「中に出して。……お土産に持って帰りたいの」――上京前夜。ずっと好きだった幼馴染が、排卵検査薬を握りしめて俺のベッドに潜り込んできた。

ひふみ黒

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第7話 黒いスーツの探偵

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愛梨が東京へ去ってから、三週間が過ぎた。
 
俺の生活は、表面的には以前と変わらない平穏を取り戻していた。
朝起きて、仕事に行き、コンビニ弁当を買って帰り、眠る。
 
だが、俺のスマホの隠しフォルダには、あの夜の「証拠」――愛梨の痴態と、俺たちの共犯の音声データが眠っている。
それが、退屈な日常を生きる俺の、唯一の精神安定剤だった。
 
金曜日の夜。
スマホが短く震えた。
 
通知の相手は『Airi』。
 
心臓が跳ね上がる。震える指でロックを解除すると、そこには一枚の画像だけが送られてきていた。
 
産婦人科のエコー写真。
真っ黒な背景の中に、小さな、豆粒のような白い影が写っている。
 
『着床、したよ。5週目だって』
 
続いて送られてきたメッセージに、俺は拳を強く握りしめた。
 
やった。
入ったんだ。俺の種が。
 
あの白い豆粒は、神宮寺誠という男の子供として育てられる。だが、その設計図は100%、俺のものだ。
 
『おめでとう、愛梨。……いや、神宮寺夫人』
 
皮肉を込めて返信しようとした、その時だった。
 
ピンポーン。
 
深夜十時。不躾なチャイムの音が、静かなアパートに響き渡った。
 
こんな時間に誰だ?
宅配便の予定はない。勧誘にしては遅すぎる。
 
俺はドアの覗き穴から外を確認した。
 
そこに立っていたのは、黒いスーツを着た、中年の男だった。
鋭い眼光。仕立ての良い服。明らかに、この安アパートには不釣り合いな人間だ。
 
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
居留守を使うべきか? いや、電気がついているのは外から見えるはずだ。
 
俺はチェーンをかけたまま、少しだけドアを開けた。
 
「……どちら様ですか?」
 
男は恭しくお辞儀をし、革の名刺入れから一枚の名刺を差し出した。
 
『興信所 赤城リサーチ 調査員 黒田』
 
「夜分に恐れ入ります。神崎拓也様ですね? 少し、早川愛梨様の件でお話を伺いたいのですが」
 
心臓が止まるかと思った。
 
バレたのか?
あの夜の情事が? それとも、托卵の計画が?
 
「……愛梨の? 何の用ですか」
 
「神宮寺家からのご依頼で、婚約者である愛梨様の身辺調査を行っております。ごく一般的な、素行調査のようなものです」
 
男は、爬虫類のような冷たい目で俺を見据えた。
 
「幼馴染であられる貴方様に、彼女の異性関係についてお聞きしたく」
 
「……どうぞ」
 
俺はチェーンを外し、男を玄関に入れた。
ここで拒絶すれば、逆に怪しまれる。俺はあくまで「善人の幼馴染」を演じなければならない。
 
狭い玄関で、黒田という男は手帳を開いた。
 
「単刀直入にお聞きします。愛梨様には、東京へ行かれる前、交際していた男性はいましたか?」
 
「いえ。あいつは真面目なんで、勉強とバイトばかりでしたよ」
 
俺は淀みなく答えた。
 
「そうですか。……では、出発の前日。彼女はご実家に泊まられたのでしょうか?」
 
ギクリとした。
確信を突くような質問。
 
「……さあ。実家じゃないですか? 引っ越しの準備で忙しそうでしたし」
 
「ふむ。……実は、近隣の方から『その夜、女性の叫び声のようなものが聞こえた』という証言がありましてね」
 
黒田の目が、俺の股間から顔へと、ねっとり這い上がってくる。
 
「かなり激しい、男女の声だったと。……貴方のお部屋から聞こえたそうですが」
 
壁の薄い安アパートだ。
あの狂乱の夜。窓は閉め切っていたが、愛梨の絶叫は漏れていたのか。
 
冷や汗が背中を伝う。
ここで動揺したら終わりだ。俺の子供の未来も、愛梨の計画も、すべて水泡に帰す。
 
俺は努めて呆れたような顔を作った。
 
「ああ、それですか。……その日、俺、AV見てたんですよ。スピーカーの音量上げすぎて、隣の人に壁ドンされちゃいました。恥ずかしい話ですけど」
 
一か八かの賭け。
男は数秒間、俺の瞳をじっと見つめ――やがて、パタンと手帳を閉じた。
 
「……なるほど。お若い男性なら、よくあることですね」
 
男の表情が緩んだ。……信じたのか?
 
「疑って申し訳ありません。神宮寺家は格式高い家柄でして、お腹のお子様の血統には、特に神経質になられているのです」
 
「……お腹の子供?」
 
俺は知らないふりをして聞き返した。
 
「ええ。実は愛梨様、妊娠されたそうで。……神宮寺様も大変お喜びです」
 
男は懐から、分厚い封筒を取り出した。
 
「これは、神宮寺様からの『口止め料』……いえ、お礼です」
 
「お礼?」
 
「過去の異性関係など、余計な噂が立たないよう、幼馴染としてご協力いただきたい……という意味合いのお金です。受け取っていただけますね?」
 
渡された封筒はずっしりと重かった。
札束だ。おそらく、百万円はある。
 
これは「口止め料」じゃない。
「これを受け取ったら、お前も共犯だぞ」という、神宮寺家からの無言の圧力。
あるいは、この男――探偵のカマかけかもしれない。
 
俺は封筒を受け取り、卑屈に笑ってみせた。
 
「……へえ、あの愛梨が玉の輿とはね。分かりました。俺は何も知りませんし、何も言いませんよ」
 
「賢明なご判断です」
 
黒田はニヤリと笑い、踵を返した。
 
「では、失礼いたします。……ああ、最後に一つだけ」
 
ドアを開けようとした男が、振り返らずに言った。
 
「神宮寺誠様は、無精子症の治療で、半年前に手術を受けられているそうです。……奇跡が起きて、本当によかったですね?」
 
男が出て行った後、俺は膝から崩れ落ちた。
 
奇跡?
違う。この探偵は知っている。
旦那に種がないことを知った上で、それでも「神宮寺家の面目」のために、愛梨の不貞を――あるいは「優秀なドナーの存在」を黙認しに来たのだ。
 
俺の手の中で、百万円の入った封筒が、まるで赤ん坊のように熱く重たく感じられた。
 
スマホが震える。
愛梨からだ。
 
『ねえ、今、変な人来なかった?』
 
俺たちの「托卵計画」は、俺たちが思っている以上に、巨大でドス黒い闇に飲み込まれようとしていた。
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