難攻不落のエリート上司の執着愛から逃げられません

Adria

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1巻

1-2

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「椿は、仕事となると言うことを聞かないけど、今まで父さんと喧嘩をすることなんてなかったから……。余程のことだと思って、めちゃくちゃ心配したんだ。それで、怪我はない? 昨夜はどこにいたんだい?」
「怪我はありません……。えっと、昨夜は会社の近くのビジネスホテルに泊まっていました」

 まさか杉原部長のところに泊まりました、なんて言えない私は嘘をついた。

「そっか……。なら、いいんだけど」

 兄はホッと胸を撫で下ろし、義姉の隣に腰掛けて何度も「よかった。無事で」と繰り返す。その姿を見ていると、なんとも言えない気持ちになって、真っ直ぐに兄の顔が見られなかった。
 本当のことを言ったら叱られるというより、卒倒されそう……

「ねぇ、椿。父さんの心配は分かるけど、僕は椿の好きなようにすればいいと思うよ。結婚するもしないも自由だし、たとえ結婚したとしても仕事を続けたければ続ければいい。まあ見合い話は椿からしたら突飛すぎたよね。でも、誤解はしないであげてほしいんだけど、父さんは椿を会社の利益のために嫁がせようとか、そういうつもりではなかったんだ。ただ単に椿が幸せになって、それで孫の顔も見られたら万々歳ってところなんだよ」
「それは先ほど留守番電話を聞いたから分かっています」
「なら、よかった。あとで帰ってくると思うから、ちゃんと話し合ってみるといいよ」

 こくんと頷くと、兄の手が伸びてきて、頭を撫でてくれた。温かくて優しいその手は小さな時から何も変わらない。優しい兄の手だ。

「椿ちゃん。私も彬さんも貴方の味方よ。それはお義父様やお義母様も同じだと思うわ。だから、あまり考えすぎないようにね」
「はい、ありがとうございます」
「でも、僕としては残業はやめてほしいけどね。これは兄としてもだけど、上司としてもだよ。正直なところ、研究所の上に勝手に専用の仮眠室なんてものを作っているのもよくないかなぁとは思っているよ。それが余計に残業を増やしている原因だろうしね」
「ごめんなさい」

 しゅんと小さくなって謝ると、兄はははっと笑って、私の額を指で弾いた。

「残業を減らして帰宅するくせをつけてくれたらいいよ」

 弾かれた額を押さえながら返事をせずに兄を見ると、義姉がまたもや笑い出した。

「椿ちゃん、この人ね。椿ちゃんが変な男の人に声をかけられて、どこかに連れ込まれていたらどうしようって本気で心配していたのよ」

 その言葉に心臓が大きく跳ねる。
 連れ込まれるというか、正確には部長を誘ったのは私だ。ある意味間違えていない兄の心配に、変な汗が出てくるのを感じ、私は視線を彷徨さまよわせた。

「志穂。それは内緒って言っただろう。……椿って研究に一辺倒で世間知らずなところがあるから、お兄ちゃんとしては心配なんだよ。それに連絡なしの外泊も今までなかったから居ても立っても居られなかったんだ。でも椿ももう二十八なんだし、心配しすぎはよくないって分かっているんだけど……。ごめんね、椿」

 困ったように兄は笑った。兄の言葉は嬉しかったが、昨夜のことがあるので何も言えなかった。


   ***


 昨日は父とも話し合えて本当によかったわ。あとは、部長とちゃんと話をして謝らなきゃ……
 朝、そんなことを考えながら研究所のロッカーにカバンを入れ、白衣を羽織る。
 うう。一昨日、勝手に逃げちゃったことを怒っているかしら? 怒っているわよね?
 時間が経って冷静になると、自分が無礼に無礼を重ねてしまったことに気づいた。だが、あとの祭りだ。
 あの時は本当に混乱していて、あのまま彼の側にはとてもいられなかったのだ。どうか許してほしい。
 それも併せて謝らなきゃ……

「……はぁ~っ」

 露骨な溜息が漏れる。
 もう少し冷静になって、あの場で話し合えていれば……。それが何よりよかったと分かっているだけに、少し気が重い。
 部長、今日の都合はどうかしら? お昼に……。いえ、終業後のほうがいいわよね?
 できるなら少しでも先送りにしたい。そんなずるいことを考えてしまっている自分にかぶりを振る。
 ダメ。ちゃんと非礼の数々を謝らなきゃ……
 そう心に決めて研究室の中に入る。そして小さく息をついて、パソコンの電源を入れた。

「羽無瀬さん」
「はい!」

 すると、所長に呼ばれたので顔を上げた。彼にちょいちょいと手招きをされたので、私は首を傾げながら近づく。

「なんでしょうか?」
「悪いんだけど今から商品開発部のほうに行ってくれないかな」
「えっ!?」

 その言葉に心臓がどくんと跳ねて、けたたましく鼓動を刻む。
 ま、まさか、まさか、部長から呼び出し?

