姫は盤上に立つ

ねむるこ

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ものがたり

第二十八話 転(3)

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「大丈夫、大丈夫よ。かすみ……」
菖蒲あやめ様……。まさかこんな風に行動できるお方だとは思わなかったわ。それにしてもどうしてそこまでして私を……)

 菖蒲が霞の背を優しくさすってくれたこともあり、強張こわばっていた体がほぐれていくのが分かった。左腕の痛みも引いていく。

如何いかがされましたか?菖蒲様!」

 反対側の御簾から女官にょかん達の声がする。菖蒲が声を掛けてくれたお陰だろう。

「急いで!水仙様がお倒れになったの!他にも人を呼んで!」
「水仙様が……?承知致しました」

 女官が慌ただしく他の人を呼びに戻る。水仙が入室してきた方角の御簾からドタドタと重厚感のある足音がした。

(男性の足音……)

 冷静さを取り戻した霞が察すると同時に御簾越しに聞き馴れた声がして霞は肩を落とす。

「失礼致します。第一王妃様。……蔵人頭くろうどのとうでございます。騒ぎを聞きつけました故、駆けつけました」
かえで様……!」

 霞はどうにか事態を収束させようと御簾と倒れたままの水仙に近づこうとするがそれを菖蒲がはばんだ。

「霞はそこで休んでいて。この場は私がなんとかするから」
「できません……。この場を収めるのが世話役の……私の仕事ですから」

 菖蒲は首を左右に振る。いつもの子供ぽく、あどけない少女の姿は無い。

「ごめんなさい。私のせいで霞の辛い出来事を思い出させてしまって」
「……!」

 菖蒲の苦しげな、それでも慈愛に満ちた眼差しが霞の心を揺さぶった。ドクドクと不規則に心臓が鳴る。

(どうして人を疑うことをしないの?私があなたを引き立てたせいでこんなことになってるっていうのに……)
「楓様。水仙様が倒れてしまわれました。どうかお手をお貸しください。つぼねに入ることを私が許可します」

 はっきりとした口調と共に鮮やかな薄桃色の小袿こうちぎひるがえる。

「失礼致します」

 菖蒲に導かれて御簾を潜り抜けてきた楓は、目の前に広がっている光景に言葉を失っていた。後ろから紙燭ししょくを手に入って来た伊吹も目を見開いている。

「これから水仙様の局へお運びします」

 人で騒がしくなっていく菖蒲の局の中。周りは慌ただしく動いているのに、霞は微動だにしなかった。
 自分だけがこの空間に取り残されているような、不安な気持ちになる。
 水仙を運び出すために、正面の御簾が女官によって抱えあげられた時。何気なく視界に入った水仙の局に違和感を覚えた。

(何かが……通り過ぎて行った?)

 明かりがついたままの水仙の局の前を何かが横切った気がしたのだ。

(あれは……?こんなところでぼうっとしてる場合じゃない。楓様にも詳細を聞かなければ)

 立ち上がろうとした霞は辺りが暗かったのと、衝撃的な光景を目にしてしまったせいで眩暈めまいを起こした。ぐらりと揺れる身体を小さくて白い。美しい手が支える。

「霞、大丈夫?体調が悪いの?」

 霞は俯ぎながら強く唇を噛み締める。心の中で弱っている自分を責め立てた。

(何をしているの。早くこの状況を解明しなさい。化け物がまた動き出したっていうのに……怖がってる暇なんてないでしょう。とっとと動け……。動け、私の身体)
「申し訳ございません。本来私がやるべき仕事でしたのに……」

 自分を叱咤しったする言葉をしまい込み、世話役の仕事を全うできなかった謝罪を口にする。

「いいのよそんなこと。後片付けも他の者に頼んだから……。霞は私の御帳台みちょうだいで休んでいて」
「……え?」

 菖蒲の提案に霞は目を丸くする。第一王妃の豪華な寝台で休むなど恐れ多いことだ。霞は大きく頭を左右に振った。

「なりません!自分のつぼねに戻って休ませていただきます」
「そんな顔色でとても戻れそうになさそうだけれど……」

 そこで初めて霞は自分が想像以上に疲労しているのを自覚する。そんな自分の弱さに怒りとやるせなさが込み上げてきた。

「ね?だからここで眠って構わないわ。何なら明日、暇を出してもいいから」
「そんなこと……できません」

 ずっと顔をうつむかせたままの霞の手を菖蒲が優しく包む。突然感じる温かさに霞は肩を揺らした。

「霞。自分の心の声をちゃんと聞いてあげて。あなたは今、とても怖がってる……」
「私に怖いものなどありません。怖いものなど何も……」

 菖蒲が幼い子に言い聞かせるように穏やかな口調で続ける。

『自分の弱さを知ることこそ誰にも負けない強さを手にする』

 さかきの声が聞こえた気がして霞は慌てて顔を上げた。その言葉を発したのは他の誰でもない。菖蒲だ。

「……って前に私に言ってくれたでしょう?怖いと思った自分の弱さを持っていていいの。だからもうこれ以上、無理をしないで。霞が辛そうにしていると私も辛いから」
「菖蒲様……」
「それとも楓様を呼び戻しましょうか?霞の局に運んでもらって……」
「……結構です!」

 即答する霞に菖蒲はくすくすと笑い声をあげた。口元に手を覆うことなく、明け透けに笑うその姿は霞と出会った頃と同じ。少女の眩しい笑顔だ。

「殿方に元気のない姿は見せたくないわよね」
「いえ……そういうわけでは」
(こんな情けない姿を見せたら呆れられるに決まってる。萎れた私を見ていい気になりそうだし……)
「さあ。遠慮はいらないから」

 菖蒲に手を引かれながら霞は御帳台の中に足を踏み入れる。既に寝具が整えられていた。

(こんなに高貴な場所で眠れるわけがない)
「ほら!何してるの?早く横になって!」

 菖蒲に促されるがまま霞は寝具の上に横になった。さすがに上掛けまで借りる気にはなれなくて重ね着している着物をそのまま布団代わりにする。

「それじゃあ。私は後片付けの続きをしてくるから。大人しくしているのよ!」

 慌ただしく御帳台から姿を消すと、菖蒲が女官達に指示を出している声が御帳台のとばり越しに聞こえてきた。四方を囲まれた寝台は霞に自然と安心感を与えたようだ。最初は緊張していた霞だが、横になるとすぐに瞼が閉じ深い闇に溶けこんでいった。
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