姫は盤上に立つ

ねむるこ

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ものがたり

第三十一話 結(2)

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伊吹いぶき水仙すいせん様のご様子はどうだったの?」

 かえでの肩を押しのけながら霞が声を上げる。嬉しそうな霞の様子が気に入らない。むっとした表情を浮かべながら霞の前から体をずらす。
 伊吹いぶき大股おおまたで霞の局に入ってくると出入口付近に腰を下ろした。

「水仙様は一向に目を覚ます様子がないそうです。悪夢にうなされているように眠りながら苦しんでおられます……。今も絶えず陰陽師の祈祷が続けられています」
「そう……」

 伊吹は真剣な眼差しで楓と霞に情報を伝える。霞は目覚めない水仙のことを思い、気持ちが沈んだ。

(早く目覚めさせなければ水仙様の身体は衰え死んでしまう……)
「宮中では呪いが蔓延まんえんしていると陰陽師達の祈祷があちこちで行われております。皆、水仙様に呪いがかけられたのだと噂し、恐れています」
「化け物の想定通り。宮中の混乱が始まったということか……」

 楓が腕組をして難しい顔をする。その後で霞が言葉を続けた。

「私達は東宮様を探っているフリをしながら引き続きひめつばき物語の原本を手にしている者を探します。原本を読み、化け物の正体と目的に迫る……猶予はありません。すぐに取り掛かります」
「フリって……どういうことだ?東宮様が化け物なんじゃないのか?」

 緊張感のない伊吹の疑問に霞は緊張が和らいだような笑みを浮かべる。東宮が化け物調査のおとりにされているのではないかという考えを霞が丁寧に説明した。

「なんだって?化け物め、東宮様を利用するなんて大胆な策を……。でもそれ以上に霞の策はすごいな」

 伊吹の素直な讃辞さんじに霞の頬が緩む。ふたりの間に流れる穏やかな雰囲気を断ち切るように楓が声を上げた。

「原本探しはどうする?写しだって何本も出回っているのだぞ」
「特に『ひめつばき物語』に夢中になっているお方に目星をつけ、三人で手分けをして調べましょう。菖蒲様の協力も得ましたのですぐに見つかると思います。私も心当たりがございますので……」

 霞は頭の中に浮かんでいる盤上を眺める。

 水仙の狂乱。
 ひめつばき物語の呪い。
 宮中を駆け巡る陰陽師達。
 水仙の局から飛び出していった人影……。

 これまでの出来事が静かに霞の脳内で循環し始めかけていた。まさにその時。急に両肩を掴まれた……かと思いきや伊吹の心配そうな顔が目の前にあって霞は目をまたたかせた。
 驚きのあまり声を出すこともできない。

(いつの間に私の元に?伊吹の身のこなしはどうなっているの)

 同時にふたりきりになった時のことを思い出し、気まずさから視線をらしてしまう。

「霞、昨夜は大丈夫だったのか?水仙様があかりの火を傾けたと……」

 そのまま体を揺さぶるものだから、霞は軽くってしまった。勢いが強く、激しかったため気恥ずかしさもどこかに吹っ飛んでしまう。

「伊吹、私は……大丈夫だから。落ち着いて……」
「嘘だ!昨夜、霞は怯えてた。あんな光景を見て大丈夫なはずがない!」

 伊吹は揺さぶり止めると、しおれた幼子おさなごのような浮かない表情をしていた。

(本当に伊吹には敵わないわね……)

 楓が触れるのを避けていた話題、霞の過去に簡単に踏み入ることができる伊吹。
 霞の少し離れたところに控えていた楓の眉間にしわが寄っているのが見えた。
 それもそのはず。自分が配慮して言葉にすることのできなかった言葉を伊吹が何の考えも無しに言ったからだ。
 霞が負った過去の傷に触れる。同じ地獄を見た者にしかできない荒業あらわざだった。だから霞は伊吹のこの行動を不愉快だと思ったことはない。寧ろ伊吹らしい、いさぎよい励まし方だと感じていた。
 霞は酔いを誤魔化ごまかすために瞼を閉じた後、目をゆっくりと開けた。

(本当は伊吹の裏表のない真っすぐな優しさが嬉しい。昨夜の恐怖を心から打ち明けて、誰かに寄り添ってもらえたらどれだけ気が楽になるか……。だけど今の私には許されない。今は弱っている時ではないのだから)

 自分の肩をがっしりと掴む伊吹の腕を霞は軽く叩いた。

「伊吹には全部お見通しね。でも本当にだいじょ……」
「霞にはもう無理をして欲しくない。だから……」

 伊吹の腕に力がこもり、そのまま引き寄せられる。霞の上体が前に傾き、反射的にまずいと思った瞬間。

「伊吹、もう行くぞ。急いで物語の情報を集めるんだ。それに……霞様が痛がってる」

 すんでのところで霞が伊吹に倒れ込むのを防いだのは楓だった。見ると、伊吹の腕を楓が手で押さえている。

(危なかった……。楓様の前でまたこの前みたいなことになったら……)
「すっ……すまなかった!霞」
「いえ。私の方こそ。また伊吹にいらない心配をかけさせてしまったわね」

 霞の言葉に伊吹の表情がゆがむ。そんな伊吹の表情を見て霞の心までも締め付けられた。

「いらない心配なんかじゃない!」

 がっくりと項垂うなだれた伊吹はまだ何か言いたそうにしていたが、霞から引き離すように楓が伊吹の肩を後ろに引く。

くぞ。伊吹。これ以上を困らせるな」

 伊吹は唇を噛み締めて黙り込んでしまった。霞は伊吹に対して申し訳なく思いながらも内心安堵する。
 だからこんな時に楓が恋人の演技をしたとしても何とも思わなかった。

(このまま伊吹の優しさに甘えてしまったら私は弱くなる。これ以上、情けない姿を伊吹や楓様に見せられないわ。それと……菖蒲様にも)

 そのまま楓は伊吹を押し出すようにして霞の局を後にした。
 
 
「……では。別れるのは惜しいですがまた明日の夜お会いしましょう」

 後ろ背に見る楓もまた美しかった。楓の流し目は泣きぼくろも相まって普段以上に輝きが増して見え、霞は思わず目を細める。

(また無意味に演技されてる。でもこれも楓様なりの励ましなのかもしれないわね)

 恋人のような言動をして霞の反応を楽しむ楓を思い出し、霞は小さく息を吐いた。楓の優しさに気が付いて霞の心が少しだけ安らぐ。

「ええ。良い報告をお待ちしております楓様」

 楓はそんな霞の様子を横目に名残なごり惜しそうに部屋の敷居を乗り越える。

(この言葉は演技ではないのにな……)

 楓の心の呟きは誰に届くこともなく、透渡殿すきわたどのを通り抜ける風と共にどこかへ飛んでいった。
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