君の心臓が止まるその日まで。僕の全財産をかけて、君の『生きた音』を録音する。

白山 乃愛

文字の大きさ
7 / 8

第7話:白い天井のレクイエム

しおりを挟む
ピーポー、ピーポー、ピーポー……!


鼓膜が、内側から食い破られるようだった。
救急車のサイレン音。
それは、一定の周波数を繰り返す、蓮の脳が最も拒絶する「警告音」の塊だ。
密閉された狭い車内で、その轟音は壁に反射し、増幅され、蓮の神経をミキサーにかけるように粉砕していく。


「……っ、ぐ、ぅ……」


蓮は、歯が砕けるほど奥歯を噛み締めていた。
吐き気がする。
視界が白く明滅し、平衡感覚が消え失せている。
本来なら、今すぐにでも両耳を塞ぎ、叫び出してのたうち回りたい激痛だ。


だが、蓮の手は耳にはなかった。
ストレッチャーの上で白目を剥いている、歌音の小さな手を、万力のように握りしめていた。


(……離すな。ここで手を離したら、彼女は死ぬ)


根拠のない確信だった。
自分が繋ぎ止めていなければ、彼女の弱々しい魂は、このサイレンの音に紛れてどこかへ消えてしまう気がした。


「バイタル低下! 血圧六十の四十! 心室細動、起きてます!」
「除細動器、準備!」
「ルート確保! 急げ!」


救急隊員の怒号が飛び交う。
AEDの充電音が、高周波の電子音(キィィィン……)となって蓮の脳髄を刺す。
地獄だ。
ここは、あらゆるノイズが凝縮された地獄の釜だ。


それでも、蓮は彼女の手を離さなかった。
冷や汗が目に入り、鼻血がツーと垂れてワイシャツを汚す。
構わない。
鼓膜の一枚や二枚、くれてやる。
だから、その心臓を止めるな。


「……病院まで、あと三分! 頑張れ!」


隊員の声が遠くなる。
蓮の意識もまた、痛みの限界を超えてホワイトアウトしようとしていた。
最後に感じたのは、彼女の指先が、ほんの一瞬だけピクリと動き、蓮の手を握り返そうとした感触だった。



「……さん? ……久条さん?」


肩を揺すられ、蓮は泥沼から引きずり出されるように意識を取り戻した。
目を開けると、そこは無機質な白い廊下だった。
消毒液の強烈な臭い。
そして、遠くで鳴り響くナースコールの電子音。


「……ここは」


「救命救急センターの待合です。あなたは搬送されてすぐに倒れて……ここで二時間ほど眠っていました」


声をかけてきたのは、白衣を着た中年の医師だった。
その目には、疲労と、蓮に対する「不審」の色が混じっていた。
蓮は、弾かれたようにベンチから立ち上がった。
ふらつく足で、医師の胸ぐらを掴みかける。


「彼女は……! 瀬名歌音は、どうなった!?」


医師は冷静に、一歩後ろへ下がった。


「一命は取り留めました。現在はICU(集中治療室)に入っています。
……拡張型心筋症の末期ですね。正直、ここまでの状態で海に行っていたことが信じられない」


医師の言葉には、明確な非難が含まれていた。
当然だ。
重病人を連れ回し、あまつさえ発作を起こさせた元凶。
それが蓮だ。


「……会わせてください。顔を、見るだけでいい」


蓮は頭を下げた。
プライドも何もかも捨てて、懇願した。
だが、医師から返ってきたのは、氷のような拒絶だった。


「それはできません」


「なぜだ! 治療費ならいくらでも払う! 個室でも、最高級の医療チームでも、なんでも用意する!」


蓮は財布を取り出し、ブラックカードを医師に見せつけた。
金はある。
社会的地位もある。
今まで、それで解決できないことなどなかった。


しかし、医師はため息をつき、残酷な事実を突きつけた。


「お金の問題ではありません。
……あなたは、ご家族ですか?」


蓮の手が止まった。


「……いえ、友人です」


「では、面会は許可できません。ICUに入れるのは、原則として三親等以内の親族のみです。
それに、ご両親にはすでに連絡がつきました。今、こちらに向かっています」


親。
その単語が出た瞬間、蓮の前に見えない「壁」が立ちはだかった。
法律、血縁、社会通念。
蓮がどれほど彼女を愛していようと、どれほど彼女の「音」を知っていようと、この社会において蓮はただの「赤の他人」なのだ。


「……彼女が、僕を呼んだんです。彼女は僕を必要としている」


「それはあなたの主観でしょう。
今は絶対安静です。刺激を与えないでください。
……お帰りください。これ以上騒ぐなら、警備員を呼びますよ」


医師は背を向け、重厚な自動ドアの向こうへと消えていった。
プシュー、というドアの開閉音が、蓮と歌音の世界を完全に分断した。


「……くそっ」


蓮は、ベンチに力なく崩れ落ちた。
耳鳴りがする。
キーンという甲高い音が、脳内で反響し続けている。
サイレンの後遺症だ。
おそらく、聴力の一部が不可逆的なダメージを受けている。


