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ものがたり
第三十話 結(1)
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「……楓様」
「……」
霞の予想通り。楓は霞の局、置き畳の上に座っていた。
菖蒲の局で色々あったせいで書物が乱雑に置かれた自分の室礼が懐かしく思えた。紙の香りと楓の香の香りが霞の鼻を通り過ぎる。
烏帽子からこぼれる前髪が昨夜の疲労を物語っている。無言で不機嫌そうであっても女子の黄色い声が聞こえてきそうな色気を放つ楓に一瞬だけ声を掛けるのを躊躇った。
そんな自分を疎ましく思いながらも霞は文机が置かれた置き畳の上に座る。何となく向かい合うのが気まずくて思わず伊吹を探した。
「伊吹は?」
一瞬だけ楓の表情が曇る。
「伊吹は見舞いという体で水仙様のご様子を確認させている。愛しい者のことが心配か?」
楓の「愛しい者」という言葉に伊吹とふたりきりになった時のことを思い出して体が熱くなった。楓に悟られぬように着物の裾で口元を覆うとさりげなく話題を変える。
「第二王妃を狙ったということは、化け物は本格的に国崩しに動き始めたということでしょうか」
「……ああ。そうだろうな」
霞は頭を抱えた。恐れていた事態が予想以上に早くやってきたことに焦りを感じたのだ。それでも冷静に次の行動を考えなければならない。霞は静かに楓に問いかけた。
「まずは昨夜の情報交換からですね。水仙様の局で何が起こったのか……教えて頂けますか?」
「実を言うと……俺達が辿り着いた時には既に水仙様は局にいらっしゃらなかった。灯りが点いていたから、局に水仙様がいないことには気が付くのに遅れてな……。慌てて伊吹と辺りを探し始めたら菖蒲様の声が聞こえて駆け付けたというわけだ」
「水仙様は楓様とお会いすることなく菖蒲様を襲撃したということですね」
「菖蒲様の局では何があった?そもそも霞様は何故あの場に居たんだ」
楓の心なしか視線が鋭い。何故機嫌が悪くなったのか分からないまま霞は居心地悪そうに続ける。
「それは……ひめつばき物語の原本探しを菖蒲様に依頼するためです。後宮で菖蒲様ほど顔の広く力のあるお方はいませんから。話をしている最中に突然、水仙様がやってきて高灯台の火を……落としたのです」
「火を……?だから焦げ臭かったのか」
「正気ではない様子でした。寵愛を受けられないのは菖蒲様のせいだと、ひとしきり悪口を吐かれた後、気を失われてしまったのです」
「それは……災難だったな。大事なかったか?」
「はい。菖蒲様は無事でございます」
「いや、俺が心配しているのは霞様だ」
「私……ですか?」
霞は楓の言葉に眉を顰めた。鋭かった視線がいつの間にか和らいでいる。そのことに気が付いた霞はこそばゆい気持ちになりながら火傷の跡が残る左腕に触れた。
(まさか……心配してくださっているの?私が火事で一族を失ったから……)
あの時、霞の精神状態は不安定だった。それでも今この状況で弱音を言っている暇はない。平静を装って楓に向かって答えた。
「私は大事ありません。この通り、どこも怪我をしていませんから。菖蒲様がすぐに火を消してくださいましたし。火が燃え広がらなくて本当に良かったです」
「……そうか」
楓はまだ何か言いたそうにしていたが、額を押さえた後で元の話題に戻る。
「水仙様を局に運んだ後、俺と伊吹は『ひめつばき物語』の最終巻を探したんだが……どこにもなかった」
「……どこにもない?」
霞が驚いた声を上げる。霞の反応に動揺することなく、楓が神妙な顔で頷く。
「ああ。水仙様の女官に話を聞いたら確かに水仙様はひめつばき物語を手にしていたという……。物語を読んだ後に気が触れたのは確かだろう。だとしたら物語の呪いが本当に存在するということになる」
