がある」
彼の声が、いつもより少し低く、真剣な響きを帯びていた。
私はペンを置き、書類の山から顔を出した。
「改まって、どうされました?」
オルグレン様は、手元の書類をじっと見つめ、何かを言い淀んでいる。
耳が赤い。
これは、何か重要な相談事だろうか。
また壁を壊したとか?
「……お前の、契約期間についてだ」
「契約?」
「ああ。当初の契約では、『とりあえず春まで』となっていたはずだ」
「そうでしたね。雪解けとともに、王都の情勢を見極めて更新するかどうかを決める、という話でした」
私は頷いた。
確かに、このままここで働き続けるのか、それとも別の道を歩むのか、決める時期が近づいている。
「……更新は、なしだ」
オルグレン様が短く告げた。
「えっ」
私の心臓が、ドクンと跳ねた。
なし?
つまり、クビ?
あんなに「帰さん」と言ってくれていたのに?
「……そうですか。私の能力不足でしたか?」
私が平静を装って尋ねると、オルグレン様は慌てて首を振った。
その勢いで、書類の山が少し崩れた。
「ち、違う! そうではない! 今の契約内容では不十分だと言っているんだ!」
「不十分?」
「ああ。……『事務官』という肩書きだけでは、俺の権限でお前を縛り付けておくのに限界がある。王家がまた何か言ってくるかもしれんし、他の貴族がヘッドハンティングに来るかもしれん」
彼は立ち上がった。
そして、私たちの間にある巨大な書類の山に、両手をついて身を乗り出した。
「だから……契約内容の変更を申し入れたい」
「どのような変更ですか? 給与アップ? おやつの増量?」
「それも含めるが……もっと根本的な変更だ」
彼はゴクリと唾を飲み込み、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつて私に向けられたことのないような、熱く、切実な光が宿っていた。
「……役職名の変更だ」
「役職?」
「『事務官』から……『辺境伯夫人』へ」
「…………はい?」
思考が停止した。
時が止まった。
ペンのインクがぽたりと書類に落ちる音だけが聞こえた。
「……えっと、それはつまり……?」
「結婚してくれ、と言っている」
ド直球だった。
変化球なしの、豪速球。
「俺にはお前が必要だ。計算ができるからとか、書類が片付くからとか、そういう理由だけじゃない」
彼は書類の山を乗り越えるようにして、さらに顔を近づけてきた。
紙の束がバサバサと崩れ落ちるが、彼は気にも留めない。
「お前がいると、飯が美味い。お前がいると、よく眠れる。お前が笑うと……俺も、悪くない気分になる」
「……閣下」
「俺は不器用だ。言葉も足りんし、力加減も下手くそだ。また壁を壊すかもしれんし、リンゴを握りつぶすかもしれん。……だが」
彼は、崩れた書類の中から、私の右手を掘り出して、その大きな手で包み込んだ。
「お前を守ることだけは、誰にも負けん。……一生、俺のそばで、俺を支えてくれないか」
彼の掌は熱かった。
そして、微かに震えていた。
あのクマをも倒す最強の男が、たかがプロポーズで震えている。
その事実が、たまらなく愛おしかった。
私は、熱くなる目頭を押さえ、深呼吸をした。
そして、いつものように冷静な(ふりをした)声で答えた。
「……条件を確認させてください」
「じょ、条件?」
「はい。その『辺境伯夫人』という役職の待遇についてです」
私は指を折りながら挙げた。
「一、おやつは一日三回、無制限支給」
「二、休日は二人でデート……いえ、視察に出かけること」
「三、喧嘩をしても、必ずその日のうちに仲直りすること(物理攻撃禁止)」
「四、……一生、私だけを愛すること」
私がそこまで言うと、オルグレン様の顔がパァァッと輝いた。
