姫は盤上に立つ

ねむるこ

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はるがすみ

第三十五話 二巻目すれちがひ(1)

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(水仙様の女官、茉莉まつり様か……)

 ひとり廊下を歩きながら霞は思考していた。
 
(少し前にちらりと顔を合わせた程度だけど……)

 頭の中に浮かぶ茉莉の姿は困り顔が張り付いたような、至って平凡な侍女じじょだった。

(何かにつけて水仙様に怒鳴られて……。気の毒だったことは覚えているわね)

 考え事をしながら歩いていたせいで霞は曲がり角から曲がってくるあるものに気が付かなかった。

「いてっ!」
「……っ!」

 霞のお腹の当たりに軽い衝撃が走る。何事かと視線を落とすと、白い童水干どうすいかんを身につけた少年だった。丈の短い小袴こばかまのお陰で宮中を駆けまわることができるのだ。
 髪を後ろでひとつに結び、まだ元服していない年頃に見える。
 障害物にぶつかって、どこかご機嫌斜めな様子だ。頬を膨らませて霞を見上げていた。

(陰陽師の使いの子ね)

 これだけ宮中に陰陽師が派遣されているのだ。子供の弟子も駆り出されているのだろうと霞は悟った。

「失礼を致しました」

 少年は口では詫びているものの、自分は悪くないという顔をしていた。子供らしさに霞は微笑んだ。

「こちらこそ」

 少年はそのままどこかへ駆け抜けてしまった。霞は再び緊張感を高めながら廊下を歩き始める。局のあちこちからこうの匂いと陰陽師が祈祷きとうを上げる声が耳に入ってきた。相変わらず物々しい雰囲気が流れ続けている。

 辿り着いたのは祈祷の声が絶えず聞こえる水仙の局だ。霞はそこで水の入ったたらいを手にした女官と鉢合わせた。
 垂れ下がった眉に自信なさげに彷徨う視線……薄紫と黒に近い青色を重ね合わせた小袿こうちきを身に着けている。

「もしかして、茉莉様にございますか?」
「えっと、あの……はい。何か御用でしょうか……?」

 茉莉は突然話しかけられて慌てたのだろう。手元が揺らぎ、盥の水がこぼれてしまわないように、両手を前後に動かした。その目は怯えたような、警戒するような色に染まっている。

(ここで警戒されてはお終いね)
「お忙しい所申し訳ございません。私、第一王妃の世話役の霞と申します」
「だっ……第一王妃様の?これは大変失礼致しました……。どうか、どうか無礼をお許しください」

 茉莉は慌ただしくたらいを床に下ろすと深々と頭を下げた。肩が微かに震え、権威ある者に怯えているように見える。
 霞は水仙が女官達に怒鳴り声を上げる光景を思い出した。

「顔をお上げください。私は気にしておりませんから……」
「水仙様でしたらまだお目覚めになっておりません。どうかお引き取りを……」

 消え入りそうな声で呟いた茉莉に霞が優しく呼びかける。

「用があるのは茉莉様。あなた様ですよ」
「わ……私ですかっ?ああ……突然騒ぎ立てて申し訳ありません」

 茉莉の瞳が驚きと喜びに満ちた色に変わる。霞はそのまま茉莉の喜びに乗じるように言葉を繋いだ。

「どこかゆっくりお話しできる場所はあるでしょうか」
「でしたら……こちらに」

 そう言って茉莉は盥を持つともと来た道を辿り始めた。相変わらず陰陽師や水仙の女官達が祈りを上げる声が聞こえる。

「こちらですが……水仙様のお客人がお控えになる部屋になっております。今は掃除に入るぐらいで……使われておりません」

 案内された部屋は局よりも狭いものの、整然としていた。暫くの間使われていなかったせいか、部屋の空気がひんやりとしている。霞は思わず身震いしながら足を踏み入れた。

「こちらでお待ちください。……すぐに戻りますので」
「申し訳ないです。お忙しい所にお声がけしてしまって……」

 丁寧に謝る霞を慌てて茉莉が止める。

「と……とんでもございません。すぐに済ませて参りますので……」

 襖を静かに閉めると盥を手に仕事へ戻って行った。

(今のところ簡単に『ひめつばき物語』を手に出来そうだけれど……。もし呪いにかかっていたとしたら……己でどうにかするしかないわよね)

