君の心臓が止まるその日まで。僕の全財産をかけて、君の『生きた音』を録音する。

白山 乃愛

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第1話:雨とノイズの周波数

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東京の雨は、汚れた音がする。


アスファルトをタイヤが削る、ザラついた摩擦音。
安っぽいビニール傘がぶつかり合う、鈍い打撃音。
そして、無数に重なる他人の話し声という名の、意味を持たない濁流。


「……カット。止めて」


久条蓮(くじょう・れん)は、ミキシングコンソールのフェーダーを乱暴に下げた。
防音ガラスの向こう側、ブースの中にいる新人声優が、ビクリと肩を震わせるのが見えた。


「蓮さん? 今のテイク、ノイズ入ってましたか?」


ディレクターが怪訝そうな顔で振り返る。
蓮はヘッドホンを外し、こめかみを指先で強く押し込んだ。
頭痛がする。
脳の奥で、無数の針が暴れ回っているようだ。


「……舌打ちだ。セリフの直前、口を開く瞬間に粘膜が弾ける音が混じっている。……不快だ」


スタジオの空気が凍りついた。
誰も聞こえていないのだ。
最新鋭のマイクですら拾わないような、微細な「生理音」。
だが、蓮の耳には、それが黒板を爪で引っ掻いた音のように増幅されて響いていた。


「久条、お前なあ……。そんな細かいこと気にしてたら、納期に間に合わねえぞ」


映画監督が、苛立ちを隠さずに貧乏揺すりを始めた。
その革靴が床を叩くコツコツというリズムすら、蓮にとってはハンマーで頭蓋骨を殴打されるような拷問だった。


「……すいません。僕の耳の調子が悪いだけです。今のをOKテイクにしましょう」


蓮は逃げるようにスタジオを出た。
廊下の自販機のコンプレッサー音。
遠くで鳴るエレベーターの到着音。
世界は、暴力的な音量(ボリューム)で満ちている。


職業、フォーリーアーティスト。
映画やアニメに「音」をつける職人。
足音、衣擦れ、風の音。
かつて「神の耳」と賞賛され、若くして業界の寵児となった蓮だったが、三年前のある事故を境に、その才能は「呪い」へと変わっていた。


聴覚過敏症。
特定の周波数が、物理的な痛みを伴って知覚される病。
医者はストレスだと言う。精神的なものだと言う。
だが、蓮にとってこれは、終わりのない拷問であり、愛した「音」からの裏切りだった。


(……もう、限界か)


地下鉄への階段を降りながら、蓮はポケットの中の薬瓶を握りしめた。
安定剤も、鎮痛剤も、もう効かない。
次の映画を最後に引退しよう。
静寂な田舎に引きこもり、耳栓をして一生を終える。
それだけが、この痛みから逃れる唯一の方法だと思われた。


地上に出ると、土砂降りの雨だった。
スクランブル交差点。
信号が変わる電子音が、ピヨピヨと嘲笑うように響く。


蓮はノイズキャンセリングのイヤホンを耳にねじ込んだ。
一瞬だけ訪れる静寂。
だが、すぐにバッテリー切れの警告音が鳴り、フツリと世界が戻ってきた。


ドオオオォォォォ……!!


堰を切ったように雪崩れ込んでくる轟音。
車のブレーキ音、怒鳴り声、雨の打撃音。
平衡感覚が消失し、視界がぐらりと歪んだ。
吐き気がする。
世界が回る。


(ここで倒れるわけには……)


アスファルトの黒い地面が、急激に迫ってきた。
意識がホワイトアウトしかけた、その時だった。


ドンッ、と誰かの肩に激しく衝突した。


「――きゃっ!」


柔らかな衝撃。
蓮は支えを失い、その「誰か」を巻き込むようにして、濡れた歩道の上に崩れ落ちた。
冷たい雨水が頬を打ち、泥の匂いが鼻をつく。


「大丈夫ですか!?」


頭上から、少女の声が降ってきた。
だが、蓮の意識を繋ぎ止めたのは、その声ではなかった。


覆いかぶさるような体勢になった、彼女の胸の奥。
薄い肋骨の一枚向こう側から響く、奇妙な「リズム」だった。


ドクン。……ドクン。


それは、あまりにも不規則で、弱々しい鼓動だった。
一定のリズムを刻むことすらできない、壊れかけたメトロノーム。
本来なら不快に感じるはずのその不整脈が、なぜか蓮の耳には、雨音を切り裂く「完全な静寂」のように響いた。


