姫は盤上に立つ

ねむるこ

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はるがすみ

第四十三話 第五巻 あかし(2)

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(なんとかここまで辿り着いたわね……)

 霞は操られた人々の騒ぎをくぐり抜け、東対ひがしついの透渡殿を急ぎ足で渡っていた。周囲を見渡し、警戒する。そろそろ化け物の居所が近い。
 このまま何事もなく先へ進むことができると思ったのも束の間。霞の行く手に真っ赤な装束の男が立ちふさがった。

「……不届き者……捕らえよ」

 衛士えじらしき大男はやはり眠っているかのように瞼を閉じている。それなのにしっかりとした足取りで霞に向かってきた。

「……!」

 霞はじりじりと背後に押しやられていく。

(こんな狭い道で向かってこられたら避けようがないわね。それにあれだけ体格のいい相手を護身術で制することができるかどうか……)

 考えている間にも操られた衛士との距離が狭まる。
 霞の耳に風を切り裂くような音が聞こえてきた……かと思うと目の前にいた衛士が柱に寄っていた。正しくは飛んできた矢によって着物の袖が柱に縫い留められていたのだ。
 間髪入かんぱついれずにもう一矢いっしが飛んでくると、今度は足元の袴に飛んできて、衛士の動きを封じた。
 衛士は矢を引き抜こうとその大柄な体をじたばたとさせる。

「早く逃げろ!」

 矢が放たれた庭に顔を向けて、霞は目を見開いた。

枇杷びわ様!」

 矢を放ったのは射天ノ儀いてんのぎで活躍し、白樺しらかばと並ぶ弓矢上手で有名な右近衛中将うこのえのちゅうじょうだった。相変わらず着物をだらしなく着こなしているが、弓矢を放つその姿は真っすぐに伸びる木のように美しい。
 霞は我に返ると、衛士を避けるようにして透渡殿を通り抜けながら枇杷に手を振った。

「枇杷様!少し宜しいですか!」
「えーっと……確かあんたは蔵人頭くろうどのとう殿の~」

 霞に呼ばれた枇杷は、困惑した表情を浮かべている。余計なことを言われる前に霞は要件を切り出した。

「その弓矢を貸していただきたいのですが」
「いきなり何を言い出すのかと思えば……。何すんですか?危ないですよ」
「いいから!早く!」
「ええ……。宮中の様子がおかしいから俺の自衛用に持ってきたのに」

 枇杷は霞の勢いに気圧けおされて担いでいた弓と矢筒を渡す。

「枇杷様も暴れている人達を取り押さえて!怪我人が出るのを一人でも少なくしてください。あとは私が何とか致しますから」
「はあ……」

 必死な形相ぎょうそうの霞に枇杷は訳も分からぬまま返事をすると弓矢を渡した。

「一体何が起きてるってんだ……」

 ひとり取り残された枇杷は途方に暮れたように空を見上げた。

「なんだ……あの空」

 枇杷は宮中を包む不穏な空の色に息を呑んだ。まだ日が出ている時間のはずなのに薄暗かった。かと言って雲が出ているわけでもない。空に薄っすらと黒い布が張られたような……そんな光景が広がっていた。


 
 霞は矢筒を背負い、弓を腕に通して宮中の東対をひた走る。その間にも数名の操られた衛士が歩いていたが物陰に隠れてやり過ごした。
 遂に化け物が控えていると予測した部屋の前に辿り着いた。襖の前には短く髪を切りそろえた女童めのわらわが座っている。霞ではなくどこか遠くを眺めているのが不気味だった。

「もうしわけありません。ここから先はどなたもお通しできません」
「おひきとりください」

 頭を下げてきたが、構うことなく霞は思いきり襖を開けた。
 甘ったるい、酔ってしまいそうなこうのかおりが鼻を刺激する。
 きつく握りしめた拳は震え、己の心臓の音が聞こえてくるようだ。それほどまでに霞は緊張と怒りに支配されていた。目の前にずっと追い続けてきた一族のかたき……化け物がいる。
 霞は平静へいせいを装い、掠れながらも声を張って語り掛けた。

