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ものがたり
第二十七話 転(2)
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(なんだか胸騒ぎがする)
霞は自分の胸元に軽く触れた。夜も更け、手元が見えにくくなってきたので高灯台に火を点けるべく香に使っていた蝋燭の火を移す。
室内にはほんのりと甘い香りが漂っていた。
「急ぎとは言いましたけど何も今宵でなくても……」
「いいえ!めったにない霞の頼みだもの。それに偶にはこうやって夜にお話しするのも楽しいじゃない」
そう言って扇を口元に引き寄せ無邪気に笑う菖蒲は夜のぼんやりとした灯りのお陰か、色っぽく見えた。菖蒲の美しさから目を逸らすように霞は手元に集中する。
「帝との逢瀬は良かったのですか?」
菖蒲は頬をほんのりと染めた後でにこりと微笑んだ。
「今宵、此方に御渡り頂く予定はないから問題ないわ。気にしないで。今宵は霞と共に過ごしたいと思ったのだから」
(私に利用されたとも知らずに……。ただの女房にこうも優しくできるわね)
霞も曖昧に微笑みながら静かに菖蒲の正面に置かれた置き畳に座する。
「どうかしたの?落ち着きがないようだけれど」
「いえ……何も」
霞はちらりと御簾のその先。廂の向こうにあるであろう、水仙の局に視線を向ける。
「分かったわ。もしかして楓様のことでしょう?他の女子の元に通われていないか不安なんだわ」
「……!」
菖蒲の察しの良さに霞は思わず黙ってしまった。霞は正に楓のことを心配していたのだ。
(いや、合っているのだけれど違うような……。私が心配しているのは楓様が無事に『ひめつばき物語』の最終巻を手にしたかどうかだから)
「もう!やはりそうなのね!霞ったらいじらしいんだから!」
「いえ。決してそのようなわけでは……」
菖蒲の熱に押されそうになり、何とか言い訳を考える。あまり楓との仲を勘繰られたくはない。
「楓様は私を数ある女子のひとりですから……。さあ、私のことなど気になさらず。『ひめつばき物語』の原本についてお話しましょう」
「楓様にとって霞は数ある女子のひとり……って本当にそうかしら?」
「はい……?」
霞は顔を上げ、思わず菖蒲の顔を眺めてしまう。菖蒲も霞の顔をじいっと眺めており、お互い見つめ合う形となった。
「私には霞が楓様にとってかけがえのない存在のように見えたから。そうでなければ一晩中看病などしないはずよ。絶対に霞のことを大切に思ってくれているはず」
(私達が偽りの関係にあるとも知らずに……。でもまあそういう風に見えるのなら、それはそれでよしとしましょう)
仄暗い思いなど微塵も感じさせないように霞は笑顔を作ると答えた。
「菖蒲様がそんな風におっしゃっるのなら……それほど心強いことはありません」
「愛されていると自信を持っていればいいのよ。霞とは四年もお世話になっているんだもの。私がいちばんの味方でありたいの」
菖蒲は首を傾げて可愛らしく微笑んだ。無邪気な善意が霞の心に小さなひっかき傷を作る。
(私が菖蒲様の世話係に申し出たのは……菖蒲様の御父上が左大臣と家柄が申し分ないから。数ある権力者の娘の中で帝に一目置かれそうな姫を選んだだけ……。私の復讐のために。そんな汚い私にそんな優しさなど……いらない)
「だから、霞の願いは誰よりも真剣に聞きたいわ。今まで一度も好きな物や欲しいものを聞かなかったから」
「その……」
霞は一瞬、口にするのを躊躇った。またこの純粋な美しい人を騙すのか。それでお前はいいのかと、内なる声が聞こえてくる。しかし、霞は自分の良心を断ち切ると、菖蒲を真っすぐに見た。
「実は『ひめつばき物語』の原本を探しております。というのも水仙様が読み終わられ、どなたかにお渡ししたそうなのです。どこぞの姫君がお持ちかご存知であれば教えていただきたいのです」
菖蒲は驚いたような表情を浮かべる。
「でもあれは読んだ者の気が触れるという呪いがあるって……」
「確かめたいのです。呪いが真かどうか」
「……」
局に沈黙が訪れる。扇が口元からずれてしまうぐらいに菖蒲は悲し気な表情を浮かべていた。
霞は菖蒲の表情を理解できないまま、廂の方から衣ずれの音がするのを聞いた。忙しない音で、急いで此方に向かってくるのが分かる。やがて、御簾越しにぼんやりと女性のシルエットが見え始めた。
「あら?どなたかしら。こんな夜更けに……」
菖蒲の声に反応するように、御簾越しの女性が首を此方に傾けるのが見えた。霞の胸がざわつき、反射的に立ち上がって霞の前に体を乗り出す。
次の瞬間、菖蒲の局の御簾が持ち上げられたのだ。
「帝の御心を誑かす汚い女!」
「……!水仙……様?」
霞は一瞬、御簾を強引にくぐり抜けてきた無礼者がどこの誰だか分からなかった。逆立ったうねり髪、吊り上がり底光りした目。辛うじてその人物が水仙であると悟った。
その様子はどこかおかしく、目には生気が感じられない。所々装束が着崩れていた。
(それよりも……楓様は?今宵水仙様とお会いする予定だったはず。何故ここに?)
