「中に出して。……お土産に持って帰りたいの」――上京前夜。ずっと好きだった幼馴染が、排卵検査薬を握りしめて俺のベッドに潜り込んできた。

ひふみ黒

文字の大きさ
8 / 10

第8話 ガラス越しのパパ

しおりを挟む

季節が三つ、巡った。
 
俺の口座には、あの探偵から渡された百万円が、手付かずのまま眠っている。
使う気になれなかった。それを使えば、愛梨との共犯関係が「ただの金銭取引」に成り下がってしまう気がしたからだ。
 
俺は地方の市役所で働きながら、スマホの画面だけを生きがいにしていた。
 
愛梨からの連絡は、月に一度、事務的な報告だけ。
 
『順調。お腹出てきた』
『男の子で確定』
『名前は拓人(たくと)で通した』
 
そして、桜が散り、新緑が眩しい五月。
ついに、そのメッセージは届いた。
 
『生まれた。3200グラム。……拓也にそっくり』
 
添付された写真には、新生児室のコットに寝かされた赤ん坊。
腫れぼったい瞼。少し曲がった鼻の形。
間違いなかった。俺の顔だ。鏡の中で見慣れた俺のパーツが、東京の高級病院で産声を上げている。
 
『会いに来て』
 
続くメッセージに、心臓が早鐘を打った。
 
『神宮寺さんは今夜、付き合いでいない。……個室だから、誰にも見られない』
 
罠かもしれない。
あの探偵が張り込んでいるかもしれない。
 
だが、俺はスーツケースに最低限の荷物を詰め込み、新幹線に飛び乗っていた。
自分の種が、どんな世界で生きているのか。それを見届けなければ、俺の人生は前に進まない。
 
 ***
 
都内の一等地にある大学病院。
ホテルのようなロビーを抜け、厳重なセキュリティの病棟へ入る。
 
愛梨の病室は、最上階の特別個室だった。
 
「……拓也」
 
ドアを開けると、愛梨がベッドに体を起こしていた。
少しふっくらとした顔つき。だが、その瞳に宿る光は、以前よりも強く、そして母性という狂気を帯びていた。
 
「よく来たね。……怖くなかった?」
 
「お前の方が怖いよ」
 
俺は苦笑いしながら、ベッドの脇にあるベビーコットを覗き込んだ。
 
息が止まった。
 
そこにいたのは、俺だった。
小さな、無力な、けれど確かな俺の分身。
 
「……抱っこしてあげて」
 
愛梨に促され、俺は恐る恐るその小さな塊を抱き上げた。
温かい。重い。ミルクの匂い。
 
「……拓人」
 
名前を呼ぶと、赤ん坊がピクリと反応し、俺の指を小さな手でギュッと握り返してきた。
その力強さに、涙が溢れそうになった。
 
「似てるでしょ?」
 
愛梨が愛おしそうに俺たちを見つめる。
 
「神宮寺さんの親族も、みんな喜んでたわ。『鼻の形はお祖父様に似たのかしら』なんて言って。……馬鹿みたい」
 
「……旦那は、気づいてないのか?」
 
「気づいてても言わないよ。……だって、この子は神宮寺家の『希望』だもん」
 
愛梨はベッドから降り、赤ん坊を抱く俺の背中に抱きついた。
豊かな乳房が、背中に押し当てられる。
 
「ねえ、拓也。……幸せ?」
 
「……ああ。なんか、変な気分だ」
 
「私も幸せ。……大好きな拓也の子供を、大金持ちのお金で不自由なく育てられるんだもの。これ以上の復讐はないでしょ?」
 
復讐。
そうだ、これは俺たちの、持たざる者による復讐劇だ。
 
俺はその感傷に浸り、赤ん坊の頬に指を這わせていた。
 
その時だった。
 
ガチャリ。
 
背後のドアノブが回った。
 
「愛梨、起きているかい? ……母さんが、どうしても顔を見たいと……」
 
入ってきたのは、写真で見たあの優男――神宮寺誠だった。
そしてその後ろには、着物を着た厳格そうな老婦人と、あの黒いスーツの探偵・黒田が立っていた。
 
俺は赤ん坊を抱いたまま、凍りついた。
 
密室での逢瀬。
不義の子供を抱く、本当の父親。
そして、それを目撃した戸籍上の父親。
 
終わった。
すべてが、ここで終わる。
 
だが。
 
神宮寺誠は、俺と赤ん坊を交互に見つめ――そして、信じられない言葉を口にした。
 
「……ああ、君が。愛梨の従兄弟(いとこ)の、神崎さんだね?」
 
「……は?」
 
「遠くからわざわざありがとう。……抱いてやってくれ。君によく似た、元気な男の子だよ」
 
旦那は、穏やかに微笑んでいた。
その目は、何も見ていなかった。あるいは、見えているものすべてを、自分の都合のいいように歪めて認識していた。
 
後ろに立つ探偵が、俺に向かって音もなく一礼した。
その口元が、『余計なことを言うな』という形に歪んでいるのが見えた。
 
俺はこの瞬間、理解した。
 
この家は、狂っている。
愛梨の狂気すら飲み込むほど、この「神宮寺家」というシステムそのものが、巨大な怪物なのだ。
 
俺は震える声で答えた。
 
「……はじめまして。……可愛い、甥っ子ですね」
 
俺は自分の息子を、「甥」と呼んだ。
それが、この狂った世界で生きるための、俺の最初の嘘だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました

蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。 そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。 どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。 離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない! 夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー ※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。 ※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

新人メイド桃ちゃんのお仕事

さわみりん
恋愛
黒髪ボブのメイドの桃ちゃんが、働き先のお屋敷で、旦那様とその息子との親子丼。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...