君の心臓が止まるその日まで。僕の全財産をかけて、君の『生きた音』を録音する。

白山 乃愛

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第6話:暴走するドラム

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国道一三四号線。
冬の相模湾沿いを、蓮の愛車であるボルボのステーションワゴンが滑るように走っていた。

車内は、完全な無音だった。
蓮が数百万円をかけて施したデッドニング(防音処理)により、ロードノイズも風切り音も、すべてが遮断されている。
それは走る録音スタジオであり、同時に蓮にとっての移動式シェルターでもあった。

「……すごい。海だ」

助手席の歌音が、窓ガラスに額を押し付けるようにして海を見つめている。
切り揃えたばかりのボブカットが、首を傾げるたびにさらりと揺れる。
その横顔は、病人のそれではなく、初めての遠足にはしゃぐ子供のようにあどけなかった。

蓮はハンドルを握りながら、横目で彼女の様子を伺った。
楽しそうだ。
だが、蓮のプロとしての耳は、違和感を捉えていた。

(……うるさい)

蓮は、自分の耳を疑った。
今はヘッドホンをしていない。
マイクも向けていない。
それなのに、助手席に座る彼女の胸元から、異様なほど大きな「音」が漏れ聞こえてくるのだ。

ドッ、ン……! ドッ、ン……!

それは、これまでの繊細な不整脈とは違っていた。
まるで、壊れかけたエンジンが最後の力を振り絞って回転しているような、暴力的で、重たい打撃音。

心不全の兆候。
ポンプ機能が低下した心臓が、全身に血液を送ろうとして必死に拍動を強めている、代償作用の音だ。

「……歌音。苦しくないか」

蓮が努めて冷静に尋ねると、歌音は振り返り、少しだけ息を弾ませて笑った。

「平気ですよ。……ちょっと、ドキドキしてるだけ。久しぶりの海だから」

嘘だ。
その「ドキドキ」は、高揚感じゃない。悲鳴だ。
お前の心臓は今、限界を超えて暴走している。

「……引き返すか」

「やだ」

歌音は、即座に拒否した。
その瞳には、美容室で見せた時と同じ、譲らない光が宿っていた。

「お願い、久条さん。……このまま行って。私、どうしても『本物の波音』が聞きたいの」

蓮は、ハンドルを握る手に力を込めた。
彼女の顔色は、赤みを帯びているように見えるが、それは健康的な血色ではなく、鬱血による危険な兆候だった。
だが、今の彼女からこの時間を奪うことは、死刑宣告よりも残酷なことのように思えた。

「……十分だけだ。それ以上は無理だ」

「うん。……ありがとう」

車を海岸沿いの駐車場に停めた。
平日ということもあり、人影はまばらだ。
蓮はエンジンを切り、ウィンドジャマー(風防)をつけたガンマイクとレコーダーを手に取った。

「行こう、久条さん」

歌音はドアを開け、砂浜へと駆け出した。
冷たい海風が、彼女の新しい髪を乱暴に巻き上げる。

ドオオオォォォォ……!

車外に出た瞬間、蓮を襲ったのは轟音の壁だった。
波の破砕音。
強風が鼓膜を叩く音。
蓮は顔を顰め、イヤーマフの上からさらにフードを被った。

(……録るんだ)

痛みで視界が歪む。
だが、蓮はマイクを構えた。
彼女が望むなら、この世界の全てを記録する。それが契約だ。

波打ち際。
歌音は、スニーカーが濡れるのも構わずに海に近づき、立ち尽くしていた。
灰色の冬の海。
荒々しく、美しく、そして死に近い場所。

「……録れてますか?」

彼女が振り返らずに叫んだ。
その声は、轟音のような波音にかき消されそうに細かった。

「ああ。回ってる」

蓮はレベルメーターを確認した。
そして、マイクの指向性を彼女の背中に向けた瞬間、息を呑んだ。

バクン! バクン! バクン!

ヘッドホン越しに聞こえたのは、心音ではなかった。
それは、破裂音だった。
肉の壁を内側から殴りつけるような、断末魔の連打。

「ねえ、久条さん!」

歌音が、波に向かって何かを叫ぼうとして、大きく息を吸い込んだ。

「私ね、怖かったんです!」

「……え?」

「病院のベッドで、毎日天井のシミを数えて!
隣の寝てた人がいなくなるたびに、次は自分だって震えて!
本当は、すごくすごく怖かった!」

彼女の叫び声が、マイクを通して蓮の鼓膜を叩く。
それは、初めて彼女が見せた「ノイズ」だった。
綺麗な音じゃない。
恐怖と、絶望と、生への渇望が混ざり合った、人間臭い悲鳴。
蓮の胸が、物理的な痛みとは別の種類のもので締め付けられた。

「でも……! 今は怖くない!」

歌音は振り返り、カメラのレンズを覗くように、蓮のマイクを見据えた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも太陽のように笑っていた。

「あなたが聞いててくれるから!
私のこの、ポンコツな心臓の音を!
世界で一番綺麗だって言ってくれる変な人が、今ここにいるから!」

「……歌音」

「だから、久条さん!
最後まで、ちゃんと聞いててね!
私が止まる、その瞬――」

ブツリ。

唐突に、音が切れた。
ヘッドホンの中の轟音が消え、無音の空白が訪れたわけではない。
リズムが、崩壊したのだ。

ドクッ、……、……。

「う、っ……」

歌音の笑顔が凍りつき、糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
砂の上に倒れ込む小さな体。
マイクが拾ったのは、苦しげな呼吸音と、衣擦れのノイズだけ。

「おい、歌音!」

蓮は数百万円の機材を砂の上に放り投げ、彼女のもとへ駆け寄った。
抱き起した彼女の体は、先ほどまでの「暴走」が嘘のように静まり返り、急速に冷たくなっていた。
唇が紫色に変わっていく。

「……く、じょう……さ……」

「喋るな! 今、救急車を……」

蓮は震える手でスマホを取り出した。
救急車。サイレン。
あの轟音が、蓮の聴覚を破壊することは分かっていた。
鼓膜が破れるかもしれない。発狂するかもしれない。

だが、蓮は迷わずに「119」をタップした。

「……と、おと……録れて、ま、すか……?」

薄れゆく意識の中で、彼女はまだ、蓮のマイクを気にしていた。
蓮は歯を食いしばり、彼女を抱きしめた。
俺は何をしていたんだ。
音を録ることに夢中で、彼女が「限界」を超えて叫んでいたことに気づかなかった。
あの「暴走するドラム」は、彼女からのSOSだったのに。

「録れてる……! 最高だった! だから、もういい!」

海風が、嘲笑うように強く吹き付けた。
広大な海の前で、蓮は自分の無力さを噛み締めていた。
どんなにいい音を録れても、この心臓が止まってしまえば、すべてはゼロになる。
その当たり前の恐怖が、初めて蓮を襲っていた。

遠くから、微かにサイレンの音が聞こえ始めた。
それは、蓮にとっての地獄のファンファーレであり、物語の「第一部」の終わりを告げる音でもあった。
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