銀の皇太子と漆黒の聖女と

枢氷みをか

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第一章 始まり 第五部 ユルングル編

皇太子の暴走

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 ラヴィがいなくなって二日が経った。

 ユーリシアは母に似た反乱軍の首領が、母と同じ『万有の血』保有者であるという事実を、他ならぬ父に尋ねようと皇宮に赴いたところで、その情報を耳にした。あの真面目なラヴィが登庁しない事を訝しんだ官吏がクラレンス邸を訪れて発覚したらしい。

 ユーリシアは父王に会うよりもラヴィの所在を確かめる事を優先し、すぐさまリュシアの街に戻った。ラヴィがいるとすればここしかない。一目散に遁甲に向かったが、あの日苦も無く通れた遁甲は、やはり再びユーリシアを拒絶した。

 そしてようやくここに至って、理解する。
 自分はラヴィをおびき寄せる餌に使われた。そしてまんまと補佐官を奪われたのだ。

「ふざけるな……っ!!!」

 ユーリシアは怒りに任せて木の幹を力の限り拳で叩きつける。

 どれだけ自分から大事な者を奪えば気が済むのだ。ラヴィは幼少の頃から傍にいてくれた。ただの補佐官ではない。家族に等しいのだ。婚約者のみならず補佐官まで奪って、次は何を奪うつもりだ。

 ユーリシアの中から、とめどなく怒りと憎しみが沸き起こる。怒りで叩きつけた拳からは血が滲み出ているが、そんな事に構ってはいられない。すでに冷静ではなかったが、冷静であろうとさえ、もう思わなかった。

 ユルングルの顔が脳裏に浮かぶ。あの男が憎い。大事な者を奪った事も、そして母と同じ顔をしている事ですら、もう許せない。

 ___そうだ、許してはならない。

 心の奥底から声が聞こえる。これは憎しみの声だろうか。

 ___ユルングルを許すな。殺せ。

 ……殺す?
 ユルングルを殺したら、ユーリはどう思うだろうか。兄を殺されれば、もう決して以前のようには接してくれないだろう。
 ……だめだ。ユルングルは憎いが殺せない。

 ___いいや、殺すべきだ。このままだとまた大事な者を奪われるぞ。

 ……奪われる?

 ___そうだ、きっと今頃ラヴィもミルリミナもユルングルに心を許している。

 ……そんな事はない。ラヴィは私を裏切ったりなどしない。

 ___どうしてそう言い切れる?俺ですら一瞬ユルングルに心を許しそうになった。ラヴィがそうならない保証はない。

 ……それは…。

 ___ミルリミナはどうだ?自分から進んでユルングルの元に行った。そもそも彼女の口から俺に好意があるとは聞いていない。

 ……それは…そうだ。

 ___ユルングルが羨ましいんだろう?妬ましいんだろう?

 ……ああ、妬ましい。
 自分にないものを、ユルングルは持っている。
 あれほど低魔力者たちの待遇改善を掲げていたのに、その改革は思うようにいかなかった。
 だが、どうだ。ユルングルはそれをいとも簡単に成し遂げていた。工房を作り、露店を作り、リュシアの街だけで完結できるように改革した。まだ完全とは言えないが、それでも確かに彼らの内から少しずつ改革を成し遂げている。
 多くの者に慕われ、信頼を得ているユルングル。
 ただ皇太子という冠を被っただけの、何も為す事のできない自分。
 比べるまでもない。

 ___ラヴィも、ミルリミナも、そしてユーリもユルングルのものだ。

 ……それは、嫌だ。

 ___あいつは天性の人たらしだ。皆、ユルングルに傾倒する。なら、俺は?

 ……私の周りには、誰もいない。

 ___あいつが生きている限り、奪われ続けるぞ。

 ……奪われたくない。

 ___そして最後は、俺の居場所さえ奪っていくんだ。

 ……どうすればいい?

 ___決まっている。

 殺せばいい。

 何かの糸が、プツンと切れる音がした。
 ユーリシアの意識はもうない。いや、意識はあった。だがその意識が体を支配する事はなかった。誰とも知れない者が自分の体を支配している。心と体が完全に別離して、ただ冷ややかに自分の行動を見つめていた。

