銀の皇太子と漆黒の聖女と

枢氷みをか

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第二章 ユーリシア編 第三部 有備無患

ユルン=フォーレンスの夢・四編

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「…お一人で怯えているかもしれません。急ぎましょう」

 ダリウスはシスカを伴いながら、家に向かう獣道を急いでいた。

 本当はもっと早く帰るつもりだった。
 だが列席者たちからしきりに声をかけられて、抜け出すに抜け出せなくなった。かと言ってあからさまに辞去しては怪しまれるだろう。
 結局、解放されたのはもう黄昏時を過ぎた頃で、空が軽く紺を帯びてきた頃合いだった。

 そこからシスカと一緒に尾行を警戒しながら急いで、ようやく森にたどり着いたのだ。

(……夕方には帰るとお約束を交わしたのに…!)

 きっと真っ暗な部屋で怯えて震えているだろう。
 元より寂しがり屋で怖がりな子だ。特に今は殺されかけた経緯もある。

 ダリウスははやる気持ちを抑えきれず、駆け足で家路を進む。そんなダリウスの背に、シスカは訝しげに訊ねた。

「…ダリウス殿下。本当に家はこちらの方向で間違いありませんか?」
「……!」

 その問いかけに怪訝そうに振り返ると、シスカは家とはまるで違う方向を注視しているようだった。

「……?…間違いありません。こちらであっています。…何か気になることでも?」
「………いえ、とりあえず家に急ぎましょう」

 シスカの様子に妙な胸騒ぎを覚えながら、ダリウスはシスカと二人、家路を急いだ。

「ユルングル様……!!!」

 家に着くや否や、ダリウスは大声で名を呼んで扉を開ける。その声にユルンが気づいて慌てて部屋を出てくるだろうと思っていたダリウスは、だが飛び出すどころか物音一つしないことに不安を覚えて、慌ててユルンの部屋の扉を開いた。

「ユルングル様…!?」

 静まり返ったその暗い部屋に、最愛の弟___もとい己の主の姿がないことに、ダリウスの心臓は弾けんばかりの鼓動を刻んだ。自分の声だけが虚しく響くその部屋のベッドに歩み寄って、ダリウスは乱れたシーツの上に手を置く。

(……冷たい。もうだいぶ前にお起きになられたのか…)

 それだけ確認すると、ダリウスはすぐさま踵を返して家の中を探そうと扉に向かう。だが、その開け放たれた扉の前でかぶりを振るシスカの姿が、ダリウスの鼓動をさらに波立たせた。

「…ダリウス殿下。この家にユルングル殿下はおりません」
「……!探してみなければ判りません…!どこかで怯えて隠れているのかも____」
「判ります。この家にユルングル殿下の魔力はございません。…あの方の魔力はこの森の遠く向こうにございます。おそらくダリウス殿下を探しに森に入られたのでしょう」
「………!!」

 ダリウスの言葉を遮ってピシャリと告げられたその言葉に、ダリウスは絶句する。

 ここは迷いの森だ。
 一度入って迷えば、もう二度と見つからない。

 頭の中でその言葉が浮かんで、ダリウスは居ても立っても居られず、シスカを押しのけて森に入ろうと駆け出した。

「…!お待ち下さい、ダリウス殿下…!!貴方まで迷われるおつもりですか…!?」
「離してください!シスカ様…!!この森の何処かにユルングル様がいらっしゃるのです…!!あの方はきっと!!私を待って泣いております……!!!!」
「ですが貴方はこの森のすべてをご存じなわけではないでしょう…っ!!貴方まで迷われたら!残されたユルングル殿下はどうなさるおつもりですかっ!!!」
「……!」

 シスカの言葉に、ダリウスはわずかに我に返る。
 シスカの言う通り、ユルンを一人にするわけにはいかない。せめてユルンが一人で生きていけるようになるまで、傍にいると誓ったのだ。
 だが____。