「えっと……何かあったのでしょうか?」

 気をつけないと声が震えてしまう。
 おそるおそるたずねると、所長は顎に手を当ててうーんと唸った。

「……以前出した商品の目玉でもある水溶性高分子について、詳しく話が聞きたいらしいんだ」
「水溶性高分子、ですか?」
「うん。もしかすると、シリーズ商品を増やすために何か気になることがあるのかもしれないね。だから羽無瀬さん、悪いけど行って話してきてよ」
「はい、もちろんです」

 あ、なんだ。仕事の話だったのね……
 ホッと胸を撫で下ろす。でも、なんとなく残念な気持ちにもなってしまい、私は首を小さく横に振ることでその考えを振り払おうとした。

「なら、私が行ってきますよ。羽無瀬さん、新商品の成分開発で今忙しいでしょう?」

 私が所長から説明に行く商品の資料を受け取っていると、同僚の狭山さやまさんがにこにこと近寄ってきた。すると、所長が難しい顔で首を横に振る。

「いや、杉原部長が羽無瀬さんをご指名なんだ。彼女の説明は分かりやすいから……」
「あ、そうなんですね……。まあ、あの成分を開発したの羽無瀬さんですもんね」

 ご、ご指名!?
 うんうんと頷いている彼女の横で、分かりやすく体が跳ねてしまい、落としそうになった資料をぎゅっと抱き締めた。
 い、今、ご指名って言ったわよね?
 落ち着きを取り戻していた心臓がまたうるさいくらい跳ねて痛い。
 や、やっぱり呼び出しだったのだわ……。ということは、聞きたいのは水溶性高分子のことではなくて、土曜日に彼のマンションから逃げ出したことよね……?
 会って謝らなきゃとは思っていたが、こんなにも早く呼び出されるとは思っていなかったので、心の準備ができていない。でも直属ではないとはいえ、上司に呼ばれたのなら行かなければならない……
 うう、頑張ろう。
 とても失礼なことをしたのだ。慰めて私の無茶を聞いてくれたことに対してちゃんとお礼も言って誠心誠意謝らないと……
 私は足取り重く本社ビル内にある商品開発部へと向かった。

「失礼します」

 びくびくしながら中へ入ると、近くにいた社員に元気よく挨拶をされたので、私は張りつけた笑顔で同じように挨拶した。

「あ、あの、杉原部長と過去の商品の成分についてお話が……」
「はい、伺っております。呼んできますので、ちょっと待っていてくださいね」
「ありがとうございます……」

 はぁ、少し落ち着かないと……
 私は何度か息を吸って吐いた。

「おはよう、羽無瀬さん。ごめんね、朝から呼び出しちゃって……」

 杉原部長が人好きのする笑顔で近寄ってくる。その笑顔は、土曜日の肉食獣のような表情ではなく、何事もなかったと勘違いしてしまいそうなくらい穏やかで無害そうな笑みだった。

「い、いえ……。それで、何が気になったのでしょうか?」
「その話は長くなるから会議室で話そうか。第一会議室を取ってあるから、僕と一緒に来てくれる?」

 だ、第一会議室……!? その名前を聞いて一歩後退る。
 第一会議室は狭いし、社内でも奥まったところにあって使い勝手が悪いので、どこも空いていないとかじゃない限りは皆使わない。
 そ、そこに呼び出されるなんて……
 これはもう確実に、部長はあの日のことを問い質すつもりなのだ。
 きゅっと唇を引き結ぶ。
 覚悟を決めなきゃ……。ちゃんと一昨日はごめんなさいと言って謝るのよ。
 すがるように資料を抱き締めると、部長が顔を覗き込んできた。

「ひぇっ」
「どうしたの? 大丈夫?」

 突然、至近距離に彼の顔が来て驚き、数歩くらい飛び退く。

「羽無瀬さん?」
「あ。だ、大丈夫です! ボーッとしてしまいました。申し訳ありません……」
「そう? 大丈夫ならいいんだけど……。じゃあ、行こうか?」
「は、はい……」