「……」
霞は口元に着物の裾をあてて黙り込んだ。
「最終巻がないのではどうしようもない。……調査はまた振出しに戻ったということか」
「東宮様に何か動きはございましたか?」
「……変わらずに政の補助をされている。定期的に東宮様の女官から情報を聞いてはいるが特に怪しい動きはない」
「もしかして……東宮様は化け物ではないのかもしれませんね」
霞の言葉に楓は目を見開き、興奮気味に言った。
「俺達はずっと泳がされていたということか?」
「その可能性が高いでしょう。東宮様ほど権威の高いお方であれば容易に手出しはできません。帝に進言するのも難しい……。化け物調査の手を止めるのには十分すぎる囮です」
頭の中に盤上が浮かび、相手の持ち駒で埋め尽くされている。負けていながらも化け物が置いて行った駒のひとつひとつに目を向けた。化け物がどんな意図をもって一手を打って来たのか。霞は冷静に読み取ろうとする。
「では今後、東宮様へ探りを入れるのを止めるか……」
「いえ」
落胆した楓の声を霞の凛とした声が遮る。
「このまま東宮様を追う素振りを続けましょう」
「……東宮様の情報収集は今後も続行するということか?」
霞は静かに頷いた。その瞳の奥に炎が見え、楓は思わず息を呑んだ。
「はい。罠にかかった振りをするのです。その間に私達は物語の情報を集め、真の化け物の元へ向かいます。……恐らく、水仙様の件はこれで終わりではないと思うのです」
「また似たようなことが起こるというのか?」
「はい」
「どうしてそう思う」
霞は袖で口元を隠しながら楓に向かって不敵に微笑んだ。少し乱れた顔周りの髪も相まって、妖しい雰囲気を醸し出す霞に楓は落ち着かない気持ちになる。
「宮中を混乱に陥れる他に何か目的があるように思います。そうでなければ『ひめつばき物語』を利用する意味がわかりません。化け物の意図をいち早く探るためにも物語の原本回収は急いだほうがいいでしょう」
「なるほど……。探すにしても後宮内は広い。闇雲に探すわけにはいかないだろう。俺達が探している間に新たな被害者が出ないとも限らない」
「そう。化け物の盤上遊戯はすでに始まっていたのです。私達が物語の原本を探し出すのが先か、あるいは宮中が混乱に陥って化け物の思惑が達成されるのが先か……」
いつも以上に冴えわたる霞の思考に言葉を失う。その姿は頼もしくもあり、どこか恐ろしくもあった。それなのに楓は苦痛で表情を歪める。
(昨夜、菖蒲様の局にいた霞様は間違いなく怯えていた。火を見ておぞましい過去を思い出したはずなんだ。それなのに……まだ立ち向かおうというのか)
楓は昨夜の霞の姿を思い出す。怯えてその場に力なくしゃがみ込んでいた霞を。いち早く霞の元に駆け寄ってやりたかったのだがあの場では倒れた水仙を優先せざるを得なかった。
今こうして気丈に振舞う霞が痛々しく見えてしまう。自分の不甲斐なさを思い出し、楓は握りこぶしを作った。
「まずは……伊吹の帰りを待ちましょう。それからこれからの行動を考えます」
「霞様は……もう少しお休みになられた方がいいのでは?疲れが見える」
霞は文机にもたれかかりながら強く言い返した。楓の優しさを振り払ってしまう。
「心配は無用にございます。私よりも楓様の方がお疲れに見えますが……。どこぞの姫様の元へお休みになられても構いませんよ」
切れ味の鋭い霞の切り返しに楓は顔を引き攣らせる。霞の言ってやったりという微笑みが憎らしい。このまま受け流すほど余裕がなかった。
「……まさか愛しい人を置いてはいけませんよ」
楓が霞の文机ににじり寄った。霞のすぐ目の前にこの世の者とは思えない麗人がいる。視線が遭い、霞が楓に「捉えられた」と感じ取った時だった。