 すでにユーリシアではなくなった彼は、遁甲におもむろに手をかざす。決して通れない遁甲。だが何故だろう。通れる気がする。

 いや、通るのだ。この忌々しい遁甲を壊して。

 かざした手に魔力を込める。
 ありったけの魔力を込めて、彼は手刀で風を切るように、勢いよく遁甲を薙ぎ払った。


「……!!?」

 異様な魔力を感じて、診療所にいたダスクとダリウスは、弾かれるようにその魔力の源がいるであろう場所を振り返った。

「ダスクさん…っ!」
「…ええ、遁甲が破られたようです」

 怪訝そうに二人を見つめていたラヴィは、ダスクのその言葉に目を丸くする。

「遁甲が…?一体何があったのです…!?」
「…ユーリシア殿下です。ですが魔力がおかしい…!」
「…!」

 ユーリシアの名を聞くや否や、駈け出そうとするラヴィを、ダスクは何とか押し留める。

「いけませんっ!彼は正気を失っておられる!貴方もただではすみませんよっ!」
「ですが…っ!」
「貴方が勝手をすれば、ユルングル様に危害が及ぶ可能性があるのです!冷静になりなさい!」
「……っ!」

 ラヴィは処置室で眠っているユルングルを___正確には処置室への扉を一瞥する。彼は病に伏した身だ。そして彼が第一皇子だと判った今、危険に晒すわけにはいかない。

 とりあえずの冷静を取り戻したラヴィを見やって、ダリウスはダスクに問う。

「ユーリシア殿下は今?」
「…判りません。そこら中ユーリシア殿下の魔力に満たされて正確な場所が把握できない…。おれは外を見てきます。貴方達はユルングル様をお連れしてここから逃げてください」
「その役目は私が___」
「いいえ、貴方では荷が重い」

 言い差したダリウスの言葉を遮って、ダスクはぴしゃりと言い放つ。

 偽物の魔力とは言え、これほどの量の魔力を有しているのだ。その威力は本物と遜色はないだろう。加えて今のユーリシアには理性という足枷がない。歯止めの効かないユーリシア相手に、ダリウスの魔力では太刀打ちできない事は目に見えていた。かろうじて自分であれば操魔を使って互角になろうか、と言ったところだが、正直片腕になった自分が勝てるとも思えなかった。

 それでも、とダスクは二人を視界に入れる。
 ここにいる中では自分しかいない。

「彼は間違いなくユルングル様を狙ってきます。おれが足止めしている間にできるだけ遠くに逃げてください」

 ダスクの言葉にダリウスは頷いて、ラヴィと共に処置室に急ぐ。ユルングルの剣をラヴィに託し、未だ目覚めないユルングルの体を抱えて一斉に駈け出した。ダリウスとラヴィは裏口へ。そしてダスクは、ユーリシアがいるであろう表口から。

「……っ!?」

 外に出ると、突風に一瞬体がよろける。風を操っているのだろう。暴風で砂埃が舞い、視界が奪われた状態だった。

(…これではユーリシア殿下が視認できない……っ!)

 砂埃から顔を守るように、ダスクは残された腕で顔を覆う。

 頼りの綱の魔力感知はあてにならない。辺りはどこもかしこもユーリシアの魔力で満たされている。いつこの魔力に殺気が含まれても、それがどこから来るものか察知する事は難しいだろう。

 魔力感知もできない、視認もできない。完全に目隠しされた状態で、いつ襲って来るかも判らない凶手きょうしゅがいる荒野に放り出されたような気分だった。

 普段が魔力感知に頼り過ぎていたのだ。いざそれを奪われた時、これほどの脆さを呈するとは。

(…痛感する…!)

 自嘲するように舌打ちをして、ダスクは辺りに気を巡らす。突然の攻撃に備えるように、気配を探るように、小さく息をした。

 波打つ鼓動がうるさい。
 吐息すら煩わしい。

 何もない時間が長くなればなるほど、いつ来るともしれない刃を想像して、そのたびに体が強張った。

 ユーリシアは間違いなく殺しにかかるだろう。だとすれば狙うのは心臓か、頭____。

「………っっ!!?」

 その瞬間、わずかに砂埃が渦を巻いて、その中心から神速とも言える速さで剣が伸びてくるのを、ダスクはかろうじて視界に捉えた。思った通りの動線で、だが思ったよりも速く飛んでくる剣を、ダスクは間一髪で避ける。頬をわずかに切られたが、気にしている余裕はない。

 ダスクはすかさず、その先にあるであろうユーリシアの腕を掴んで、その体に蹴りを入れる。見事に当たったはずだが手応えはなかった。息をする間もなく次の瞬間には下から短剣で応酬されて、ダスクはたまらず掴んだ手を放して距離を取った。

(…双剣…っ!武器を持っているだけでも厄介なのに…っ)

 頬から流れ落ちる血を拭いながら、ダスクは心中で吐き捨てる。武器を持っていない事に今更ながら後悔したが、相手は仮にも現皇太子だ。傷つけるわけにはいかない。

 理性のない凶手を、怪我を負わせることなく捕らえて正気を取り戻さなくてはならない。気の遠くなるような作業だと、ダスクは自嘲気味に笑みをこぼした。

 再びユーリシアの所在が判らなくなったが、今回は仕掛けてくるのが早かった。距離を取って息を整える間もなく、ユーリシアは間合いを詰めて来る。繰り出された蹴りをダスクは足で受け止め、続けざまに飛んできた短剣を右腕でいなし、そして左わき腹を狙って突かれた剣を左腕で_____。

(しま…っ!!)