痛くない。
彼女の心臓の音だけが、脳を削らない。
それどころか、暴れ回っていた蓮の神経を、冷たい手で撫でるように鎮めていく。
まるで、深海に沈んでいくような安らぎ。


蓮は、泥水に濡れるのも忘れて、彼女の胸元に耳を押し当てていた。
変質者だと思われても構わない。
あと一秒、あと一拍だけ、この「鎮痛剤」を聞いていたい。
この音がなければ、俺は死ぬ。


「……あの、もしもし? 生きてますか?」


少女が戸惑ったように蓮の肩を揺すった。
蓮はハッと我に返り、弾かれたように体を離した。


目の前にいたのは、ビニール傘を差した、白いワンピースの少女だった。
年齢は二十歳そこそこだろうか。
透き通るような肌。
だが、その顔色は陶器のように蒼白で、唇には血の気がなかった。


「す、すみません……! 目眩がして」


蓮は掠れた声で謝罪し、立ち上がろうとした。
だが、彼女と目が合った瞬間、言葉が詰まった。
彼女は、泥だらけになった蓮を見ても顔を顰めることなく、ただ不思議そうに小首を傾げていたのだ。


「……いい音が、しましたか?」


彼女は唐突に、そう言った。
雨音にかき消されそうなほど、細い声だった。


「え?」


「今、私の心臓の音、聞いてましたよね。……凄く、変なリズムだったでしょう」


彼女は自嘲気味に笑い、自分の胸に手を当てた。
その手首は、折れそうなほど細い。


「これ、壊れてるんです。お医者さんが『失敗作』って呼ぶようなポンコツで。……あと半年もすれば、店じまいする予定なんです」


半年。
その言葉が、蓮の空っぽの鼓膜に重く響いた。
壊れている?
この、世界で唯一、僕を救ってくれる美しい音が?


「……綺麗だった」


無意識に、蓮は呟いていた。
雨音も、車のクラクションも、今の蓮には遠い背景音(BGM)に過ぎなかった。
彼の世界の中心には、彼女の心音だけがあった。


「え?」


「君の心臓の音……僕が今まで聞いた、どんな音楽よりも、静かで、綺麗だった」


少女はきょとんとして、それから、花が綻ぶように柔らかく微笑んだ。
それは、死刑宣告を受けた人間が浮かべるには、あまりにも透明な笑顔だった。


「変わってる人。……私の『終わりの音』を、そんな風に言ってくれた人は初めて」


彼女は立ち上がり、差し出された蓮の手を取らずに、自分の傘を蓮に差し出した。


「これ、あげます。……濡れてると、風邪ひきますよ」


「待ってくれ、君は……」


「また雨が降ったら、会えるかもしれませんね」


彼女は悪戯っぽく言い残し、傘も差さずに雨の中へと駆けていった。
灰色のスクランブル交差点。
彼女の白い背中だけが、強烈な色彩を持って蓮の網膜に焼き付いた。


手元に残された、コンビニのビニール傘。
そして、耳の奥に残る、壊れかけた心臓の旋律(メロディ)。


蓮は知らなかった。
彼女が残したその音が、彼の人生における「最後の作品」の主題(テーマ)になることを。
そしてその作品が完成する時、彼女はこの世にいないことを。


ただ一つ、確かなことがあった。
この瞬間、蓮の世界から「痛み」が消え、代わりに「渇き」が生まれたのだ。
あの音を、もう一度聞きたい。
そのためなら、悪魔に魂を売ってもいいという、狂おしいほどの渇望が。
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