「失礼致します!伊吹が戻りました!」
伊吹の声が部屋に流れていた甘い空気を両断した。
「……」
霞の予想通り。楓は霞の局、置き畳の上に座っていた。
菖蒲の局で色々あったせいで書物が乱雑に置かれた自分の室礼が懐かしく思えた。紙の香りと楓の香の香りが霞の鼻を通り過ぎる。
烏帽子からこぼれる前髪が昨夜の疲労を物語っている。無言で不機嫌そうであっても女子の黄色い声が聞こえてきそうな色気を放つ楓に一瞬だけ声を掛けるのを躊躇った。
そんな自分を疎ましく思いながらも霞は文机が置かれた置き畳の上に座る。何となく向かい合うのが気まずくて思わず伊吹を探した。
「伊吹は?」
一瞬だけ楓の表情が曇る。
「伊吹は見舞いという体で水仙様のご様子を確認させている。愛しい者のことが心配か?」
楓の「愛しい者」という言葉に伊吹とふたりきりになった時のことを思い出して体が熱くなった。楓に悟られぬように着物の裾で口元を覆うとさりげなく話題を変える。
「第二王妃を狙ったということは、化け物は本格的に国崩しに動き始めたということでしょうか」
「……ああ。そうだろうな」
霞は頭を抱えた。恐れていた事態が予想以上に早くやってきたことに焦りを感じたのだ。それでも冷静に次の行動を考えなければならない。霞は静かに楓に問いかけた。
「まずは昨夜の情報交換からですね。水仙様の局で何が起こったのか……教えて頂けますか?」
「実を言うと……俺達が辿り着いた時には既に水仙様は局にいらっしゃらなかった。灯りが点いていたから、局に水仙様がいないことには気が付くのに遅れてな……。慌てて伊吹と辺りを探し始めたら菖蒲様の声が聞こえて駆け付けたというわけだ」
「水仙様は楓様とお会いすることなく菖蒲様を襲撃したということですね」
「菖蒲様の局では何があった?そもそも霞様は何故あの場に居たんだ」
楓の心なしか視線が鋭い。何故機嫌が悪くなったのか分からないまま霞は居心地悪そうに続ける。
「それは……ひめつばき物語の原本探しを菖蒲様に依頼するためです。後宮で菖蒲様ほど顔の広く力のあるお方はいませんから。話をしている最中に突然、水仙様がやってきて高灯台の火を……落としたのです」
「火を……?だから焦げ臭かったのか」
「正気ではない様子でした。寵愛を受けられないのは菖蒲様のせいだと、ひとしきり悪口を吐かれた後、気を失われてしまったのです」
「それは……災難だったな。大事なかったか?」
「はい。菖蒲様は無事でございます」
「いや、俺が心配しているのは霞様だ」
「私……ですか?」
霞は楓の言葉に眉を顰めた。鋭かった視線がいつの間にか和らいでいる。そのことに気が付いた霞はこそばゆい気持ちになりながら火傷の跡が残る左腕に触れた。
(まさか……心配してくださっているの?私が火事で一族を失ったから……)
あの時、霞の精神状態は不安定だった。それでも今この状況で弱音を言っている暇はない。平静を装って楓に向かって答えた。
「私は大事ありません。この通り、どこも怪我をしていませんから。菖蒲様がすぐに火を消してくださいましたし。火が燃え広がらなくて本当に良かったです」
「……そうか」
楓はまだ何か言いたそうにしていたが、額を押さえた後で元の話題に戻る。
「水仙様を局に運んだ後、俺と伊吹は『ひめつばき物語』の最終巻を探したんだが……どこにもなかった」
「……どこにもない?」
霞が驚いた声を上げる。霞の反応に動揺することなく、楓が神妙な顔で頷く。
「ああ。水仙様の女官に話を聞いたら確かに水仙様はひめつばき物語を手にしていたという……。物語を読んだ後に気が触れたのは確かだろう。だとしたら物語の呪いが本当に存在するということになる」
「……」
霞は口元に着物の裾をあてて黙り込んだ。
「最終巻がないのではどうしようもない。……調査はまた振出しに戻ったということか」
