姫は盤上に立つ

ねむるこ

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はるがすみ

第四十九話 かぎりなくかなし

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「まさか山茶花さざんか様が九美きゅうび神社に封じられた化け物だったなんて」
「すぐ近くに化け物がいたと思うと恐ろしいわね……」
「今、宮中全体を陰陽師達が清めているそうですわよ」

 ひさしの内側。御簾の中で女房にょうぼう達は扇を口元に当てながら話した。

「そういえば。陰陽頭おんみょうのかみが化け物に通じていたのでしょう」
空木うつぎ様は宮中から追放されたみたい……」
水仙すいせん様なんて出家されるそうよ」
「まあ、お若いのにおいたわたしや……。菖蒲様のことがあったから仕方ないのかもしれないけれど」

 その前をぼんやりとした薄紫色の着物を着た女房にょうぼうが通り過ぎる。御簾の中に居た女房達の視線が釘付けになった。

かすみ様が化け物を射抜いたという噂。本当かしら……」
「私は楓様だと聞きましたけれど」
「弓を引く楓様のなんと勇ましいことか……。なぜ霞様と噂になっているのか不思議だわ」

 女房達の話し声が大きくなる。

「楓様、縁談の話が持ち上がっているみたいじゃない」
「どのような美しい女子を迎え入れるのか……楽しみですわね」
 
 霞は足早に御簾の前を通り過ぎながら心の中でため息を吐いた。

(あんなことがあっても宮中は変わらないわね)

 伊吹の見舞いのために宮中の東対ひがしついを訪れていたのだ。
 部屋に入るなり伊吹は霞に向かって頭を下げていたのだから驚いてしまった。

「すまなかった!霞!」
「伊吹!何やってるの?傷口が開いてしまうでしょう。早く横になって……」

 伊吹は霞に促されるまま、布団に横になる。己の額の上に腕を交差させて分かりやすいぐらいに落胆していた。

「操られた挙句、霞に危害を加えるなんて……。最低最悪だ」
「そのことはもういいのよ。伊吹の刀が命中したお陰で私は化け物を射抜くことができたんだから」
「……」

 いじけたように返事をしない伊吹に呆れながら霞は布団を叩いて言った。

「伊吹が生きていたからいいのよ」

 伊吹は腕を乗せたまま、霞に表情を見せることなく続ける。

「霞……。俺は養父の伝手つてを頼り、地方官になろうと思う」
「そう……宮中を出るのね。寂しくなるわ」

 霞は驚きもせず、穏やかに答えた。

(伊吹をやっと私から解放してやることができる……。本当に良かった)
「どうか。霞も蔵人頭くろうどのとう殿とお幸せに……」

 振り絞るような伊吹の声に霞は息を吐いた。

「楓様とはここまでよ。言ったでしょう。はじめから仮初かりそめの関係だと。私も宮中を下がってどこぞの屋敷の姫の世話役か下女《げじょ》になろうかしら……」
「霞……どうして」

 腕の隙間から見えた伊吹の瞳が険《けわ》しくなる。伊吹に何か言われる前に霞は立ち上がった。

「ではね。私はこれから調べなければならないことがあるから。宮中を出る時になったらまた声をかけるわね」

 そのまま着物の裾をひるがえす。

(そうよ。私も役目を終えたのだから、伊吹のように前を向かなければ。いつまでもぼうっとしてるわけにはいかないわ。新しい場所へ足を踏み出すのよ)

 両頬を叩いて己を鼓舞こぶした。
 霞が足を止めたのは文書殿ぶんしょどのだ。化け物騒動の後始末のせいだろうか。他の役人の姿は見えない。霞は古めかしい書物しょもつを手に取った。

(そういえば楓様とはここで出会ったんだったわね)

 文書殿を見渡すと、ひとりでくすりと笑った。

(こんな風に側にいなくても思い出してしまうなんて……。演技が身にみすぎてしまったみたいね)

 懐かしさと寂しさを胸に霞は文書殿を出た。


 その日の夜、切灯台きりとうだいの明りを頼りに霞は文書殿から借りてきた書物を読んでいた。

(こんなに静かだったのね……)

 化け物を狩るため楓達と語り明かした日々を思い出す。そんな過去の光景を掻き消すように霞は文机に置いた書物に目を落とした。
 暫く書物に集中していると、衣ずれと足音が聞こえてくるのに気が付く。やがてその人物は中庭を見るために開け放たれていた戸の前で足を止めた。御簾が掛かっているため人物の輪郭がぼんやりと映る。

「楓……様?」
「なんだ?そんなに驚いて」
「化け物を討ち、復讐を終えた今。私に会う理由などありませんよね?」

 霞の冷たい言葉に楓がくすりと笑う。
 
「冷たいことをおっしゃる……。あの時言っただろう?またここで会おうと」

 そのまま楓は御簾越しに座った。

(ここに居座るつもり?)