「……では……では、どうすればいいのですか……っ!」
「私が探しに行きます」
「…!では私もご一緒に…!!」
「いえ、貴方はこちらで待機なさってください。…私はユルングル殿下の魔力を追ってあの方をお探しする事は可能ですが、この家の位置を把握しているわけではございません。貴方まで動かれたら、せっかくユルングル殿下をお探しできても家にお連れすることができないのです。…貴方にはこちらで、道しるべになっていただきたい」
「……道…しるべ……」

 シスカの説明を聞きながら少しばかり冷静さを取り戻したダリウスは、シスカの言葉を小さく反芻する。

「……今、私に出来る事は…それしかない、という事ですね……?」
「…はい、ですが重要な事です」

 ダリウスは無力な自分に怒りを覚えるように、拳を握る。
 本当は自分が迎えに行ってやりたい。
 きっと、ユルンは自分の名を呼んで泣いているはずだ。
 それが判っているのに、迎えに行けない現実がたまらなく憎い。

 そんな自分の気持ちを押し隠すように、ダリウスは不承不承と頷く。

「……ユルングル様を、よろしくお願いいたします……!!」

**

(……ねえ、ハクロウはどうしてぼくとお話しできるの……?)

 家まで送ってくれると言うハクロウに連れられて、ユルンは獣道を進みながら隣でユルンの歩調に合わせてゆっくりと進んでくれる銀色の獣に声をかける。

(……それは私が獣なのに、と言う意味か?それともお主の声が出ていないのに、と言う意味か?)
(どっちも)

 問われたハクロウは、軽く思案して答える。

(…ふむ、どちらも同じ答えになるな。…私は人語を操ることはできるが、今はそうではない。そして人の子は声を発していない。それでも言葉を交わすことが出来るのは、おそらく私と人の子の波長が合うのだろう)
(……はちょう……?)
(相性といえば判るか?)
(仲がいい、ってこと?)
(んー…、まあ、間違ってはいない、か……?)

 幼い子供にも判るように説明するのは大変だ、と内心で嘆息を漏らしながら歯切れ悪く返答したところで、ハクロウは何かに気づいたように再びユルンに鼻先を向ける。

(……待てよ?……お主……人の子であって人の子ではないな…?)

 言っておもむろに大きな舌でぺろりとユルンの小さな顔を舐める。

(……!!!?え…!?え…!?何…っ!!)
(…ふむ、懐かしいな。…お主、黒獅子か)
(くろ……??ぼく……人間じゃないの……?)

 訝し気に、だけれども不安げな表情でそう問うユルンを、ハクロウはまるで慰撫いぶするように尻尾でユルンの頭をしきりに撫でた。

(…すまん、すまん。これでは語弊ごへいが生まれるな。お主は紛れもなく人の子だ。ただ黒獅子の使命を担っている、と言う方が表現に合うだろう)
(………?)

 余計、意味が判らなくなってユルンはさらに小首を傾げるので、ハクロウはくつくつと笑みを落とす。

(今は判らなくてもいい。そのうち嫌でも判る時が来る。…時に黒獅子よ。名は何と言う?)

 その質問にユルンは一瞬逡巡してから、少し困ったように答える。

(…………ユルン。……でも本当は、ユルングルって言うみたい)
(…名が二つあるのか?)
(…ダリウス兄さまも、本当の兄さまじゃなかった……。ぼく……やっぱり捨てられたのかな……?)

 ハクロウに出会って、すっかり頭の隅に追いやられていた寂寞せきばく感が再び彷彿して、ユルンはたまらず大声で泣き始める。

(ぼくが弱いから……!!ダリウス兄さまも……ぼくがいらなくなったのかな……っ)
(まてまて!!落ち着け!!私は子供の泣き声は苦手だ…!!)