「東宮様に何か動きはございましたか?」
「……変わらずに政の補助をされている。定期的に東宮様の女官から情報を聞いてはいるが特に怪しい動きはない」
「もしかして……東宮様は化け物ではないのかもしれませんね」
霞の言葉に楓は目を見開き、興奮気味に言った。
「俺達はずっと泳がされていたということか?」
「その可能性が高いでしょう。東宮様ほど権威の高いお方であれば容易に手出しはできません。帝に進言するのも難しい……。化け物調査の手を止めるのには十分すぎる囮です」
頭の中に盤上が浮かび、相手の持ち駒で埋め尽くされている。負けていながらも化け物が置いて行った駒のひとつひとつに目を向けた。化け物がどんな意図をもって一手を打って来たのか。霞は冷静に読み取ろうとする。
「では今後、東宮様へ探りを入れるのを止めるか……」
「いえ」
落胆した楓の声を霞の凛とした声が遮る。
「このまま東宮様を追う素振りを続けましょう」
「……東宮様の情報収集は今後も続行するということか?」
霞は静かに頷いた。その瞳の奥に炎が見え、楓は思わず息を呑んだ。
「はい。罠にかかった振りをするのです。その間に私達は物語の情報を集め、真の化け物の元へ向かいます。……恐らく、水仙様の件はこれで終わりではないと思うのです」
「また似たようなことが起こるというのか?」
「はい」
「どうしてそう思う」
霞は袖で口元を隠しながら楓に向かって不敵に微笑んだ。少し乱れた顔周りの髪も相まって、妖しい雰囲気を醸し出す霞に楓は落ち着かない気持ちになる。
「宮中を混乱に陥れる他に何か目的があるように思います。そうでなければ『ひめつばき物語』を利用する意味がわかりません。化け物の意図をいち早く探るためにも物語の原本回収は急いだほうがいいでしょう」
「なるほど……。探すにしても後宮内は広い。闇雲に探すわけにはいかないだろう。俺達が探している間に新たな被害者が出ないとも限らない」
「そう。化け物の盤上遊戯はすでに始まっていたのです。私達が物語の原本を探し出すのが先か、あるいは宮中が混乱に陥って化け物の思惑が達成されるのが先か……」
いつも以上に冴えわたる霞の思考に言葉を失う。その姿は頼もしくもあり、どこか恐ろしくもあった。それなのに楓は苦痛で表情を歪める。
(昨夜、菖蒲様の局にいた霞様は間違いなく怯えていた。火を見ておぞましい過去を思い出したはずなんだ。それなのに……まだ立ち向かおうというのか)
楓は昨夜の霞の姿を思い出す。怯えてその場に力なくしゃがみ込んでいた霞を。いち早く霞の元に駆け寄ってやりたかったのだがあの場では倒れた水仙を優先せざるを得なかった。
今こうして気丈に振舞う霞が痛々しく見えてしまう。自分の不甲斐なさを思い出し、楓は握りこぶしを作った。
「まずは……伊吹の帰りを待ちましょう。それからこれからの行動を考えます」
「霞様は……もう少しお休みになられた方がいいのでは?疲れが見える」
霞は文机にもたれかかりながら強く言い返した。楓の優しさを振り払ってしまう。
「心配は無用にございます。私よりも楓様の方がお疲れに見えますが……。どこぞの姫様の元へお休みになられても構いませんよ」
切れ味の鋭い霞の切り返しに楓は顔を引き攣らせる。霞の言ってやったりという微笑みが憎らしい。このまま受け流すほど余裕がなかった。
「……まさか愛しい人を置いてはいけませんよ」
楓が霞の文机ににじり寄った。霞のすぐ目の前にこの世の者とは思えない麗人がいる。視線が遭い、霞が楓に「捉えられた」と感じ取った時だった。
「失礼致します!伊吹が戻りました!」
伊吹の声が部屋に流れていた甘い空気を両断した。
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