「……飲む。全条件、受諾する」
「即決ですね。交渉下手ですよ」
「うるさい。……で、契約成立か?」
私はニッコリと微笑んだ。
「はい。……謹んで、お受けいたします」
「ダーリ!!」
オルグレン様は歓喜の声を上げ、私たちの間にある邪魔な書類の山を、両腕でガバッと抱え込んだ。
そして、書類ごと私を抱きしめた。
「わっ! 閣下! 書類が! 重要書類がクシャクシャに!」
「知るか! 後で書き直せばいい!」
「私が書くんですよ!?」
「手伝う! 一生かけて手伝うから!」
彼は書類の雪崩の中で、私を力強く抱きしめた。
インクの匂いと、古い紙の匂い。
そして、彼の体温と、微かな森の香り。
決してロマンチックなシチュエーションではない。
バラの花もなければ、夜景もない。
あるのは仕事の山と、不器用な男だけ。
でも、これが私たちらしい。
最高に幸せな、契約更新の瞬間だった。
「……愛してるぞ、ダーリ」
耳元で囁かれたその言葉に、私は書類に顔を埋めて、くぐもった声で答えた。
「……私もです、あなた」
足元で、騒ぎに目を覚ましたポチが、不思議そうに私たちを見上げて「ガウ?」と鳴いた。
まるで「承認!」と言っているかのように。
こうして、私たちの関係は「上司と部下」から「生涯のパートナー」へと、正式にアップデートされたのだった。
もちろん、翌朝にはクシャクシャになった書類の山を前に、二人で青ざめることになるのだが……それはまた、別の話。
平和な日々が戻ってきた――と言いたいところだが、現実は甘くなかった。
「……増えていますね」
「……増えているな」
執務室の中央には、私たちが不在の間に溜まりに溜まった書類が、新たな山脈を形成していた。
その高さ、以前の比ではない。
もはや「山」というより「壁」だ。
デスクの向こうにいるオルグレン様の顔が見えない。
「閣下、生存していますか?」
私が書類の壁越しに声をかけると、ズズズ……と紙が崩れる音がして、オルグレン様の顔がひょっこりと現れた。
「……辛うじて生きている。だが、そろばんを弾く指が限界だ。……親指がつった」
「情けないことを言わないでください。さあ、今夜は残業ですよ。この『未決裁案件のエベレスト』を登頂するまでは帰れません」
「……鬼」
「事務官です」
外は静かな雪夜。
暖炉の火がパチパチと燃え、足元ではポチが「グゥ~」といびきをかいて寝ている。
平和だ。
仕事は地獄だが、あの王都でのドロドロした人間関係に比べれば、ここにあるのは純粋な数字と文字だけ。
精神衛生上、非常にクリーンである。
カリカリ、カリカリ……。
羽ペンの音だけが響く静寂な時間。
「……なあ、ダーリ」
不意に、オルグレン様が手を止めた。
「なんですか? 計算が合いませんか? 1+1は2ですよ?」
「違う。……話がある」
彼の声が、いつもより少し低く、真剣な響きを帯びていた。
私はペンを置き、書類の山から顔を出した。
「改まって、どうされました?」
オルグレン様は、手元の書類をじっと見つめ、何かを言い淀んでいる。
耳が赤い。
これは、何か重要な相談事だろうか。
また壁を壊したとか?
「……お前の、契約期間についてだ」
「契約?」
「ああ。当初の契約では、『とりあえず春まで』となっていたはずだ」
「そうでしたね。雪解けとともに、王都の情勢を見極めて更新するかどうかを決める、という話でした」
私は頷いた。
確かに、このままここで働き続けるのか、それとも別の道を歩むのか、決める時期が近づいている。
「……更新は、なしだ」
オルグレン様が短く告げた。
「えっ」
私の心臓が、ドクンと跳ねた。
なし?
つまり、クビ?
あんなに「帰さん」と言ってくれていたのに?