 ダスクは未だに幻肢げんしの症状があった。未だに失った左腕を、ある、と錯覚してしまう。普段はないはずの左腕を動かさないよう意識してはいたが、やはり咄嗟の事になると無意識のうちについ動かしてしまうのだ。

 動いてくれるなら、まだいい。だが、ないはずの腕が動かなかった時、絶えようのない激痛がダスクを襲う。それは常にではなかったが、得てして、あってはならない時に起こるものだという事を、ダスクは理解していた。

 激痛に顔を歪め、よろめいたダスクに容赦なく剣が振り下ろされる。その瞬間を、ダスクは視界に留めていた。何故だかひどくゆっくりと進む時間の中で、まるで己の最期を認識するように、記憶に刻むように、ダスクは剣が振り下ろされるのを成す術もなく見つめていた。

「伏せろっっっっ!!!!!!ダスクっっっ!!!!!!」

 聞き馴れた声に、ダスクは我に返る。考えるよりも早く反射的に指示に従ったダスクの視界に、真一文字に飛んできた剣の鈍い光が届いた。キーンっと甲高い金属音が耳をかすめて、ダスクを狙った剣は見事に弾かれ、持ち主の手を離れた剣は円を描きながら、遠く地面に突き刺さった。

「…ったく!おちおち休んでもいられないのか…っ!」

 忌々し気に吐き捨てるユルングルを、ダスクは視界に入れる。

「ユルングル様…っ!?」

 借りるぞ、と短く言ってダリウスの剣を奪うように手に取ると、制止するダリウスに構わずユルングルはユーリシアめがけて駈け出し、それを見止めたユーリシアも同じく同時に駈け出した。

「ダスク!結界を張れっ!!あいつらを__工房の連中を決して近付けさせるなっ!!」

 言われて、ダスクは失念していた事にようやく気付く。ユルングルを守る事ばかりにかまけていたが、工房には多くの人間がいるのだ。彼らをなおざりにしてしまった事にようやく思い至って、ダスクは痛む腕を堪えて言われた通り隠れ家一帯に結界を張る。

 同時に駈け出した二人は、ちょうどその中間で対峙する事になった。
 互いに剣と短剣を振りかざし、互いに胸の辺りで刃と刃が鈍い音と共にぶつかる。鍔迫り合いになった状態で、ユルングルは全体重を刃に載せた。

「…清廉潔白な皇太子さまが、ずいぶんと荒々しいな。ユーリシア…っ」

 揶揄するユルングルの額からは汗が流れ落ちている。体が本調子でない事は一目瞭然だった。
 対するユーリシアの表情に、ユルングルは訝しく眉根を寄せる。

 ユーリシアの表情には、何の色もない。ただ冷ややかにユルングルを見つめている。その瞳に憎しみも怒りもない事がひどく違和感を覚えた。

 そんなユルングルの心中もお構いなしに、ユーリシアは短剣を持った手に力を載せる。

「く……っ!」

 力勝負では低魔力者のユルングルに勝てる見込みはない。鍔迫り合いの状態を維持できないと判断して、ユルングルはすぐさま距離を取ったが、逃がすまいと間合いを詰めて払う短剣をユルングルはかろうじて剣で応じる。しばらくしのぎを削る状態が続いたが、何度目かでユルングルの背後からユーリシアめがけて蹴りが飛んできて、ユーリシアはたまらず後方に飛び退いた。

「ユルングル様…っ。無茶をなさらないでください…っ!」
「ダリウス…っ!?」

 息も絶え絶えに、ユルングルは後方のダリウスを軽く視界の端で捉える。わずかに息を整えながら、ユルングルは痛みで膝をついているダスクに視線を向けた。

「…おい、ダスク…っ!どういう事だ…っ!なぜユーリシアの中にあの女がいる…っ!?」

 言われて、ダスクは弾かれるようにユーリシアを視界に入れた。

(ああ、そうか…)