だが、そんなことはどうでもよかった。


(聞こえない……)


ICUの分厚い壁の向こう。
彼女の心臓が今、どんなリズムで動いているのか。
苦しんでいないか。
泣いていないか。
あの「不整脈」が、蓮の耳には一切届かない。


世界から、色が消えたようだった。
廊下を行き交う看護師の足音。
ストレッチャーの車輪の音。
自動販売機の唸り声。
ただ不快なだけの「ノイズ」が、守るべき主を失った蓮の聴覚を、容赦なく蹂躙し始めた。


「……痛い」


蓮は耳を押さえ、膝に顔を埋めた。
痛いのは耳じゃない。
彼女の音が聞こえない、この「静寂」こそが、何よりも激しい激痛だった。


スマホが震えた。
仕事の連絡だろうか。監督からの催促だろうか。
画面を見る気力もない。
蓮は、ただ一人、白い天井の下で震えていた。


数百万円のマイクも、天才的な技術も、溢れるほどの財産も。
この「白い壁」の前では、何の意味も持たなかった。


(歌音……)


蓮は、ポケットの中で、砂まみれになったICレコーダーを握りしめた。
そこには、海で録音した最後のデータ――彼女の断末魔のような叫びと、暴走する心音――が残されている。


聞けばいい。
それを聞けば、この禁断症状は治まるはずだ。
だが、再生ボタンを押す指が動かなかった。


それは「過去」の音だ。
今、この瞬間、彼女が生きているという証明にはならない。
蓮が欲しいのは、データではない。
温かい体温と共に響く、あの「生きた音」なのだ。


「……絶対、奪い返す」


蓮は、血の味がする口の中で呟いた。
親だろうが、医者だろうが関係ない。
彼女は、俺の「音」だ。
誰にも渡さない。


蓮はフラフラと立ち上がり、病院の出口へと向かった。
まずは体制を整える。
そして、この鉄壁の要塞(病院)を突破し、彼女を取り戻すための「戦争」を始める。


自動ドアが開く。
外は、冷たい冬の雨が降り始めていた。
あの日のように、汚れたノイズを撒き散らす雨。
だが、今の蓮には、その傘を差し出してくれる少女はいなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫の妹に財産を勝手に使われているらしいので、第三王子に全財産を寄付してみた

今川幸乃
恋愛
ローザン公爵家の跡継ぎオリバーの元に嫁いだレイラは若くして父が死んだため、実家の財産をすでにある程度相続していた。 レイラとオリバーは穏やかな新婚生活を送っていたが、なぜかオリバーは妹のエミリーが欲しがるものを何でも買ってあげている。 不審に思ったレイラが調べてみると、何とオリバーはレイラの財産を勝手に売り払ってそのお金でエミリーの欲しいものを買っていた。 レイラは実家を継いだ兄に相談し、自分に敵対する者には容赦しない”冷血王子”と恐れられるクルス第三王子に全財産を寄付することにする。 それでもオリバーはレイラの財産でエミリーに物を買い与え続けたが、自分に寄付された財産を勝手に売り払われたクルスは激怒し…… ※短め

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】大好きな彼が妹と結婚する……と思ったら?

江崎美彩
恋愛
誰にでも愛される可愛い妹としっかり者の姉である私。 大好きな従兄弟と人気のカフェに並んでいたら、いつも通り気ままに振る舞う妹の後ろ姿を見ながら彼が「結婚したいと思ってる」って呟いて…… さっくり読める短編です。 異世界もののつもりで書いてますが、あまり異世界感はありません。

お兄様の指輪が壊れたら、溺愛が始まりまして

みこと。
恋愛
お兄様は女王陛下からいただいた指輪を、ずっと大切にしている。 きっと苦しい片恋をなさっているお兄様。 私はただ、お兄様の家に引き取られただけの存在。血の繋がってない妹。 だから、早々に屋敷を出なくては。私がお兄様の恋路を邪魔するわけにはいかないの。私の想いは、ずっと秘めて生きていく──。 なのに、ある日、お兄様の指輪が壊れて? 全7話、ご都合主義のハピエンです! 楽しんでいただけると嬉しいです! ※「小説家になろう」様にも掲載しています。

【完結】16わたしも愛人を作ります。

華蓮
恋愛
公爵令嬢のマリカは、皇太子であるアイランに冷たくされていた。側妃を持ち、子供も側妃と持つと、、 惨めで生きているのが疲れたマリカ。 第二王子のカイランがお見舞いに来てくれた、、、、

美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ 

さら
恋愛
 会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。  ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。  けれど、測定された“能力値”は最低。  「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。  そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。  優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。  彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。  人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。  やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。  不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

処理中です...