ハンカチの木

Gardenia

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第一章

1 貼り紙

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小さな貼り紙を見たのはほんの偶然だったように思う。
自宅から最寄り駅までの途中で雨が落ちてきたとふと立ち止まった。
空を見上げてそれほど暗くない雲にほっとしたときにそれが目がとまった。

『通学弁当 通勤弁当 愛妻弁当 彼女/彼氏弁当 
 その他ご要望相談のうえ お弁当をお作りします』

白い四角い紙に手書きで書かれた紙はいつから貼られているのか少し色褪せていた。

そのまま通り過ぎたけれど電車の中でふと先ほど見た手書きの紙が気になって、それが貼られていた墨色の板塀の家を思い出していた。
小さなその家は古い建物で、保坂が1年前に引っ越してきてから今朝までは意識したこともなく、どんな人が住んでいるのかいないのか考えたこともない自己主張の少ない家であったはず。
板塀しか覚えてないよなぁと思いながら混雑する電車を降り、そこから10分ほど歩いて勤務する工場に到着した。

保坂の勤務する工場は東京に本社があり名前を聞けば誰でも知っているような大会社。
その直轄工場だけど土地柄なのか全体にのんびりした雰囲気が漂って、駅から工場まで10分たらずの道のりを同僚の何人かが「おはよー」と声かけながら自転車で追い越して出勤する朝の光景は、今日も変わらない一日のスタートでなぜか保坂をほっとさせる。
一年前までの保坂は駅を隔てて反対側に、徒歩で10分自転車だと数分の距離にある工場の寮住まいだったので他の同僚たちのように自転車で通っていたのだ。
自転車での通勤をしなくなってから少々運動不足気味かもと思いながら、いつもと同じ時間に正門をくぐり、更衣室で作業服に着替えていつものように給湯室でコーヒーを自分のマグに注いでから持ち場に着くころには、朝の貼り紙のことはすっかり忘れて仕事に集中していきました。

「そろそろ昼だぞ!」と隣の席の香川に言われて壁の時計を見ると12時10分前。
「今日は社食にするか?」と誘われた保坂は「今日はコンビニ行くよ」と断って少し早めに職場を出ようとすると、同期の早瀬薫に「私、ランチパック、ツナマヨネーズね!!」と声をかけられた。
保坂は足を止めて表情のない顔を薫に向け、それからゆっくりと職場を後にした。

「あぁ~、今日もダメかぁ~~」
大げさにつぶやいて机に突っ伏した薫の頭をパシッと叩き、
「毎度、毎度、懲りないなぁ。俺と一緒に社食に行こうぜ!」と香川が薫を誘います。
「えっ?お兄さん、奢ってくれるの?」
「ば~か、なんでお前に奢らなきゃいけないんだ?
それに兄ってなんだ?俺は同期だぞ、しかもお薫チャンのほうが1ヶ月ほど誕生日が早いはず(笑)」
「香川、嫌い~~。女に年上言うな!」
薫はそう言いながらお財布をつかんで香川と一緒にお昼を食べるべく食堂に向かった。

「それにしても、保坂チャンって何で普通に会話が出来ないんだろうねぇ」とA定食を頬張りながらつぶやく薫に、「会話ができないんじゃなく、薫チャンの下僕にはなりたくないだけなんじゃないの?」
「普通、同僚とはコミュニケーションするでしょ、普通はさ」
「保坂は昔からああだよ。孤独を愛してるんだろう?(笑)」
「疑問系だよ(笑)香川チャン。」
「まぁ、どうでもいいからとりあえず食え。」
「ん」と素直に頷いた薫はご飯を半分残してご馳走様と手を合わせ、食後のお茶を飲み干した。

薫と香川が席に戻ってみると、保坂は食べ終わったサンドウィッチの包みをそのまま机に置きカフェオレを飲み終えたところだった。
「あれ?ここで食べたんだ?」という薫の声に振り向く様子もなく
「雨が降ってきたからな」とだけ言ってランチの残骸を片付け始めた保坂に香川が
「午後は点検に行くのか?」声をかけた。
工場勤めではあるが保坂や香川の部署は製造部ではなく機械技術部だ。
紅一点の薫も含めて工学部を卒業してこの会社にやってきた。
保坂が作業服を着ている日は稼動している機械の点検をしたい日だというのは薫と香川にはわかっていた。
普段は作業着でなくてもよい職場だ。午前中はデスクに居たから午後から出かけるのだろう。

午後の仕事が始まってほどなくして香川に「ちょっと見回ってくる」と声をかけ保坂は出かけて行った。
「好きだよね、保坂チャンは」と薫がつぶやく。
「あれがあいつのスランプ脱出策だよ」と香川が応える。
あとは二人ともそれぞれのモニターに集中し、黙ったまま午後が過ぎていった。

退社時間間際になってようやく保坂が席に戻ってきた。
「何かあったのか?」と香川が聞くと、「あぁ」とだけ保坂は言ってしばらく目を泳がせていたが、「15号機のワイヤーがはずれかけてたので直してた」と言葉を続けた。
「それって電気部の仕事じゃね?」
「うん、電気部のなんだけどワイヤーの留め方をちょっと提案してたものだから遅くなった」
「電気も好きだものなぁ、保坂チャンは」
「まぁね。手も必要だったし。で、そのことについて報告書作らなくちゃならなくなったわ」
「はいはい、頑張ってください。俺は定時であがるよ(笑)」
そういう会話をしながらも保坂も香川もタイピングを止めたりはしなかった。

実のところ保坂は次の提案会議に必要なものがまだ出来ていなかった。
行き詰っていたので、点検と称して機械を見に行くといくことで気分転換を図ったのだ。
いつも行き詰ると大きな製造機械を眺めに出かける。
機械の一定のスピードと動きが保坂に考える時間を与えてくれるような気がする。
そうやって今日も点検と称してデスクを離れた。
機械の間を歩きながら気になる箇所を見つけたので電気部の新人を呼び、一緒に作業しているうちに次の会議に提案するべきものが見えてきた。
いつもそうだ。PCを眺めているだけでは思いつかなかったことが現場にはある。

定時を1時間ほど過ぎたところで保坂は報告書を仕上げ、帰る準備を始めた。
データを保存しPCをシャットダウンする。
まだ残ってる同僚に声をかけて工場を後にした。
朝と同じ道を逆にたどって電車に乗り2駅目で下車する。
東京から1時間半ほど離れているがそれほど田舎ではない。
特急が停まる駅と直結して有名デパートの支店や都市銀行が在り、駅前ロータリー中央からまっすぐに伸びている道の両側は商店街になっていて、夕方はかなり活気がある。
でも確実に都心とは違う時間が流れていた。
保坂はそんな時間の駅前を嫌いではなかった。
商店街を中ほどまで進み、主婦の味方と店側のキャッチコピーが掲げられたスーパーを右折し、10分ほど歩くと保坂の住むマンションがある。
そこまで来ればもう繁華街の音もなく静かな住宅地になっている。
朝に見つけた貼り紙はスーパーの角を入って数軒目の家だったはず。
もう剥がされたのか、帰り道でみかけることはなく保坂もすっかり貼り紙のことは忘れていた。

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