 ひとりになった霞は己の掌を見下ろす。
 
「お待たせいたしました!」

 慌ただしく襖を開けた茉莉は部屋の奥に座る霞と向か合うように出入口付近に腰を下ろした。部屋に入ってくる間も絶えず頭を下げている。

「水仙様におかれましては……大変なことになりましたね」
「はい。目を覚ます気配がなく……私を含め他の女官達が交代でつきっきりの看病をしております」

 茉莉の目元に薄っすらクマが見え、苦労が伺い知れる。霞は扇を取り出すと口元に当て、心から心配するような声を出した。

「一刻も早く元気になって頂きたいものですね……」
「はい……」
「茉莉様のようなしっかりとした女官がいればきっと水仙様もすぐにお目覚めになりますよ。きっと深く感謝されるでしょう」
「そう……でしょうか」

 ほんのりと口元を緩めた茉莉を見て、霞は強力な一手の準備をする。ここから霞の盤上遊戯《ばんじょうゆうぎ》が始まるのだ。

「そういえば。茉莉様はこんな噂をご存知でしょうか……呪いの物語の噂を」
「呪いの……物語?」

 茉莉の表情が変わるのを霞は見逃さなかったが、気が付かない振りをして続ける。

「はい。水仙様が正気を失った原因であるあの恐ろしい物語です……。読んだ者が呪われるという」

 霞はわざと恐怖するような表情を浮かべる。

「『ひめつばき物語』のことでしょうか?水仙様が夢中になって読んでおられましたね……」
「そうです。特に原本が危険だと言われていて、持っているだけで呪われてしまうと……。物語の最後の部分に血文字が書かれているらしくて……ああ、なんて恐ろしいんでしょう」
「本当に……。血文字で書かれた歌なんて恐ろしいですよね」

 茉莉が恐る恐る霞に同調する。

「しかも最近聞いた話では夜中に原本を持って立っていると続きの巻《かん》が現れるというではありませんか!ああ恐ろしい……」

 霞が震えてみせると茉莉が弱々しく微笑んだ。

「う……噂ですから……。霞様、どうか安心してください」
「そうですよね。噂ですものね……」

 霞は強張った笑みを浮かべてみせる。

「そんなことを話しにわざわざ私の元に?」
「申し訳ありません。実は茉莉様の様子が心配だったのです。水仙様が倒れられて人一倍働かれているように見えたので……」
「私の……ためですか?」

 目を丸くさせた茉莉に霞は扇を仕舞うと、その手を取った。突然のことに茉莉は肩を震わせる。

「どうか無理はなさらないでくださいね。水仙様回復も心からお祈りしております」
「……はいっ!ありがとうございます!」

 茉莉は鼻声になりながら霞の手を握り返した。
 霞はそのまま水仙の客間を後にすると、大きなため息を吐く。

(さて……これで後は夜を待つだけ)

 同じころ、楓と伊吹は陰陽寮おんみょうのりょうを訪れていた。
 内裏だいりを出て、通りを挟んですぐの所に位置する。陰陽師達が多く控えている場所でもあった。
 その中の一室に案内された楓と伊吹は陰陽寮の使いの男の前に頭を下げて座っている。部屋は香と書物の香りで満ちており、肌寒い。宮中の部屋にはない雰囲気に伊吹は時折首を動かして物珍しそうに部屋を観察していた。

空木うつぎ様は水仙様の件で忙しくされております。お会いできるのは夜になってしまいます」
「忙しいのは重々承知しております。こちらも火急の用にて。夜でも構いません、一目お会いしたく存じます」
「……その旨、空木様に伝えましょう」

 遠くを見ているような、仄暗い瞳をした不気味な男は返事をすると消えるように部屋の奥に消えてしまう。

「陰陽師とは得体がしれませんね……。蔵人頭くろうどのとう殿は陰陽頭おんみょうのかみ殿とお会いしたことはあるのですか?」

 陰陽寮を振り返りながら伊吹は呟いた。前を歩く楓が答える。

「宮中行事で遠くから見かけたことがある程度だな。直接会話を交わしたことは無いがそんなことは関係ない。なんとか空木様とお会いする約束はできたんだ。必ず原本を手にする……」

 楓の目の前には荘厳な建物、内裏が広がっていた。内裏の上には鈍色の重たい雲が浮かんでいる。
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