 穏やかな微笑みを浮かべて、「こちらにどうぞ」と案内してくれる彼の後ろを縮こまりながら、ついて行く。
 心臓が口から出そうなくらい緊張していて、今とても怖いけれど……自分のしたことは悪いことだ。
 今日何度目か分からない覚悟を決めて、彼の後ろをついて廊下を歩く。商品開発部を出てエレベーターに乗って一つ上の階に上がる間も、第一会議室へ向かう間も、彼はにこにこと微笑んではいるが、何も話さない。その笑顔と沈黙がかえって恐ろしくてたまらない。

「どうぞ」
「は、はい!」

 体をわななかせていると、部長の足が止まりドアを開けてくれる。
 どうやらもう第一会議室についてしまったらしい。資料を抱き締める手に力を入れて、ごくりと生唾を呑み込み、促されるまま「失礼します」と会議室に一歩足を踏み入れる。すると、その途端肩をドンッと押された。

「きゃっ!?」

 咄嗟とっさのことでよろけてしまい、テーブルに手をついて体を支える。手に持っていた資料は床に落ちてしまった。
 え? 何? 何が……起きたの?
 部長は勢いよく扉を閉めて鍵までガチャリとかける。その音にびくっと体が揺れて、ゆっくりと振り返った。
 部長……?
 理解が追いつかなくて呆けている私に、彼は怖い顔で私を閉じ込めるようにばんっとテーブルに手をついた。

「ぶ、部長……? あ、あの……」

 体のすぐ横にある部長の手を見つめたあと、おそるおそる顔を上げる。彼の顔からは先ほどまでの穏やかな笑みは消えていて、今はとても鋭い目つきで私をにらんでいた。その表情に、私は大きく目を見開いたまま動けなくなってしまった。
 背中にはテーブル。前には私を挟むように両手をついている部長。逃げ場はない。
 それにこの会議室は奥まったところにあるので、基本的に誰もこちらのほうには来ない。つまり誰も助けてくれる人はいない……。そこまで考えて、慌ててその考えを振り払う。
 ダメよ、私。怖いけれど誰かに助けを求めるのは間違えている。ちゃんと話をしなきゃ。

「あの、部長。一昨日はごめんなさ……」
「俺をヤリ捨てるとはいい度胸だ」
「え?」

 ヤリ捨てる……?
 私の謝罪を遮る部長の言葉に目を瞬かせ、慌てて首を横に振った。

「いえ、ヤリ捨てるなんて、そんな……そんなつもりは決して……」
「なら、なぜ逃げた? 突然、部屋から出ていかれた俺の気持ちが分かるか? 分からないだろう? 君は一時の寂しさを紛らわせてくれる相手なら誰でもよかったのか? あの日、俺を好きだと言ったのは嘘だったのか?」
「違っ、違います! 誰でもだなんて、そんなこと……。それに嘘じゃありません。私、部長のこと……」

 彼は一層きつく私をにらみつける。
 とても怒っているのが分かって、泣いてはいけないと分かっているのに、彼の鋭い視線と低い声音に涙が滲んでしまう。
 どうしよう……。怖い……
 怒られて当然だと分かっているが、ここまで強く怒りをぶつけられるとは思っていなかった。私が身をすくませたまま涙目で固まっていると、部長は舌打ちをして頭を掻いた。

「……何も言わずに出ていかれたら心配もするし不安にもなる。俺が今日までどんな思いをしていたか分かるか?」
「申し訳ありません……。わ、私、あの時混乱していて、自分のことばかりで、本当に申し訳ありませんでした」
「謝罪なんていらない。それよりも、どうして逃げたか教えろ」

 深々と頭を下げると、手が伸びてきて顎を掴まれ、無理やり顔を上げられる。
 絡み合った視線が――絶対に逃さないと物語っていて、私は彼から視線を外すことができなかった。

「っ、ご、ごめんなさっ……」

 震える声を絞り出す。
 謝罪なんていらないと言われたが、どうしても許してほしくて、どうにかしてその怒りをおさめてほしくて……必死に謝った。
 どうすればいいの……?
 ぎゅっと目をつぶった瞬間、頭上からプハッと噴き出す声が聞こえる。その声に目を開けると、なぜか部長が笑っていた。

「えっ!?」
「ぷっ、くくっ……っ」

 瞠目どうもくしたまま硬直している私を見ながら肩を震わせて笑い出した彼に、わけが分からず動揺したまま彼を呼ぶ。

「部長……?」

 状況が飲み込めない。
 先ほどまで怒っていたはずの彼が、今はなぜ笑っているのだろう……?

