君の心臓が止まるその日まで。僕の全財産をかけて、君の『生きた音』を録音する。

白山 乃愛

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第5話:銀色の断絶音

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「……いらっしゃいませ。個室をご予約の久条様ですね」


青山の裏通りにある、隠れ家的な高級ヘアサロン。
案内されたVIPルームのドアが閉まった瞬間、蓮はようやく浅い呼吸をした。


「……こちらの席へどうぞ」


美容師の女性が、恭しく椅子を引く。
蓮は、部屋の隅にあるソファに深く沈み込み、サングラスの奥で眉間を揉んだ。


ここまで来るだけで、地獄だった。
表参道の雑踏。
車の走行音。
そして何より、店内の他のフロアから漏れ聞こえるドライヤーの重低音。
蓮はイヤーマフを外すことができず、頭痛薬を二錠、ウィスキーのように水なしで飲み込んだ。


「久条さん、大丈夫ですか? ……顔色、悪いですよ」


鏡の前の椅子に座った歌音(カノン)が、心配そうに振り返る。
彼女は今日、病院着ではなく、蓮が用意したブランド物のワンピースを着ていた。
その姿は、病室にいた時よりもずっと年相応の少女らしく、そして儚げに見えた。


「……気にするな。早く始めてくれ」


蓮は、美容師に顎で合図した。
金は積んである。
「会話は最小限に」「動作は静かに」「シャンプーの水流音は弱めに」という、常軌を逸したオーダーも通してある。


「では、始めさせていただきます」


美容師が、銀色のシザー(ハサミ)を取り出した。
歌音の濡れた髪に櫛を通し、ハサミを入れる。


チョキッ。


「……っぐ」


蓮の肩が、ビクリと跳ねた。
鋭利な金属音。
二枚の刃が擦れ合い、髪という有機物を切断する、高周波の摩擦音。
それが、静寂な個室の中で、蓮の鼓膜を針で刺すように貫いた。


チョキッ、チョキッ、チョキッ。


リズミカルな連続音が続く。
一般人には小気味よい音だろう。
だが蓮には、何かが決定的に「損なわれていく」音に聞こえた。
髪が切られるたびに、彼女の命の砂時計もまた、削り取られているような錯覚。


(……見なければいい)


蓮は目を閉じようとした。
だが、できなかった。
鏡の中の歌音が、ハサミの音がするたびに、少しずつ「変化」していく様子から目が離せなかったのだ。


重たく伸びていた黒髪が、軽やかに舞い落ちる。
隠れていた白い首筋が露わになる。
病的なまでに白かった肌が、照明を受けて透き通るような桜色に見える。


「……かわいい」


美容師がお世辞交じりに言った言葉ではない。
蓮の脳裏に、ふと浮かんだ感想だった。
音ではない。
波形でもない。
ただ視覚的な情報として、彼女は圧倒的に「美しかった」。


心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
これは彼女の心音ではない。
蓮自身の、動揺した鼓動だった。


「……はい、終わりました。いかがですか?」


一時間後。
仕上げのブローを終えた歌音が、恥ずかしそうに椅子から立ち上がった。
肩までのボブカット。
ふわりと空気を含んだ髪が、彼女の小さな顔を優しく包み込んでいる。


彼女は、蓮の前に歩み寄ると、スカートの裾を少し摘んで、くるりと回ってみせた。


「変……じゃないですか?」


蓮は、ソファから立ち上がろうとして、一瞬言葉を失った。
イヤーマフ越しの、篭った世界。
そこにいる彼女だけが、鮮やかな解像度を持って発光している。


「……悪くない」


蓮は、それだけ言うのが精一杯だった。
「似合っている」とも「綺麗だ」とも言えない。
そんな言葉を口にしてしまえば、自分が彼女の「音」以外にも執着し始めていることを認めることになるからだ。


「ふふ、よかった。……これなら、遺影に使っても恥ずかしくないかな」


歌音は鏡を覗き込みながら、悪戯っぽく笑った。
その言葉に、蓮の背筋が凍りついた。


「……やめろ」


「え?」


「そんな冗談は、笑えない」


蓮の声は、自分でも驚くほど低く、怒気を孕んでいた。
美容師が驚いて手を止める。
歌音はきょとんとして、それから少し寂しそうに目を伏せた。


「……冗談じゃ、ないですよ」


彼女は、自分の短くなった髪先に触れた。


「私、知ってるんです。
髪の毛って、死んだあとも少しだけ伸びるんですよね?
でも、爪と髪だけ綺麗でも、心臓が止まってたら意味ないなぁって」


彼女は、蓮を見上げた。
その瞳の奥には、美容院の明るい照明でも消せない、深い諦念の闇があった。


「だから久条さん。今の私を、ちゃんと見ててね。
音だけじゃなくて。
……生きてる私の形を、覚えててね」


チョキッ。


美容師が、最後の一本を整える音がした。
それは、二人の間にあった「ビジネスライクな契約」という見えない糸を、プツリと断ち切る音のようにも聞こえた。


蓮は、何も言えずに彼女の手を取った。
その手は、ヘアサロンの温かい空気の中でも、変わらず氷のように冷たかった。


「……帰るぞ」


蓮は、逃げるように彼女を連れ出した。
新しくなった髪が、風に揺れる。
その姿を見て、蓮は初めて恐怖した。
彼女の心臓が止まることではない。
彼女がいなくなった世界で、この「映像」と「音」の記憶だけを抱えて生きていくことの残酷さに。
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