 大粒の涙をぽろぽろと流して泣き声を上げるユルンに、どうしたらいいものかとハクロウは狼狽する。

 子供の泣き声が苦手なのは、何もその声が耳障りと言うわけではない。
 もちろん人間の耳よりもよく聞こえる耳だ。うるさい事に違いはないが、何よりもその悲し気な声が苦手なのだ。悲痛にも似たその声を聴くと、どうにも心がざわつく。どうにかしてそれを止めたいのに、どうしたら止まるのかも判らず、とにかく狼狽するしかない。
 その状況がたまらなく嫌なのだ。

 ハクロウは慌てふためきながら、ユルンの体をふさふさの己の体躯に押し付けて、しきりに尻尾で背中を撫でてやる。時折とんとん、と背中を叩いたおかげか、いくらか経った頃にようやく少し落ち着きを取り戻して、まだ涙は止まらないものの泣き声が収まったその悲しげな瞳をハクロウに向けた。

(…落ち着いたか?ユルンよ)
(……ぼくは……家に帰ってもいいと思う……?)
(…ユルンのしたいようにすればいい。家に帰りたいなら私が送ってやろう。嫌なら私と共に来ればいい)
(……!…いいの?)
(いいとも。他ならぬ黒獅子の頼みだ。断りはしない)

 優しげな表情と穏やかな声でそう告げるハクロウに、ユルンはたまらず抱きつく。その温かさがひどく安堵感を呼び起こし、そして同時に大好きな兄の温もりもを彷彿とさせて、ユルンは再び寂しさが胸の内に広がった。

 そんなユルンを慰めるように、その小さな体に顔をすり寄せたところで、ハクロウは人の気配を感じて弾かれるように顔を上げた。

(……ユルンよ。あれはお主の兄か?)

 その言葉に、ユルンもまた期待と不安を込めた目でハクロウが向ける視線の先に目を向ける。

 草むらをかき分ける音が聞こえて、暗闇の中に薄っすらと人影が見えたような気がしたが定かではない。ただでさえ鬱蒼うっそうと茂った深い森の中なのだ。おまけに月が雲で陰って、なおさら辺りは闇に閉ざされている。

 ユルンはその暗闇の中にいるであろう人影を見ようと、必死に目を凝らした。

「…ユルングル殿下?そちらにおられるのですか?」
(……!)

 だが、そばだてた耳に聞こえたその声がダリウスのものではなかった事に、ユルンは一気に恐怖が込み上げて力の限りハクロウにしがみついた。

(違う…!ダリウス兄さまじゃない…!!)

 震える体で必死にしがみつくユルンを守るように、ハクロウは尻尾でユルンを覆い隠す。

「…誰だ。名を名乗れ」
「…!?そこに誰かいるのですか…!?ユルングル殿下に何をしたのです……っ!?」

 声の主は第三者の存在にまるで気づいてなかったのだろう。誰とも知れない声が返ってきて、慌てて茂みから姿を現す。
 その一瞬キラッと何かが光ったのが見えて、ユルンは暗殺者が持っていたナイフの鈍い光を彷彿した。恐怖が頂点に達して息が止まるほど体が硬直するのが判ったが、同時に陰っていた月が姿を見せて、光っていたのが何かをすぐに悟ることになる。

(……青い…銀色の髪……?……ハクロウみたい………)

 月明かりを浴びて、ハクロウとはまた違った輝きを見せるその髪に、ユルンは一瞬のうちに目を奪われた。その温かな髪色と、女性とも男性ともつかないような容姿を何となく見た覚えがあるような気がして、自然とハクロウにしがみつく手を和らげる。

(…ユルンよ。お主の知り合いか?)