「私に帝の御心が離れるよう呪いをかけたのでしょう?私を陥れて何が楽しい?」
「水仙様……落ち着いてください」
霞は菖蒲の前に立ち、両手を広げる。それにも関わらず、水仙はずかずかと菖蒲の局に入って来た。正面から水仙を抱きとめるようにして止めるも、女子とは思えない力強さに霞の身体が揺らぐ。
(何なのこの力は?本当に水仙様?)
「か……霞……」
「菖蒲様は部屋の奥へ!どなたか助けを呼んでください!」
菖蒲は怯えながらも、慌てて反対側の廂へ向かい「誰か、誰か!」と声を張り上げた。霞は再び水仙に視線を移すと暴れ回るのを止めようと水仙の腕を掴む。
「知っているのよ!私のことを見目が悪い、教養もない名ばかりの姫だと帝に風潮しているのを!誰にも愛されない私を反対側の局から帝と眺めて笑っていたのでしょう?」
「水仙様、落ち着いてください!誰も水仙様に対してそのような無礼な言葉を言うはずがありません!ただの思い込みです」
なんとか動きを封じようと水仙の腕を背に捻ろうとするのだが強い力ではじき返されてしまう。
「うるさい!離せ!この女と結託して私を貶めた汚らわしいしもべが!」
「……っ!」
霞はそのまま床に振り払われてしまう。体の痛みよりも水仙から言い放たれた言葉に震撼《しんかん》する。
(私が帝と菖蒲様の間に取り入ったのがバレていたの?それとも水仙様が邪推《じゃすい》しているだけ?)
過去の悪行が明かされたような気がして胸の奥がチクリと痛んだ。
「何もかも煩わしい……。周りは私のことを哀れむか、笑いの種にするだけ。みんな……みんな燃えてしまえばいいのよ!」
「……!おやめください!」
霞は火のついた高灯台を掲げる水仙を見上げる。霞が必死に止めるも虚しく高灯台が床に転がった。床に広がった油から火が燃え移るのが霞の目に映し出される。
同時に自分の屋敷が炎に包まれ家族が呑まれていく光景が頭の中に蘇った。左腕の火傷にぴしりと痛みが走って、霞は座り込んだまま自分の体を抱いた。
(……駄目。体が……動かない)
「ふふふ。あはははは……」
笑い声をあげた水仙はそのままぷつりと糸が切れたかのように目の前に前のめりになって倒れ込んでしまう。火が近く、水仙の着物に燃え移りそうになるのが見えた。
霞は恐怖で固まる体で水仙に手を伸ばそうとする。
「父上、母上……」
気が付けばうわ言のように炎に消えていった家族を呼んでいた。
「霞!」
菖蒲の声が近くに聞こえたと同時に火が消えた。消えた火の上に黄色や白の菊の花が降り注ぐ。
後ろを振り返ると菖蒲が竹筒を手に、肩が上下するのが見えるほど大きく息をしているのが分かった。そこで霞はやっと菖蒲が部屋に飾られていた花の水で火を消したのだと理解する。
「菖蒲さ……」
馴染み深い、甘くて澄んだ香のかおりが霞を包み込んだ。温かな体温を感じて自分の体が冷え切っていたことに気が付く。
座り込んだままの霞を菖蒲が強く抱きしめていたのだ。
霞は自分の胸元に軽く触れた。夜も更け、手元が見えにくくなってきたので高灯台に火を点けるべく香に使っていた蝋燭の火を移す。
室内にはほんのりと甘い香りが漂っていた。
「急ぎとは言いましたけど何も今宵でなくても……」
「いいえ!めったにない霞の頼みだもの。それに偶にはこうやって夜にお話しするのも楽しいじゃない」
そう言って扇を口元に引き寄せ無邪気に笑う菖蒲は夜のぼんやりとした灯りのお陰か、色っぽく見えた。菖蒲の美しさから目を逸らすように霞は手元に集中する。
「帝との逢瀬は良かったのですか?」
菖蒲は頬をほんのりと染めた後でにこりと微笑んだ。
「今宵、此方に御渡り頂く予定はないから問題ないわ。気にしないで。今宵は霞と共に過ごしたいと思ったのだから」
(私に利用されたとも知らずに……。ただの女房にこうも優しくできるわね)
霞も曖昧に微笑みながら静かに菖蒲の正面に置かれた置き畳に座する。
