君の心臓が止まるその日まで。僕の全財産をかけて、君の『生きた音』を録音する。

白山 乃愛

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第8話:血の壁と、届かない周波数

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「申し訳ありません。ご家族の方から、面会はお断りするようにと言われております」


受付の看護師は、申し訳なさそうに、けれど事務的に告げた。
その声は、蓮の耳には鉄格子が閉まる音のように響いた。


搬送されてから、三日が経過していた。
蓮は毎日、仕事の合間を縫って病院に通い詰めていた。
手には、高級フルーツの入ったバスケットや、彼女が好きだと言っていた海外の絵本。
だが、それらが彼女のもとに届くことはなかった。


「……一目だけでいいんです。ガラス越しでも構わない」


蓮はカウンターに身を乗り出した。
睡眠不足で充血した目は、もはや懇願を通り越して狂気を帯びていた。
周囲の患者たちが、不審者を見る目で距離を取る。


「何度来られても同じです。……お引き取りください」


看護師が受話器を取り、警備員を呼ぼうとする素振りを見せた。
蓮は唇を噛み切りそうなほど強く噛んだ。
無力だ。
数億円の資産があっても、業界で天才と呼ばれていても、ここでは「他人」という属性だけで全てが弾かれる。


その時だった。
自動ドアが開き、ハイヒールの足音が、カツカツと鋭く響いた。


「……あなたが、久条さんですか」


背後からかけられた声は、冷たく、そしてヒステリックな震えを帯びていた。
蓮が振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。
五十代半ばだろうか。
仕立ての良いスーツを着ているが、顔色は土気色で、目の下には濃い隈がある。
どこか、歌音の面影があった。


「……歌音の、お母様ですか」


蓮が頭を下げようとした瞬間だった。


パァン!


乾いた破裂音が、ロビーに響き渡った。
蓮の頬が熱くなる。
叩かれたのだと理解するのに、数秒かかった。
痛みよりも、その音が鼓膜を直接殴打した衝撃の方が大きかった。


「よくも……っ、よくもあの子を!」


母親は、振り抜いた手を震わせながら、蓮を睨みつけていた。
その瞳には、心配や悲しみよりも、もっとドロドロとした「憎悪」が渦巻いていた。


「あの子は心臓が悪いんです! 絶対安静なんです!
それを、海になんて連れ出して……!
もし死んだら、あなたが殺したのと同じよ!」


母親の叫び声は、金切り声となって蓮の聴覚過敏を刺激した。
頭が割れるように痛い。
だが、蓮は動けなかった。
反論できなかった。
その通りだ。
彼女の命を削ったのは、蓮の「音」への欲求だったのだから。


「……申し訳、ありませんでした」


「謝って済むと思ってるの!?
あの子は今も、管だらけになって苦しんでるのよ!
……二度と来ないで。あなたの顔なんて見たくない」


母親は肩で息をしながら、指を突きつけた。


「あの子は私が守ります。
あなたのような、面白半分で近づいてくる他人には、指一本触れさせない」


他人。
またその言葉だ。
蓮は、頬の痛みを忘れるほど強く拳を握りしめた。


あなたは知らない。
彼女がどんな音で泣いていたか。
どんな音で笑っていたか。
あの海で、彼女がどれほど自由に、命を燃やしていたか。
親であるあなたよりも、僕のほうが彼女の「生」を知っている。


そう叫びたかった。
だが、口から出たのは、掠れた敗北の言葉だけだった。


「……失礼しました」


蓮は深く頭を下げ、逃げるようにその場を去った。
背後で、母親が泣き崩れる声と、看護師が慰める声が聞こえた。
それは、蓮を拒絶する「正常な世界」の音だった。


雨の降る駐車場。
蓮は車に乗り込み、ハンドルに額を押し付けた。
静寂な車内。
だが、今の蓮には、その静けさが耐え難い孤独となって襲いかかってきた。


聞こえない。
彼女の心音が、どこにもない。
世界はまた、ただのノイズと、死んだような沈黙だけの場所に逆戻りしてしまった。


(……会いたい)


音が欲しいのではない。
ただ、彼女が無事かどうかが知りたい。
今もあの不器用なリズムで、生きているのかを確かめたい。


蓮がエンジンをかけようとした時、コンコン、と運転席の窓が叩かれた。


ビクリと顔を上げる。
そこに立っていたのは、見覚えのない若い看護師だった。
傘も差さずに、雨に濡れながら、必死な顔で蓮を見ている。


蓮は窓を少しだけ開けた。
雨音が侵入してくる。


「……あの、これ」


看護師は、周囲を警戒するように左右を見回してから、一枚の紙切れを蓮に差し出した。
小さく折り畳まれた、無地のメモ用紙。


「歌音ちゃんからです。……本当はダメなんですけど、内緒で頼まれて」


「歌音から?」


蓮は、震える手でそれを受け取った。
看護師は「もう来ちゃダメですよ。お母さん、警察呼ぶって言ってますから」と言い残し、走り去っていった。


蓮は、ルームランプを点灯させ、その紙を開いた。
ミミズがのたうったような、震える文字。
鉛筆を握る力さえ残っていないのだろう。
それでも、そこには確かに彼女の意志が刻まれていた。


『生きてます。
 ごめんね、お母さん怖いでしょ。
 でも私、負けません。
 久条さんも、負けないで』


そして、最後に一言、乱暴な筆跡でこう書き殴られていた。


『いい音、作って待ってて』


蓮の視界が歪んだ。
涙が、メモ用紙の上にポタリと落ち、文字を滲ませた。


彼女は、諦めていなかった。
ICUのベッドの上、管に繋がれ、親に監視されながらも、彼女はまだ「蓮との契約」を守ろうとしていた。


負けないで。
その言葉が、蓮の乾ききった心臓に火を灯した。


「……ああ。分かった」


蓮は涙を拭い、アクセルペダルを踏み込んだ。
ボルボのエンジンが、低く唸りを上げる。


会えないなら、会えないなりにやることがある。
彼女は言った。「いい音を作って待ってて」と。
ならば、作ってやる。
彼女が戻ってきた時、驚いて腰を抜かすような、最高の「静寂」を。


蓮は車を急発進させた。
向かう先は、自宅のスタジオ。
そこには、彼女が残してくれた数時間分の録音データがある。
それは単なる記録ではない。
彼女そのものだ。


(待ってろ、歌音)


病院の白い巨塔が、雨の向こうに遠ざかっていく。
蓮は、助手席の空席を一瞥し、決意と共にハンドルを切った。
今はまだ、離れ離れの時間。
だが、音という目に見えない糸だけは、決して切れることなく二人を繋いでいた。
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