 ユルンの変化に気づいたハクロウは、依然尻尾でユルンを覆い隠しながらも、そう訊ねた。
 その問いかけにはかぶりを振っていたが、ユルンの表情を見ればもうその心に恐怖がないことは一目瞭然だろう。

「…!獣……!?人の言葉が話せるのですか……!?」
(…私の言葉が判るか?)
「……?…判るも何も…人語を操っているのでは…?」

 何やら話がかみ合っていないような気になって、青銀髪の男は目を瞬きながら言葉を濁す。
 そんな男を見定めるように、ハクロウは彼を注視した。

 確かに最初の声掛けは人語を使った。
 だが、それ以降は獣語のままだ。それでも意思の疎通は問題なく出来ている。それもユルンと同じく、人語と獣語の区別が全くついていないその様子に、ハクロウは感嘆の息を漏らした。

(…これは奇怪な。一日に私の言葉を理解できる者に二人も出会えるとは)
「………?」

 ハクロウの言葉の意を掴み兼ねてその人物は怪訝そうに首を傾げながらも、害をなす存在ではない事を悟って歩み寄る。

「……魔獣……と呼ぶにはあまりに神々しいですね。貴方は神獣でいらっしゃいますか?」
(…そう呼ぶ者もいるが、違う気もするな)
「……?」
(私はハクロウと言う。人の子よ、名は何と言う?)
「…私は神官のシスカと申します。そちらにお隠れになっておられるユルングル殿下を探しておりました」

 シスカ、と小さく反芻するハクロウを横目に、シスカと名乗ったその男はハクロウの尻尾に隠れたままのユルンの前で膝をついた。

「…ユルングル殿下。お探し申し上げました。…お怪我はございませんか?」

 ハクロウのように優しい表情と穏やかな声で問われて、敵ではないと判断したのだろう。
 だとすれば近くにダリウスがいるかもしれない、と期待して周りをしきりに見渡すユルンに、シスカは申し訳なさそうな声を落とした。

「…ダリウス殿下は家でユルングル殿下のお帰りをお待ちしております。私がそう、お願いをいたしました。あの方が家にいてくださらないと、私は家まで帰る道を見失ってしまいますから」

 その言葉で目に見えて落胆するので、シスカはさらに困惑気な表情を落とした。

「……私では、お嫌ですか?」

 躊躇いがちに訊ねられたその質問に、ユルンは肯定も否定もなく、ただハクロウに寄り添う。それでなおさら困惑して、シスカはおもむろにハクロウに向き直った。

「…ハクロウ様。ユルングル殿下を保護していただいて感謝申し上げます。お見受けいたしましたところ、ユルングル殿下は貴方にとても懐かれているご様子。もしよろしければ、私と共に家までついて来てはくださいませんか?」
(ふむ、元よりそのつもりだが……)

 何やら思案しているのか、ハクロウは言葉尻を濁しながら鼻先をシスカに向ける。
 そしておもむろにシスカの顔をぺろりとひと舐めした。

「………!!!?」

 何が起こったのか理解できずに目を丸くして立ち尽くすシスカに、ハクロウはくつくつと笑みを落とす。

(これは僥倖か…!一晩のうちに今世の獅子二人に出会えるとは…!)
「………?????」

 歓喜の声を上げるハクロウに、シスカとユルンは二人、訳も判らずただ小首を傾げていた。

**

(………ユルングル様……っ!)

 ダリウスは家の中で一人待つ気分には到底なれず、帰って来たのがすぐ判るように家の外の切り株に腰かけて二人の帰りを待っていた。
 それでも居ても立っても居られず、やはり森に入ろうかと立ち上がっては、自分を道しるべにすると言ったシスカの言葉が頭をよぎってまた切り株に腰かける事をもう何度も繰り返している。

 頭を抱えるように指を組んだ両手を額に当てているその手がしきりに震えるのは、もう冬も近くなって気温が下がった為だろうか。それともユルンの無事が判らず、不安で心が押しつぶされそうになっているからだろうか。

 ダリウスはその震える手を抑えるように力を込めたその時、ふと何かが森からこちらに向かっている気配を感じた。
 淡く、懐かしい光のように感じるそれに、ダリウスはおもむろに立ち上がる。

「………ユルングル様……?」

 何となくそんな気がして、ダリウスはシスカの言葉も忘れてそちらの方向に駆け出した。
 脇目も振らずその光だけを求めて、ダリウスは躊躇いもなく深い森に入る。しばらく進んだその先に人影が見えて、ダリウスは思わず声を上げた。