「ああ、もうダメだ。可愛すぎだろ」
「あの……。部長?」

 どうなっているの? どうして笑っているの? 怒っていたのではないの?
 怒っているはずだった彼が笑っている今の状況も、彼が口にした可愛すぎるという言葉の真意も理解できない。混乱した頭で部長を見ると、彼は目を細めて顔を寄せてきた。そして私の腰を抱き寄せる。

「部長じゃない。良平だ。名前で呼んでくれって言っただろ」
「は、はい……。申し訳ありません」

 パニックに陥ったまま頭を下げると、彼は笑うのをやめて、そんな私をジッと見つめる。

「分かった。なら、こうしよう。謝罪はいらないと言ったが、椿からの謝罪を受け入れてやる」
「本当ですか?」

 よかった……
 もうすでに怒ってはいなさそうだが、謝罪を受け入れてくれるということは一昨日の私の非礼を許してくれるということだ。本当によかった。
 ホッと胸を撫で下ろすと、部長は小さく笑って、私の頬に手を添えた。

「部長……?」
「謝罪は言葉ではなく、これからの行動で示してもらいたい。逃げたことを悪いと思っているなら、二人きりの時は名前で呼んでくれ」
「え? そんなことでいいんですか?」
「そんなこと? 言っておくが、めちゃくちゃ重要なことだぞ」

 キョトンとする私の頬を摘んで、呆れたような声を出す彼に、もう先ほどのような怒りは感じられなかった。それにもう笑うのもやめたみたいだ。
 何がそんなにもおかしかったのか分からないが、彼の名前を呼ぶことで許してくれるならお安い御用だ。私は二つ返事で了承した。

「じゃあ、ほら呼んでみろよ」
「は、はい。良平さん……」
「よくできました」

 そう言って屈託なく笑い、頭を撫でてくれる彼に胸が大きく跳ねた。
 良平さん……
 心の中でもう一度呼んでみると、胸がトクントクンと高鳴っていくのを感じて戸惑う。私は目を伏せて白衣を掴んだ。
 私、どうしちゃったの……?

「椿……。ごめんな。会った時から、すげぇビビってるから、つい揶揄からかっちまった。実際は怒ってなんかいなかったんだが、そういう素振りを見せたらどんな顔をするんだろうと思うと、つい……。悪かった……」
「いえ、いいんです。怒られて当然のことをしましたから……。動揺してパニックになっていたとはいえ、ちゃんと話さずに逃げてしまって申し訳ありませんでした」

 改めて、深々と頭を下げて謝罪の言葉を口にする。彼はそんな私を見て自分の首裏に手を当て、少し困ったような顔で笑った。

「どちらかというとショックのほうが大きかったかな。何か嫌なことをして嫌われたんじゃないかって……、その気持ちのほうが大きかったから怒ってはいない。だからもう謝るな」

 彼は苦笑いをしながら、私をひょいっと抱き上げると、テーブルの上に座らせた。そして甘えるように肩にすり寄りながら、抱きついてくる。
 良平さん……?

「嫌だなんて、そんなこと絶対に有り得ません。……私、お酒で気が大きくなっていたからって、貴方に『抱いて』とせがんだことが恥ずかしくてキャパオーバーしてしまって、一度一人になって冷静に考えてみたかったんです……。だから……」
「だから逃げたのか?」

 彼の言葉にこくりと頷く。
 会議室に入った時のような怒気を含む声ではなく、とても優しく甘い声だった。

「りょ、良平さんは酔っ払って泣き喚いた私を可哀想だと思って、優しくしてくれたのだと思いました。……そ、それに良平さんは真面目で優しいから、私のわがままを聞いて抱いてくれたことへの責任を取らなきゃいけないと思い込んでいるんだとも思いました。だから、本当は後悔しているのに言い出せないなら、お互い忘れましょうとちゃんと話して解放してあげるべきだと……っ!」

 彼は言葉を遮るように話している私の鼻を摘んで、小さな声で「バカ」と言った。摘まれた鼻を手で押さえて謝ると話の続きを促される。

「ほかには?」
「ほか……。えっと……私は研究に一辺倒で、自分が普通の人よりズレている自覚があります。研究に必死になると周りが見えなくなってしまうところが、かなりあるので……だから、私は恋愛や結婚には不向きであると考えていました。良平さんのことはずっと憧れていましたし好きです。でも、こんな私なんかが貴方を縛りつけるのは絶対にいけないとも思いました」

 テーブルに座ったまま、目の前にいる彼に頭を下げると、彼は眉根を寄せながら苦笑いをして、私の髪をくしゃっと撫でた。
 良平さん……
 彼のその表情に胸が締めつけられる。