「どうかしたの?落ち着きがないようだけれど」
「いえ……何も」
霞はちらりと御簾のその先。廂の向こうにあるであろう、水仙の局に視線を向ける。
「分かったわ。もしかして楓様のことでしょう?他の女子の元に通われていないか不安なんだわ」
「……!」
菖蒲の察しの良さに霞は思わず黙ってしまった。霞は正に楓のことを心配していたのだ。
(いや、合っているのだけれど違うような……。私が心配しているのは楓様が無事に『ひめつばき物語』の最終巻を手にしたかどうかだから)
「もう!やはりそうなのね!霞ったらいじらしいんだから!」
「いえ。決してそのようなわけでは……」
菖蒲の熱に押されそうになり、何とか言い訳を考える。あまり楓との仲を勘繰られたくはない。
「楓様は私を数ある女子のひとりですから……。さあ、私のことなど気になさらず。『ひめつばき物語』の原本についてお話しましょう」
「楓様にとって霞は数ある女子のひとり……って本当にそうかしら?」
「はい……?」
霞は顔を上げ、思わず菖蒲の顔を眺めてしまう。菖蒲も霞の顔をじいっと眺めており、お互い見つめ合う形となった。
「私には霞が楓様にとってかけがえのない存在のように見えたから。そうでなければ一晩中看病などしないはずよ。絶対に霞のことを大切に思ってくれているはず」
(私達が偽りの関係にあるとも知らずに……。でもまあそういう風に見えるのなら、それはそれでよしとしましょう)
仄暗い思いなど微塵も感じさせないように霞は笑顔を作ると答えた。
「菖蒲様がそんな風におっしゃっるのなら……それほど心強いことはありません」
「愛されていると自信を持っていればいいのよ。霞とは四年もお世話になっているんだもの。私がいちばんの味方でありたいの」
菖蒲は首を傾げて可愛らしく微笑んだ。無邪気な善意が霞の心に小さなひっかき傷を作る。
(私が菖蒲様の世話係に申し出たのは……菖蒲様の御父上が左大臣と家柄が申し分ないから。数ある権力者の娘の中で帝に一目置かれそうな姫を選んだだけ……。私の復讐のために。そんな汚い私にそんな優しさなど……いらない)
「だから、霞の願いは誰よりも真剣に聞きたいわ。今まで一度も好きな物や欲しいものを聞かなかったから」
「その……」
霞は一瞬、口にするのを躊躇った。またこの純粋な美しい人を騙すのか。それでお前はいいのかと、内なる声が聞こえてくる。しかし、霞は自分の良心を断ち切ると、菖蒲を真っすぐに見た。
「実は『ひめつばき物語』の原本を探しております。というのも水仙様が読み終わられ、どなたかにお渡ししたそうなのです。どこぞの姫君がお持ちかご存知であれば教えていただきたいのです」
菖蒲は驚いたような表情を浮かべる。
「でもあれは読んだ者の気が触れるという呪いがあるって……」
「確かめたいのです。呪いが真かどうか」
「……」
局に沈黙が訪れる。扇が口元からずれてしまうぐらいに菖蒲は悲し気な表情を浮かべていた。
霞は菖蒲の表情を理解できないまま、廂の方から衣ずれの音がするのを聞いた。忙しない音で、急いで此方に向かってくるのが分かる。やがて、御簾越しにぼんやりと女性のシルエットが見え始めた。
「あら?どなたかしら。こんな夜更けに……」
菖蒲の声に反応するように、御簾越しの女性が首を此方に傾けるのが見えた。霞の胸がざわつき、反射的に立ち上がって霞の前に体を乗り出す。
次の瞬間、菖蒲の局の御簾が持ち上げられたのだ。
「帝の御心を誑かす汚い女!」
「……!水仙……様?」
霞は一瞬、御簾を強引にくぐり抜けてきた無礼者がどこの誰だか分からなかった。逆立ったうねり髪、吊り上がり底光りした目。辛うじてその人物が水仙であると悟った。
その様子はどこかおかしく、目には生気が感じられない。所々装束が着崩れていた。
(それよりも……楓様は?今宵水仙様とお会いする予定だったはず。何故ここに?)