 ユーリシアは正気を失っているわけではない。彼の疑心暗鬼につけこんだ聖女が、ユーリシアの体を奪って操っているのだ。

「…貴方は…相変わらず勘の鋭いお方ですね……」

 ひとりごちるように呟いて、ダスクは激痛に耐えながら立ち上がる。

「…お気を付けください。殿下は聖女に操られております。弱った貴方を殺しに来たのでしょう」
「…はっ。相変わらず虫唾の走る聖女だな…っ」

 心底不快気に漏らした言葉が言い終わるや否や、ユーリシアは再び間合いを詰める。

 勝負は意外にも一瞬でついた。

 駈け出すユーリシアを見止めたダスクは、ほぼ同時にユーリシアへと駈け出す。対峙した瞬間、かがんで繰り出したダスクの足払いをユーリシアは飛んで避け、直地と同時に顔めがけて飛んできたダリウスの蹴りを、すんでのところで屈んで避ける。そして_____。

 カン…っと鈍い金属音と共に、短剣は宙に投げ出された。

 屈んだ瞬間、ユーリシアの視界に入ったのは、不敵な笑みを湛えながら剣を払うユルングルの姿。そこにユーリシアが来ることを前もって予測した動きである事は明白だった。

「…勝負あったな」

 ユルングルは膝をついたユーリシアの首元に剣を向けながら告げる。その姿に余裕はない。肩で息をしながら、その額からは大量の汗が流れ落ちていた。

「ユルングル様…っ、大丈夫ですかっ!?」
「…病人の手を煩わせるな、まったく…。俺はいいからダスクを診てやれ」
「いえ、おれは____」

 言い差した瞬間、ダスクはひやりとしたものが背筋を通るのを感じた。

 すっかり油断していたのだ。
 いつの間にか砂嵐も止み、平穏を取り戻している。勝負もついて、これで終わったと思っていた。だがこれは試合ではないのだ。命の取り合いをしていた事を、失念していた。

 膝をついて俯いていたユーリシアは、ひどく緩慢な動きで懐に忍ばせている短剣を握ると、予備動作もなく一直線にユルングルの腹部めがけて刃を突いた。

 突然の事に、ユルングルは身じろぎ一つ取れなかった。それは油断していた事もあったが、何より病に伏した身で無理をした事が大きかった。もう、その場から動くだけの体力が残されていなかったのだ。

 ユルングルの腹部を短剣が貫く瞬間、だが貫いたのはユルングルではなかった。

「………ユーリシア……殿下…」

 刺される瞬間、ユルングルの体を押しのけて盾になったのは、後方で成す術もなく攻防を見守っていたラヴィだった。

「…………ラ……ヴィ……?……ど……して……?」

 短剣を握っている手が小刻みに震えだす。ラヴィの腹部から溢れ出た血が、刃を伝ってユーリシアの手に流れていくその感触が、堪らなく不快だった。

「……ユーリシア殿下…」

 消え入りそうなほど小さな声で囁いて、自身の体を貫く短剣を握るユーリシアの手に、ラヴィはそっと触れる。

「…ユーリシア殿下……この方を…殺してはなりません……。この方は……貴方の兄君です………っ」

 ユーリシアは目を見開いた。
 ラヴィの言葉の意味が、理解できない。
 頭の中が真っ白になって、視線が定まらなかった。

 そして、一つの考えが浮かぶ。

(……ああ、だから…)

 だから、彼を庇ったのか。
 偽物の皇太子である私ではなく、本当の皇太子である第一皇子を、お前は守ったのか。

 無意識のうちに、短剣を握っている手に力が入る。このまま押し込めと囁いたのは果たして聖女だっただろうか、それとも自らの身の内に潜むもう一人の自分だろうか。ユーリシアにはもう、判然としなかった。

 今度は自覚して短剣を握る手に力を込める。そのまま押し込もうとした刹那____。

「だめっっっ!!!!ユーリシア殿下っ、やめてっっっ!!!!!!」

 懐かしい声に、手が強張る。
 ずっと聞きたかった、愛しい声。

「……ミル……リミナ……?」

 声がした方にゆっくりと視線を向ける。立ち尽くしてこちらを見ているミルリミナと目が合った。

 ずっと会いたかった。一目でもいいからその姿を見たかった。その髪に、その手に、その頬に触れたかった。

 なのになぜ、よりによって今なのだろう。
 自分は今、何をしている?
 そして、何をしようとしていた?

 無意識に短剣から手が外れる。ゆっくりとラヴィに視線を向けると、意識を失いそうになるのを必死に堪えて、すでに血の気を失った青い顔で小さく微笑む姿があった。

 ラヴィは知らない。
 自分が何を思い、何をしようとしていたのか。

 裏切ったのはラヴィではない。信じる事の出来なかった、自分自身だ。

 ユーリシアはそのまま意識を失い、その場に倒れ込んだ。
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