「ごめんなさい……。自分勝手ですよね……」
「別に。椿が仕事熱心なのは知っているよ。今までも仕事に真摯に向き合う君をとても好ましく思っていたと言っただろ。バーで会った時だって……、君がとても真剣に仕事への思いを語るから、俺は君から目を離せなくなったんだ。社長とのやり取りを聞いて自暴自棄になっているのは分かったが、君が俺を以前から憧れていたと……初めては俺がいいと泣きながら言った時に――自分が君に惹かれていたんだと気づいたよ。酔った状態の君を抱くのはフェアじゃないとは思いながらも、どうにも止まれなかったんだ」

 え……?
 予想していなかった彼の言葉に目を瞬かせる。
 私に……惹かれていた……?

「椿、好きだ。俺はもう君にハマっているんだよ。だから、椿も堕ちてこいよ。ここまで来い」

 そう言いながら私の肩に頭を乗せて、じゃれるようにスリスリとすり寄る彼の頭を撫でたくて、そっと手を伸ばしてみる。すると、彼は目を細めて甘い声で私の名前を呼んだ。
 良平さん……

「椿のような人間には、はっきり言わないと伝わらないだろうから、何度だって言ってやる。好きだ、椿。そもそも好ましく思っているからこそ、君に寄り添いたいと思ったんだ。椿だから抱いたんだ。好きだ。好きなんだ」

 その強い言葉にかぁっと顔に熱が集まってくる。
 良平さんが私を? 私を好き……?
 心の中で何度も反芻はんすうすると、全身がかっかしてきて熱っぽい。

「椿、好きだ。俺のものになれよ。仕事を優先しても構わないから……俺のものになれ」

 彼は私の顎をすくい上げ、唇を合わせた。ついばむように上唇と下唇をんでから、ちゅっと何度も軽いキスに興じる。

「ふ、ぁっ、良平さん……」

 ゆっくりと唇が離れた時、私は吐息混じりに彼の名前を呼んだ。すると、彼が蠱惑こわく的に笑う。その表情にさらに体が熱くなるのを感じた……
 つい数日前に性の悦びを知ったばかりだというのに、はしたなくも彼を求めてしまっているのを感じて、私は恥ずかしさや情けなさから、ぎゅっと目をつぶった。

「なぁ、椿。こうやってキスに応じてくれるってことは俺のこと嫌じゃないんだろ? 椿は俺の告白を聞いて、どう思ったんだ? 答えを聞かせてくれないか?」

 答え……
 彼の言葉に私は自分の胸元を押さえた。
 私も、私も、良平さんが好き。ずっと憧れていた。好きだった……
 でも仕事を優先してしまう私には彼に想いを告げる勇気もなければ資格もないと思っていた。今だって、彼と仕事を天秤にかけたら、迷わずに彼を選び取れる自信はない。好きだけれど分からない。そんな私が彼の想いを受けてもいいのだろうか……
 きゅっと唇を引き結ぶ。
 でも仕事のほうが大事だからと、彼の想いを一蹴することもできない。嬉しいと思ってしまっている。
 私、ずるい……
 しばらく逡巡したあと、私はようやく口を開き、ゆっくりと自分の気持ちを言葉にしていった。

「嬉しいです。でも私、今は仕事のことしか考えられないんです。貴方に憧れていて、貴方に抱かれたいと思った気持ちに嘘はありません。貴方のことが好きです。あの日言ったことに嘘偽りはありません。けど……」
「分かっているよ。仕事が大切なんだろ」

 その声に俯いていた顔をおそるおそる上げると、彼は優しい声音で私の頬に手を添えて笑う。

「何度でも言ってやるよ。仕事を優先していいから俺を選べ」
「良平さん……」
「椿が仕事に熱中しているところとかすげぇ好きだから、俺としては仕事を優先することについて何かを言うつもりはないよ。それに、結婚後も仕事を続ければいいと思っているし、必要なら兎之山家に婿に入ってもいいと思っている」
「えっ?」

 ええっ!? 結婚? 婿?
 突然飛躍する彼の言葉に驚いて目を白黒させると、彼はなんでもないことのように笑った。

「うちの会社って同族経営色強いよな。だから椿をもらうなら、その覚悟が必要ってことも分かっているから安心してくれ」
「えっ? 待って……待ってください」
「でもうちの会社、ワンマンでもないし、福利厚生が整っている上に給料もいい。それはすべて椿のお父さんである兎之山社長のおかげだと思っている。尊敬しているよ。だから、婿に入ってもいいぞ」

 え……。ちょっと、ちょっと待ってほしい……

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