「私に帝の御心が離れるよう呪いをかけたのでしょう?私を陥れて何が楽しい?」
「水仙様……落ち着いてください」
霞は菖蒲の前に立ち、両手を広げる。それにも関わらず、水仙はずかずかと菖蒲の局に入って来た。正面から水仙を抱きとめるようにして止めるも、女子とは思えない力強さに霞の身体が揺らぐ。
(何なのこの力は?本当に水仙様?)
「か……霞……」
「菖蒲様は部屋の奥へ!どなたか助けを呼んでください!」
菖蒲は怯えながらも、慌てて反対側の廂へ向かい「誰か、誰か!」と声を張り上げた。霞は再び水仙に視線を移すと暴れ回るのを止めようと水仙の腕を掴む。
「知っているのよ!私のことを見目が悪い、教養もない名ばかりの姫だと帝に風潮しているのを!誰にも愛されない私を反対側の局から帝と眺めて笑っていたのでしょう?」
「水仙様、落ち着いてください!誰も水仙様に対してそのような無礼な言葉を言うはずがありません!ただの思い込みです」
なんとか動きを封じようと水仙の腕を背に捻ろうとするのだが強い力ではじき返されてしまう。
「うるさい!離せ!この女と結託して私を貶めた汚らわしいしもべが!」
「……っ!」
霞はそのまま床に振り払われてしまう。体の痛みよりも水仙から言い放たれた言葉に震撼《しんかん》する。
(私が帝と菖蒲様の間に取り入ったのがバレていたの?それとも水仙様が邪推《じゃすい》しているだけ?)
過去の悪行が明かされたような気がして胸の奥がチクリと痛んだ。
「何もかも煩わしい……。周りは私のことを哀れむか、笑いの種にするだけ。みんな……みんな燃えてしまえばいいのよ!」
「……!おやめください!」
霞は火のついた高灯台を掲げる水仙を見上げる。霞が必死に止めるも虚しく高灯台が床に転がった。床に広がった油から火が燃え移るのが霞の目に映し出される。
同時に自分の屋敷が炎に包まれ家族が呑まれていく光景が頭の中に蘇った。左腕の火傷にぴしりと痛みが走って、霞は座り込んだまま自分の体を抱いた。
(……駄目。体が……動かない)
「ふふふ。あはははは……」
笑い声をあげた水仙はそのままぷつりと糸が切れたかのように目の前に前のめりになって倒れ込んでしまう。火が近く、水仙の着物に燃え移りそうになるのが見えた。
霞は恐怖で固まる体で水仙に手を伸ばそうとする。
「父上、母上……」
気が付けばうわ言のように炎に消えていった家族を呼んでいた。
「霞!」
菖蒲の声が近くに聞こえたと同時に火が消えた。消えた火の上に黄色や白の菊の花が降り注ぐ。
後ろを振り返ると菖蒲が竹筒を手に、肩が上下するのが見えるほど大きく息をしているのが分かった。そこで霞はやっと菖蒲が部屋に飾られていた花の水で火を消したのだと理解する。
「菖蒲さ……」
馴染み深い、甘くて澄んだ香のかおりが霞を包み込んだ。温かな体温を感じて自分の体が冷え切っていたことに気が付く。
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