 霞の顔が曇る。楓に早くここから立ち去ってもらいたかった。楓を前にしてしまうと先ほどまで意気込んでいた新しい場所へ向かう気持ちが薄れてしまいそうになる。

「何か御用でしょうか……?私は調べ物があって忙しいのですが」
「調べ物?何を調べてる?」
「楓様にお教えすることは何もございません」

 楓の会話を断ち切るようにわざと突き放すような言葉を続ける。楓はそんな霞に怯むことはなかった。

「もう己の心を誤魔化すのはやめたらどうだ」
「誤魔化す?何をおっしゃっているのです……?」

 予想外の問いかけに霞は眉を顰める。

「霞様は出会ってからずっと悲しみと無力感を胸の内に隠しておられた……。復讐の炎があったから見えにくくなっていたが、復讐を終えた今。霞様が悲しみや無力感に襲われているのではと思いこうしてさんじたまで……」
「悲しみ?無力感?そんなものあるはずがありません。私の心はずっと怒りで燃えていましたから。化け物の正体を想像しどんなふうに追い詰めてやろうか……。そんなことばかり考え続けてきました。化け物を討ち、復讐を果たした私の心は喜びに満ちております……!」

 霞は己の声が震えていることに気が付いて戸惑った。身体が揺れると共にぽたぽたと雫が文机ふづくえに落ちる。その雫が己の涙なのだと霞は遅れて気が付いた。

(どうして……。私……どうして泣いているの)

 慌てて着物の裾で押さえるも、涙が引くことは無い。引きる喉の音を聞かれまいと声を押し殺そうとするも無理だった。

「霞様が失った家族について話すのを聞いたことがない。ひとりで一身に何もかも背負っているように見えた。己の心の内を話さないことで大切な者を失った悲しみを押さえ込んできたんだろう。……良かったら聞かせてくれないか霞様の父上や母上がどんなお方だったのか」

 腫れ物に触れるかのような優しい楓の声に霞の冷え切った身体にじんわりと熱が巡って行く。せきを切ったかのように口から言葉が溢れだした。

「父上は……私が会ってきた殿御とのごの中でいちばん聡明そうめいなお方でした……私に兵法ひょうほう人心ひとごころについて教えてくださいました。母上は変わり者の父上を見守るような心優しいお方で……」

 霞は声を詰まらせながらゆっくりと語る。それを楓が言葉なく黙って聞いていた。いつの間にか誰にも明かしたことのない心の内を楓に語っていた。

「一族が死んだのは私のせいだとずっと己のことを責めてきた……。化け物への復讐だけが私の生きている理由でした。それにすがっていなければ正気しょうきを保って生きていられなかった……。復讐を果たし、私には何も無くなってしまったのです……」

 震えながら息を吸って吐くと霞は続けた。そっと文机ふづくえに乗った書物を手でなぞる。

「化け物の本性ほんしょうを知り、分からなくなりました。私の復讐は正しかったのか……」
「その書物は……?」
「これは化け物になる前の姫について書かれた書物です。化け物は『椿つばき姫』という名の実在した后《きさき》でした……。昔の帝が別の姫を寵愛し、疎ましく思われた椿姫は子供と引き離され、宮中を追われたようです。その後困窮し、むご最期さいごを迎えたようです」
「化け物退治が終わったというのにまだ調べていたのか?」
「何故化け物がこの世に生まれたのか。この目で確かめたかったのです……。知ったところで己のみにくさが増しただけですが……」

 霞はふっと己をあざ笑うかのように小さく息を吐く。

「人の行いには良い物も悪い物も両方含まれる……。霞様が凄惨せいさんな過去を持つ化け物に対して罪悪感をいだくのも自然なことだ。みにくくなどない」

 楓の言葉が雨のように干からびた霞の心に降り注ぐ。春に降る雨のように優しい雨だった。また霞の目じりに涙が浮かぶ。

「そちらへ行っても構わないか?」
「……」

 霞が答えないうちに楓が御簾を潜って霞の側にやってきた。霞は涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せたくなくて咄嗟とっさに着物の裾を口元に添える。
 月明りを背にやって来た楓はいつか見た時のように、月の使者の如く美しい。いつもと異なるのは色気いろけよりも優しい雰囲気を纏っていることだろうか。
 愛しいものを見るかのような目つきに心が落ち着かなくなる。
 霞の隣に腰を下ろすと、霞の左手を両手でそっと包んだ。霞は間近で楓の顔を見ることができず、顔を俯かせていた。

「霞様。命を救われた恩情でもなく、哀れみの心でもない……これからも俺の側に居てくれないか」

 楓の言葉に霞は弾かれたように顔を上げた。すぐ近くに秀麗な楓の顔があって霞は息が止まりそうになる。己の心臓の音がドクドクと聞こえてくるようだった。顔に熱が籠っていくのを感じる。
 楓の慈愛じあいに満ちた表情から演技ではないことはすぐに分かった。本当は嬉しいのにもう一人の自分が首を横に振る。

(楓様の幸せを真に願うなら、私と結ばれるべきではない。それはずっと前から分かっていたことじゃない。もっと美しく身分のある心根の素直な女子おなごでなければ……)
「私のような傷だらけの私は……楓様の隣に相応《ふさわ》しくありません」

 霞の言葉を聞いた家では霞の左腕を捲り上げた。突然の行動に霞は思わず声を上げる。

「な……何を!」

 目の前に現れたのは火傷やけどの跡だった。その火傷の跡に楓は唇を落としたのだ。
 霞はのぼせたようにその光景を呆然と眺めていた。今まで心にまとわりついていたしがらみが消えていく。
 楓は顔を上げると、優しく霞の腕を取ったまま微笑ほほえんだ。

「伊吹から霞様が宮中を去ると聞いて。居てもたってもいられなかった……。これからは俺も霞が背負う心の荷を持って歩こう。重くて、綺麗なものでなくとも構わない。俺は霞の隣にいたい」
「……!」

 どちらが先に相手を抱きしめたのか分からない。いつの間にか互いを抱きしめあっていた。楓が霞を引き寄せたのと、霞が楓の胸に飛びこんだのがほぼ同時だった。
 霞は楓の腕の中で子供のように泣きじゃくる。
 今まで溜め込んできた感情が、涙となってとめどなく流れ出ていった。
 その背を正面から抱えこんだ楓が優しくぜる。
 
 柔らかな月明かりが差し込む御簾みすの中。ふたりは長いえた。
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