「…ユルングル様……!!」

 息を切らして目の前に現れたダリウスに、シスカはたまらず嘆息を漏らす。

「…まったく、貴方という方は…。お待ちくださいと申し上げたはずですよ?」

 そう呆れたように笑うシスカの胸にぐったりと倒れ込んでいるユルンの姿を捉えて、ダリウスは息が止まるような衝撃に襲われた。

「………ユルングル様は……?……ご無事なのですか……?」
「…ご心配には及びません。病み上がりでご無理をなさったので熱がぶり返したのでしょう。…先ほど神官治療を施しましたので、二、三日でよくなるはずです」

 言いながら、シスカは胸に抱くユルンを優しくダリウスに渡す。
 体中、泥だらけで擦り傷はあるものの、特に目立った外傷はない。
 ダリウスは眠るユルンの顔を視界に入れて、失くした宝物をようやく見つけたような安堵感を噛みしめるように、ユルンの体を強く抱きしめた。

「……ユルングル様……!」

 愛おしそうにユルンを抱くダリウスを満足気に視界に留めながら、ハクロウは隣で同じように微笑ましそうに二人を眺めているシスカに声をかける。

(シスカよ。家の場所はもう判るな?)
「はい。ここまで来れば」
(では私ももう帰ろう)

 言って、おもむろに踵を返したハクロウの背中に、ダリウスは慌てて声をかけた。

「お待ち下さい…!貴方が……!貴方がユルングル様をお助けしてくださったのですね…!」
(……!)
「……感謝いたします…!!本当に……!!」

 何の事情も知らず、何の説明も受けていないユルンの兄は、それでもなぜか確信めいた目を向けてくる。
 その瞳に、恐れも怯えも、そして一抹の疑いさえもない。あるのはただひたすら感謝の念だけ。その瞳に、ハクロウは目を瞬いた。

 人間にとって自分の存在がどれだけ奇異なものであるか、自覚しているつもりだ。
 恐れおののく存在に見えるか、あるいは畏敬の念を抱く対象として敬遠するかの両極だろう。
 だが目の前の男は自分を獣ではなく、ただ弟を救ってくれた恩人として見ている。それが妙にくすぐったく、心地よいほど面映ゆい。

 ハクロウは一度返した踵を元に戻して、改めてダリウスに向き直った。

「…ユルンは良き兄を持ったようだな。…私はハクロウと言う。用があればいつでも私を呼べ。いつでも馳せ参じよう」

 それだけ告げるとハクロウはもう一度踵を返し、そのまま暗闇に溶けるように深い森へと姿をくらます。
 ダリウスはその姿が見えなくなっても、主の恩人にずっとこうべを垂れていた。

**

「…あまり栄養を摂られていないようですね。とりあえず点滴をいたしましたが、しばらくこの状態が続くようでしたらまた点滴が必要になるでしょう」

 言いながらシスカは、ベッドで眠るユルンを診察するように頬に触れる。まだ熱い体に小さく痩せ細った体躯がやけに痛々しい。
 そんなユルンを慰撫いぶするように、シスカは彼の頭を優しく撫でた。

「……私では、神官治療を覚える事はやはり無理なのでしょうか…?」

 その様子を後ろで見ていたダリウスが、まるでうような視線を送りながら悄然と告げる。

 まだユルンが生まれて間もない頃、ダリウスは領地で共に暮らしていたシスカに神官治療について教えを乞うた事があった。いずれは必ず必要になる事。そう思って願い出たその思いは、シスカに適性を診てもらった事で脆くも崩れ去る事になる。

「…あの時も申し上げましたが、ダリウス殿下の魔力はとてもお強いのです。ユルングル殿下の弱いお体では耐えられないでしょう。この方の体内に流せば、逆にお命を奪いかねません。…こらえてください、ダリウス殿下」