「……そうですか。私の能力不足でしたか?」
私が平静を装って尋ねると、オルグレン様は慌てて首を振った。
その勢いで、書類の山が少し崩れた。
「ち、違う! そうではない! 今の契約内容では不十分だと言っているんだ!」
「不十分?」
「ああ。……『事務官』という肩書きだけでは、俺の権限でお前を縛り付けておくのに限界がある。王家がまた何か言ってくるかもしれんし、他の貴族がヘッドハンティングに来るかもしれん」
彼は立ち上がった。
そして、私たちの間にある巨大な書類の山に、両手をついて身を乗り出した。
「だから……契約内容の変更を申し入れたい」
「どのような変更ですか? 給与アップ? おやつの増量?」
「それも含めるが……もっと根本的な変更だ」
彼はゴクリと唾を飲み込み、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつて私に向けられたことのないような、熱く、切実な光が宿っていた。
「……役職名の変更だ」
「役職?」
「『事務官』から……『辺境伯夫人』へ」
「…………はい?」
思考が停止した。
時が止まった。
ペンのインクがぽたりと書類に落ちる音だけが聞こえた。
「……えっと、それはつまり……?」
「結婚してくれ、と言っている」
ド直球だった。
変化球なしの、豪速球。
「俺にはお前が必要だ。計算ができるからとか、書類が片付くからとか、そういう理由だけじゃない」
彼は書類の山を乗り越えるようにして、さらに顔を近づけてきた。
紙の束がバサバサと崩れ落ちるが、彼は気にも留めない。
「お前がいると、飯が美味い。お前がいると、よく眠れる。お前が笑うと……俺も、悪くない気分になる」
「……閣下」
「俺は不器用だ。言葉も足りんし、力加減も下手くそだ。また壁を壊すかもしれんし、リンゴを握りつぶすかもしれん。……だが」
彼は、崩れた書類の中から、私の右手を掘り出して、その大きな手で包み込んだ。
「お前を守ることだけは、誰にも負けん。……一生、俺のそばで、俺を支えてくれないか」
彼の掌は熱かった。
そして、微かに震えていた。
あのクマをも倒す最強の男が、たかがプロポーズで震えている。
その事実が、たまらなく愛おしかった。
私は、熱くなる目頭を押さえ、深呼吸をした。
そして、いつものように冷静な(ふりをした)声で答えた。
「……条件を確認させてください」
「じょ、条件?」
「はい。その『辺境伯夫人』という役職の待遇についてです」
私は指を折りながら挙げた。
「一、おやつは一日三回、無制限支給」
「二、休日は二人でデート……いえ、視察に出かけること」
「三、喧嘩をしても、必ずその日のうちに仲直りすること(物理攻撃禁止)」
「四、……一生、私だけを愛すること」
私がそこまで言うと、オルグレン様の顔がパァァッと輝いた。
「……飲む。全条件、受諾する」
「即決ですね。交渉下手ですよ」
「うるさい。……で、契約成立か?」
私はニッコリと微笑んだ。
「はい。……謹んで、お受けいたします」
「ダーリ!!」
オルグレン様は歓喜の声を上げ、私たちの間にある邪魔な書類の山を、両腕でガバッと抱え込んだ。
そして、書類ごと私を抱きしめた。
「わっ! 閣下! 書類が! 重要書類がクシャクシャに!」
「知るか! 後で書き直せばいい!」
「私が書くんですよ!?」
「手伝う! 一生かけて手伝うから!」
彼は書類の雪崩の中で、私を力強く抱きしめた。
インクの匂いと、古い紙の匂い。
そして、彼の体温と、微かな森の香り。
決してロマンチックなシチュエーションではない。
バラの花もなければ、夜景もない。
あるのは仕事の山と、不器用な男だけ。
でも、これが私たちらしい。
最高に幸せな、契約更新の瞬間だった。
「……愛してるぞ、ダーリ」
耳元で囁かれたその言葉に、私は書類に顔を埋めて、くぐもった声で答えた。
「……私もです、あなた」
足元で、騒ぎに目を覚ましたポチが、不思議そうに私たちを見上げて「ガウ?」と鳴いた。
まるで「承認!」と言っているかのように。
こうして、私たちの関係は「上司と部下」から「生涯のパートナー」へと、正式にアップデートされたのだった。
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