君の心臓が止まるその日まで。僕の全財産をかけて、君の『生きた音』を録音する。

白山 乃愛

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第4話:波形のゴースト

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「……なんだ、この音は」


映画監督の荒っぽい声が、スタジオのモニタースピーカーから響いた。


場所は、都内のポストプロダクション(編集スタジオ)。
蓮が担当している大作映画『静寂の森』の、最終ダビング(音響仕上げ)の現場だった。
スクリーンには、土砂降りの雨の中、主人公が立ち尽くすシーンが映し出されている。


「久条。お前、雨の音に何を混ぜた?」


監督が、充血した目で振り返った。
以前、蓮の仕事を「心がねえ」と罵倒した男だ。
だが今の彼の顔には、怒りではなく、純粋な驚愕と、ある種の畏怖が張り付いていた。


蓮は、ミキシングコンソールの前で淡々と答えた。


「……ただの雨音です。少し、低周波をいじりましたが」


嘘だ。
蓮は、フェーダーに置いた指先に微かに力を込めた。
この雨音のベースには、先日録音した歌音(カノン)の心音が、人間の耳には聞こえないレベルでレイヤー(階層化)されている。


彼女の不規則な不整脈。
その「1/fゆらぎ」とも呼べる生命のリズムが、無機質なデジタルの雨音に、湿度と、切迫した「焦燥感」を与えているのだ。


「……ぞっとする雨だ」


監督はスクリーンを見つめ直した。


「画面から、冷気が漂ってきやがる。主人公の孤独が、皮膚感覚で伝わってくるようだ。……悔しいが、完璧だ」


「OKということで、よろしいですか」


「ああ。文句のつけようがねえ」


スタジオのスタッフたちが、安堵のため息と共に、蓮に尊敬の眼差しを向ける。
かつての「神の耳」が戻ってきた。
いや、以前よりも凄みを増して帰ってきたと、誰もが感じていた。


蓮は表情を変えずに会釈をし、スタジオを出た。
廊下に出た瞬間、ポケットの中で握りこぶしを作った。


(……勝った)


震えが止まらなかった。
薬指が痺れるような高揚感。
自分の技術が認められたからではない。
**「彼女の音」が、世界に通用した**ことへの優越感だった。


あのポンコツだと言われた心臓が。
壊れかけの欠陥品が、何億もかけた映画のラストシーンを支配している。
これは、蓮と歌音だけが知る、世界への痛快な復讐だった。



その夜。
蓮は自宅のプライベートスタジオに戻り、祝杯もあげずにモニターと向き合っていた。


「……おかしい」


蓮は、波形編集ソフトに表示された、歌音の心音データを拡大表示していた。
今日のダビング中、微かに気になった「違和感」があった。
雨音に混ぜてしまえば分からないレベルだが、プロの耳は誤魔化せない。


『ドクン……、ドク、ン』


スピーカーから流れる、愛しいリズム。
蓮はマウスを操作し、特定の周波数帯域(EQ)をカットした。
そして、音量を極限まで上げる。


『……シュッ……』


心音が鳴る直前。
血液が弁を通過する瞬間に、微かな、本当に微かな「擦過音」が混じっていた。
マイクのノイズではない。
これは、有機的な組織が悲鳴を上げている音だ。


「僧帽弁閉鎖不全……いや、逆流か?」


蓮は医療の専門家ではない。
だが、音のプロとして、この音が「何かが摩耗し、漏れ出している音」であることは直感的に理解できた。
正常なポンプ機能を失った心臓が、無理やり血液を送り出すたびに、心臓弁が擦り切れ、きしみ音を上げているのだ。


蓮は、画面上の波形を見つめた。
美しい山なりの波形の中に混じる、小さなギザギザとしたノイズ。
それは、死神が爪を立てた跡のように見えた。


(このノイズは、消せない)


技術的に消すことはできる。
だが、これを消してしまえば、この心音の持つ「切迫感」も消えてしまう。
映画監督を唸らせたあの「冷気」の正体は、彼女の命が削れる音そのものだったのだ。


プルルルル……。


不意に、デスクの上のスマホが震えた。
画面には『瀬名歌音』の文字。
蓮は、波形を表示したまま通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『あ、久条さん? こんばんは』


電話越しでも、彼女の声には微かなノイズが乗っている。
だが、今の蓮には、その声すらも愛おしく、そして恐ろしかった。


『あのね、次の「わがまま」思いついたんです』


「……なんだ」


『私、髪を切りたいんです。
病院の理容室じゃなくて、ちゃんとした美容院で、可愛くしてほしくて。
……連れて行ってくれますか?』


明るい声。
だが、蓮の目には、モニターに映る「死のノイズ」が焼き付いている。
彼女は知っているのだろうか。
自分の心臓が、一拍ごとに壊れていっていることを。


「……ああ。いい店を知っている」


蓮は、喉の奥の乾きを飲み込んで答えた。


「最高に可愛くしてやる。……だから、明日はとびきりいい音を聞かせてくれ」


『ふふ、任せてください。私の心臓、久条さんの前だと張り切っちゃうみたいですから』


通話が切れる。
静寂に戻ったスタジオで、蓮はモニターの中の波形に指で触れた。


「……張り切るな、バカ」


その音は、張り切っているんじゃない。
悲鳴を上げているんだ。


蓮はヘッドホンを装着し、再び彼女の心音に溺れた。
その音を聞いている間だけは、この残酷な真実から目を逸らしていられる気がした。
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