 魔力には人それぞれに特徴が現れる。
 魔力の強弱もあれば荒々しいものや穏やかなものもあるが、それは魔力の量によって決まるものではない。例えるなら『魔力の性格』だろうか。

 ダリウスの魔力は比較的穏やかではあったが、その強さは他を圧倒するほどだった。生命力に溢れた、と表現するのが一番合っているのかもしれない。それほど強い光を放つ魔力だった。
 魔力の質としてはかなりいいものだが、神官治療として弱った体に流すにはあまりに不向きだろう。

 ダリウスは数年前と同じ言葉が返って来て、たまらず膝の上で拳を強く握る。
 そんなダリウスに改まって向き直って、シスカは言葉を続けた。

「…ですが、貴方に医学の知識をお教えする事はできます」
「……!」
「元よりそのつもりでした。…ユルングル殿下はお体が弱い。どうしても治療ができる者が必要なのです。…時折こちらに訪問してお教えいたしましょう。ダリウス殿下が屋敷に戻られた時はそちらでお教えいたします。私も皇宮医と言う立場ですので、いつでも、と言うわけにはまいりませんが、可能な限り時間を作りましょう」

 そのシスカの心遣いに、ダリウスは自然とこうべを垂れて謝意を伝えようとするが、シスカはそれを笑顔と共にやんわりと制する。

「礼には及びません。私もその方が憂いが晴れると言うもの。…それよりも、ダリウス殿下が危惧なさっていた通り、ユルングル殿下の喉はもう完治なさっているようです」
「…!では…!」
「…はい、お声が出ないのは、精神的なものでしょう」

 その事実に、ダリウスは目を見開いた。

 ユルンは元々、とても繊細な子供だった。
 人見知りが激しく少しでも知らない顔を見つけると途端に何も言えなくなるような子で、わずかでも環境が変わると緊張して体調を崩すことも多かった。

 そんな子が、殺されかけた上に親元から離されてこんな森の中にたった二人、暮らさなければならなくなったのだ。それも5歳という幼さで___。その精神的負担はダリウスが思うよりも大きいのだろう。

(……うかつだった……もっとユルングル様のお心に寄り添うべきだった……)

 そんな状態のユルンを一人この家に残して、あまつさえ夕方に帰ると約束したにも関わらず、これほど遅くなってしまった。不可抗力とは言え、その時のユルンの寂しさと恐怖を考えるといたたまれない。

 渋面を作って思いつめたような表情で肩を落とすダリウスの心痛を和らげるように、シスカは穏やかに告げる。

「…ダリウス殿下、そのように思いつめてはなりません。貴方がそういうお顔をされると、ユルングル殿下はさらにお心を痛めます。どうか笑顔を絶やさずに」

 そう言って微笑むシスカの心遣いが嬉しい。
 六つ年上のシスカは、ダリウスにとっていつも頼もしい存在だった。優しく穏やかで、それでいて強い。ユルンがよく自分を頼もしい兄だと言ってくれるのは、シスカのような兄を目指したからだろう。

 ダリウスはシスカの笑顔に少しばかり心が落ち着いたことを悟って、小さく笑い返した。

「…ユルングル殿下のお声の事はしばらく様子を見ましょう。こちらが焦っては、ユルングル殿下のお心にもよくはありませんから。……それよりも、ダリウス殿下。我々が家の近くに来たことを、どうやってお知りになったのですか?」
「…!それは……何となく……」
「…何となく?何かが近づいてくると感じましたか?」
「……!…はい」

 あの時の感覚をどう言葉で表現したらいいものかと言葉尻を濁したが、シスカがそれを的確に表現するのでダリウスは大きく頷く。

「…その何かとは、どのように感じましたか?」
「どのように……?…淡く……懐かしさを感じさせるような暖かな光のように感じました……」
「その光以外は何か感じましたか?」
「いえ……」