「あなたが化け物だったのですね……山茶花さざんか様」

 御簾越し。置き畳の上に座っていたのは……東宮の妃。山茶花だった。御簾からはみ出した藤色の唐衣からぎぬが見る者を魅了する。絹のように細くて柔らかい髪に白色のを身に着けたその姿はこの世の者とは思えないほど美しい。
 口元を覆った扇から微かに垣間見える目元は垂れ下がり、妖しい色気を漂わせていた。
 こんな女子おなごとふたりきりになってしまったら誰であっても眩暈がしてしまうだろう。
 今の霞にとってはこの美しい女人にょにんは憎き敵。狩るべき化け物でしかない。そう言った意味でその美貌に動揺することはなかった。

「こんなところまで……如何いかがされたのです?霞様」
「いい加減人間のふりをするのをやめたらどうですか……」

 霞は怒りに震えてしまいそうになる声を必死になって抑えた。どう頑張っても泥のように重くまとわりつく感情が表にでてしまう。その様子を山茶花は楽しそうに眺めていた。

「自分の意にそぐわない者、術にかからない者を排除してきた。そうして宮中を、国を我がものにしようとたくらんでいるのでしょう……」
「私にそのような力があるとお思いですか?」

 山茶花の無邪気な問いかけに霞は淡々と答える。

「『ひめつばき物語』は東宮とあなたのことを参考に描かれた物語……。つばき姫の正体は神社に封印された妖でした。人外じんがいの存在であればそのような力をもっていても不思議ではありません」
「確かにひめつばき物語は水葵様が私を参考に書かれたものですけれど。だからと言って私を化け物扱いするなんて……。霞様は想像力が豊かですのね」

 朗らかに笑う山茶花を見て、霞は取り乱した。自分の考えが外れてしまい慌てた素振りを見せる。着物の袖で口元を覆い、弱々しく微笑んだ。

「もしかしてと思ったのですが……。見当違いでしたか?ご無礼をお許しください」
「いいえ。お気になさらないで。あの物語はよくできているものね」

 山茶花は余裕の表情で霞を眺めている。霞は何とか気まずい雰囲気を拭い去ろうと話題を探した。

「先ほど弓矢上手の枇杷びわ様とすれ違いまして……。山茶花様は射天ノ儀で弓将ゆみのしょうに選ばれたえんじゅ様を御存知ですか?大層な弓の腕前だったそうですが……」
「ええ。よく覚えているわ。どれだけ離れていてもまとの中心を射止めていたわね……。今使われている的なんかよりもずうっと小さいものでも当ててみせていたわ。今だに彼の上を行く者は宮中にはいないのではないかしら」

 山茶花の答えに霞の目がひらめいた。先ほどの柔らかな声色から、研ぎ澄まされたやいばのような声に変わる。

「まるでその弓試合を目にされたような口ぶりですね……。槐様は三百年前の弓将にございます。『宮中記録』で確認できる最も古い弓将でした」
「……」

 山茶花は瞬きをして何事かという表情に変わる。
 これこそが霞の一手だった。

「山茶花様、貴方の正体は……遙か昔、九美きゅうび神社にふうじられた化け物です。物語の中では久日くび神社となっていましたが……。
文書殿にある寺社仏閣の伝承が書かれた書物で読みました。宮中の姫として入り込んだ化け物。帝の寵愛を受けて国を崩そうとしていたところを陰陽師が見破り、神社に封じたというものです。それから……山茶花様と東宮様が実際に出会われた神社でもありますね」

 淑やかだった山茶花の空気が変わる。霞に刺すような視線を浴びせてきた。続けざまにくすくすと笑い声を立て始める。

「大したことのない駒だと思っていたのに……。私を口車に乗せるなんて。さすがは汚い宮中を渡り歩いているだけあるわね」

 本性を現した山茶花に霞は緊張を高める。

「貴方は遊戯盤ゆうぎばんで私と向かい合っていたつもりだろうけれど……私にとっては全てがでしかない。もちろんそれは貴方も、貴方の家族も同じよ。霞」

 霞は体の内側を燃やすような怒りをまとった。ズキズキと左腕に負った火傷が痛み始める。

 この世界なんて、遊戯盤ゆうぎばんみたいなもの。
 適切に人、言わばこまを動かせば、己の人生は思うがまま……。
 胸に秘めた願望も達成することができる

 まるで歌を歌うように山茶花が軽やかに口ずさむのを、霞は左腕を右腕できつく掴みながら聞いていた。
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