姫は盤上に立つ

ねむるこ

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はるがすみ

第四十八話 嘘と真(2)

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「私は生まれてからずっと病弱なこの体をのろっていた。兄御前あにごぜのこともねたんでいたんだよ」
「お前が……俺を?」

 東宮とうぐうが優しい微笑みを浮かべる。妬んでいるとは思えないほど穏やかな口調だった。

「私も兄御前のように壮健《そうけん》な男であればと何度考えた事か……。まつりごとの相談をされるたびに胸が痛んだものだ。兄御前が私のことを考えて頼ってくれているのに素直に喜べないこともあった」

 素直な感情と言葉が聞く者の心にじんわりと響く。帝はいちばん信頼している腹違いの弟が己のことを妬んでいるとは思っていなかったのだろう。驚きとやるせなさをにじませた表情を浮かべる。

「……すまないことをした。俺はそんなお前の気持ちを知らずに傷つけてきた……」

 隣で東宮を支えていた帝はしおれたように東宮に頭を下げた。

「ううん。兄御前が謝ることではないよ。これは私の弱い心のせいだから……。山茶花さざんかも私と同じで妬んでいた。周りにいる幸せそうな人達を」

 そうして正面で動けずにいる山茶花に視線を向けた。

「当たり前じゃない……。私に幸せな時なんてなかったんだから……」
「私と似ている君のことが気になって……。人でないと分かっていても私の側に置いていた。それにまことの君は誰よりも優しい人だったから」
「……」

 化け物から尾が消え、霞たちの目の前に血だらけの女人にょにんが立っていた。黙って東宮の話に耳を傾けている。

「身寄りのない子供や女子おなごを救う姿に私は心打たれた……。多分、自分と同じ目に遭った人達を見捨てられなかったんだろう?」

 山茶花は自分の唇をきつく噛み締めた。

「それに私はやまいがちであまり人が側に寄ってこなかった。皆口に出して言うことは無いが、私のことを疎ましく思っている者もいたのも知っている。だけど君は側にいてくれた……」
「だから……それも私の偽りだって……」
「たとえ偽りだったとしても救われた者がいた。それは紛れもないまことなんだよ」

 山茶花の仄暗い瞳に光が宿る。

「君は本来、誰よりも優しい人だったのに辛い過去と己のしがらみのせいで優しい人でいられなくなってしまったんだよ。本当はもっと早くに止めてやれれば良かった……。辛い思いをさせて……本当に申し訳ない」
「どうして……あんたが謝るのよ。私は化け物で宮中の権力者を殺したのに……」

 今にも泣きだしそうな幼子のように山茶花の顔が歪む。その表情は身体的な痛みではなく、心の痛みで苦しんでいるように見えた。

「君は私と同じようにずっと己に呪いをかけていたんだよ。
こんな自分では誰からも愛されない。誰も愛することはできない……。自分は権力者を殺す化け物だって……。本当はこんなにも思いやりにあふれた心優しい女子おなごなのにね」

 終始穏やかな東宮の語り口にその場にいた者の心はみな、静かな湖面のように波一つ立たなかった。
 山茶花の瞳から一筋の涙が流れた……かと思いきや次から次へと涙が零れ落ちていく。
 その姿は数々の権力者を己の手を汚さずにほうむって来た恐ろしい化け物ではなかった。紛れもなく、ひめつばき物語に描かれたつばき姫その人のように見えた。

「よくあの濡れぶちで月を見ただろう?あの瞬間が私にとっていちばん幸せなときだった。その気持ちだけは山茶花にとってもまことであったのなら……嬉しいな」

 その光景を見ていた霞は握りこぶしを作り、唇を噛み締めていた。
 憎いはずの一族のかたきが苦しみ泣いているというのに少しも気持ちが晴れなかったからだ。

さかきの娘……かすみよ。山茶花の代わりに詫びさせておくれ。本当に申し訳なかった。私の術がもっと早くに解けていれば助けられていたのかもしれない……。悔いても悔やみきれない。長きに渡り酷く苦しんだだろう」

 よろめきながらも東宮は土に膝を突くと、霞に向かって深々と頭を下げた。霞はまばたきを繰り返す。まさか霞が榊の娘であることを知っているとは思わなかったのだ。
 更に今日こんにちまでずっと悔やんでいたとは……。東宮の賢さと人情深さに霞は衝撃を受ける。慌てて乾いた口を開いた。

「おやめ……ください。東宮様は……何も悪くありません……」
「その通り。全ての悪の元凶は私です……」

 霞は弾かれたように山茶花の方を見た。化け物が己の非を認めたのだ。話し方がいつもの山茶花のものに戻っている。

「いくら詫びても泣いて悔やんでも、残された者達の慰めにならないことは分かっています。全てが遅すぎた……。だから……私は黙ってこの炎に焼かれましょう。貴方が放った復讐の炎に」

 突如、炎が山茶花を包み込む。焦げ臭い匂いが周囲に漂い始めた。霞は黙って山茶花が火に呑まれるのを眺めていた。
 一族を消し去った炎が時を経て今、憎いかたきを燃やしている。

「ひとりでは行かせないよ」

 東宮は山茶花の元に飛び出し、炎に呑まれる山茶花の手を握ったのだ。

「離れろ!お前まで焼けてしまうぞ!」

 帝が手を伸ばそうとするもその手を東宮が片方の手で制する。その表情は炎の熱さのせいだろうか。けわしいものに変わった。

「もとより私の命はそう長くなかったのです……。今焼け死ぬことぐらい……どうってことありません。私も山茶花と共に罪を償います」
「そんな……!そんなの俺は嫌だ!ふたりで国を支えてきたではないか!これからもお前の力が必要だ!」
「殿下!お下がりください!」

 帝が東宮の手を掴もうとしたのを、霞の隣にいた楓が駆け出して行って止める。必死な帝の姿を見て、東宮は静かに首を横に振った。

「兄御前……。不出来な弟で申し訳ありませんでした。こんな私を今まで重用ちょうようしてくださってありがとうございます……。来世があるのならば今度は強き者となって兄御前をお支えします」
「行くな!」

 帝の叫び声と共に炎がふたりをあっという間に包み込んでしまう。その炎は竜のように天に昇って行った。ふたりの姿が消えたかと思うと、庭に一本の木が現れる。

 まるで着飾った女子のように、幾重いくえにも桃色の花弁はなびらを重ねた美しい花が咲いていた。

 それは……山茶花の花だった。


うつせみの うつりよなれば ともしびも も からとおなじ


 風に乗ってそんな歌が聞こえてきた気がした。霞は美しい山茶花の木を見上げ、その場に立ち尽くす。
 帝が膝を突いて泣いているのか叫んでいるのか分からない声を上げていた。そんな帝の身体を楓が支えている光景がぼやけて見える。

(全て終わったのね……私が人生を懸けてやり遂げなければならないことが……)

 復讐を遂げた霞の心を襲ったのは底知れない虚無きょむだった。

 喜べばいいのか、泣けばいいのか、怒ればいいのか……。

 自分が今、何を感じ、どうしたいのか分からない。
 救いを求めて天をあおいでみる。
 空に広がる澄んだ青空は霞の心を慰めてはくれなかった。
 そのまま美しい青空が落ちてくるのではないか。いや、落ちてきて欲しいと霞は願ってしまった。
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