 矢継ぎ早に問われる質問を怪訝に思いながらも、ダリウスは言葉を選ぶようにゆっくりと答える。
 しばらく思案したように目線を落としていたシスカは、ややあってダリウスに視線を戻した。

「…神官には魔力で個人を特定し、その者がどこにいるかを感知できる能力がございます」

 何の脈絡もなく始まったその説明に、ダリウスはただ頷く。
 この感知能力があったからこそ、シスカにはユルンの場所が判り、なおかつ家で待機させる自分を『道しるべ』と表現したのだろう。

「…どうやらダリウス殿下にも、感知能力がおありのようですね」
「……!私に……ですか?」

 突然降って湧いたような話に、ダリウスは目を丸くする。

「もちろん神官ほどお強くはありませんし、貴方の感知能力はひどく限定的です」
「……?それは、どういう……?」
「ダリウス殿下が感知なさることが出来るのは、ユルングル殿下の魔力のみ、という事です」
「……!それで充分です……!!いえ…!むしろ願ってもない事……!!」

 この能力があれば、もう二度とユルンを見失う事はない。
 再びユルンがこの森で迷ったとしても、今度は自分が迎えに行けるのだ。

 思わぬ事実に珍しく嬉々とした表情を見せるダリウスに、シスカは思わず失笑しながら、おもむろにポケットから透明の玉を取り出す。

「……それは…?」
「ただの水晶です。お待ちください」

 言って、ベッドで眠るユルンの手にそれを握らせて目を閉じる。しばらくしてから、それをダリウスの手に置いた。

「……!」
「…ユルングル殿下の魔力が感じられますか?」
「………はい」

 慈しむように水晶を視界に留めているダリウスに頷いて、言葉を続ける。

「その水晶にユルングル殿下の魔力を移しました。これを家に置いておけば、森で迷われたユルングル殿下を探しに行かれても家にお帰りになる事が可能でしょう。…これからは常に意識なさってユルングル殿下の魔力を感じてください。それを繰り返せば、徐々に感知できる範囲も広がるはずです。意識されなくても感じられるようになった頃には、もうどこにいても見失われることはないでしょう」

 ダリウスは水晶から感じる淡く懐かしい光を慈しむように手で柔らかく包みながら、シスカの言葉にしきりに頷いた。



「…シスカ様に来ていただいて助かりました。私一人ではどうにもならなかったでしょう…」

 空も軽く白んできた頃、帰るシスカを見送りながらダリウスは告げる。

「シスカ様には何とお礼を言えばいいか____」
「ダスクです」
「……え?」
「私の本名です。…ダスク=アーリア。今後はダスクとお呼びください。敬称は必要ございません」

 にこりと微笑んで告げられたその言葉に、ダリウスは目を瞬く。

「…ですが、私は今後貴方に師事するのです。呼び捨てには____」
「私は貴方の師ではなく、友人になりたいと思っております。ユルングル殿下を共にお守りする友人に」
「……!」

 その言葉にダリウスはさらに目を丸くして、強い視線を送ってくるシスカを視界に留める。

 シスカはダリウスにとって、憧憬しょうけいの念を抱く存在だった。
 初めて出会った五年前から今に至るまで、彼は何度も己の主であるユルンを救ってくれた。優しく穏やかで、頼もしく心強い。そんな存在に自分もなりたいと切望したほど敬愛してやまない、そんな存在。

 そんな彼の口から『友人になりたい』と言われたことが、妙に面映ゆく、同時にとても誇らしい気分になった。
 ダリウスは友愛の眼差しを向けてくれるシスカに、小さく微笑む。

「…では、私の事もダリウスとお呼びください。皇族としての扱いは不要です、ダスクさん」

 『さん』を付けたのは、六つ年上の自分に対するダリウスなりの気遣いだろうか。そう察して、シスカは慣れないその呼称にくすぐったさを感じつつ、笑いを落として手を差し出す。

「…判りました。では、改めてよろしくお願いします、ダリウス」

 差し出されたその手を、ダリウスもまた笑顔と共に握り返した。
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