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1巻
1-3
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私の戸惑いを分かっていながらも無視して話し続ける彼に、私はどうしたらいいか分からず、困ったように彼を見つめた。
「そんな顔するなよ。ちゃんと分かってるから」
「ですが……」
「散々好き放題言われて戸惑う気持ちは分かるが、何も今すぐ結婚しようと言っているわけじゃない。婿入りは俺の覚悟だと思って頭の隅にでも置いといてくれればいい。椿ははっきり言葉にしておかないと、勝手に俺が後悔しているとか優しいから嫌だと言えないんだとか……間違えた方向に気を回すからな」
「ごめんなさい」
頭を下げると、彼は私をぎゅっと抱き締めて、「もう謝らなくていい」と言った。理解を示してくれる彼に胸がじんわりと熱くなっていく。
「椿。仕事優先でいいから、男は俺だけを見てろよ。大切に愛してやるから」
「良平さん……」
「これからは変な勘違いなんてする暇もないくらい言葉にして伝えるよ。だから、椿も言葉にしてくれ。俺のこと、仕事の次くらいには好きなんだろ?」
声音も眼差しも優しげなのに、とても熱い。男の欲望を孕んだ熱い眼差しに――私はもう逃げられないことを悟って、小さく頷いた。
「椿、ダメだ。言葉にしろって言っただろ。ほら、ちゃんと言ってくれ」
「っ! は、はい。……私も、私も良平さんが好きです。仕事ばかりの至らない私ですが……よろしくお願いします」
「おう」
嬉しそうに笑いながら力強く抱き締めてくれる彼に、私のオーバーワークに愛想を尽かされるまでは側にいようと心に決めて、私も彼の背中に手を回して抱きついた。
ずっと憧れていた人に好いてもらえるなんて夢みたい。それに今朝まではどうやって許してもらおうと、そればかりを考えていたから……。またしても目まぐるしい展開に、少々混乱気味でもある。
恋愛に慣れていないから戸惑っちゃうのよね。彼の側で慣れていけば、動揺したり戸惑ったりしてキャパオーバーを起こさないかしら……
2
ちらちらと時計を盗み見ると、十七時を指していた。
まだ十七時……
今日は時間が経つのが遅い気がするのは気のせいかしら。いつもは気がつくと定時を過ぎているのに……
そう思いながら、ふぅと息をつく。
良平さんは部長だし、定時になったからといってすぐに終了というわけにはいかないわよね。研究所の皆だって、いつも定時を少し過ぎてから帰るもの……
「……はぁ」
露骨な溜息が漏れる。そのうち、溜息に溺れてしまいそうだ。
私、本当にどうしちゃったのかしら。
会議室での話し合いは仕事中ということもあり早々に切り上げて、終業後にデートをすることになった。
そう、デート。良平さんとデート……
心の中で反芻すると、そわそわと落ち着かない。彼は今朝は仕事中でちゃんと話せないから仕事後に話そうという意味で誘ってくれたのに……。分かっているのに、心が浮き立ってしまう。
私は机の上に突っ伏しながら、また溜息をついた。自分で自分がよく分からない。彼に謝るまでの自分と今の自分の心境の変化の大きさにも、正直戸惑いを覚えている。
彼は仕事を優先していいと理解を示してくれた。今日のデートだって、私がきりのいいところまでやってからでいいと許してくれている。そんなふうに何時まででも待つよ、と言ってくれているのに……
それなのに、それなのに……楽しみすぎて何も手につかないとかダメすぎるでしょう、私。
「……それだけ楽しみってことなのよね」
独り言ちながらマウスに触れ、研究開発中の新規有効成分のデータを開いて、ぼーっと眺めた。
いつもなら、必死になって向き合っているはずなのに何も頭に入ってこない。
「珍しいですね」
「えっ?」
頬杖をついて、パソコンの画面を目的もなく見つめている私に、狭山さんが微笑みかける。
「ほら。羽無瀬さんって、いつも黙々と仕事に励んでいるじゃないですか。なのに、今日はずっと心ここにあらずだったから、とても珍しくて……。皆で、どうしたんだろうって気にしていたんですよ」
「あ……。ごめんなさい。仕事を疎かにするつもりじゃなかったんです……」
「違いますよ~。責めているわけじゃないんです」
慌てて頭を下げようとすると、彼女は笑いながら私を制止した。
「最初は体調が悪いのかなと思ったんですけど、見ていたらなんだかそわそわもしていたし……。このあと、何か楽しみなことがあるのかなって思ったんです」
狭山さん、すごい……
言ってもいないのに私の気持ちを分かっている彼女に、驚いて目を見張る。
「狭山さんって、人の心の機微を読むのに長けている方なんですね。とてもすごいです」
「やだぁ。ただ単に羽無瀬さんが分かりやすいだけですよ」
私の肩を軽く叩きながらクスクスと笑う彼女に少し驚いて、私は目を瞬かせた。
私って分かりやすいのかしら?
「それで? 今日はデートですか?」
「えっ? えっと……」
「あ! 当たりました? ふふっ、やっぱりそうだと思ったんですよね~」
「あ、あの……。えっと……」
的確に当てられて慌てている私とは対照的に彼女はとても嬉しそうだ。
「ふふっ、なんだか嬉しいです。研究バカの羽無瀬さんにもようやく春が来たんですね。よし! そうと決まれば急ぎましょう!」
「えっ? 何を?」
何を急ぐの?
彼女は意気揚々と立ち上がり、困惑している私を引きずりながら楽しそうに研究室を出た。
一体何を急がなきゃならないのかしら? 一応、まだ就業時間中なのだけれど……
***
「ほ、本当にこれで大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。めちゃくちゃ可愛いから自信を持ってください!」
「で、でも……」
「明日、いい報告待ってますね。ほら、いってらっしゃい!」
可愛い? 本当に?
まごついている私の背中をドンと押す狭山さんに縋るような視線を向けると、背中をまた押された。
「もう定時を三十分も過ぎてるんですよ。遅れちゃいますよ!」
そ、それは狭山さんがメイクとヘアセットをすると言って放してくれなかったからじゃ……
そう思いつつ、押し出されるままに研究所を出て、通りを隔てた斜向かいに建っている本社ビルへと向かう。
うう……。なんだか落ち着かないわ。本当に変じゃないかしら……
普段おしゃれとは無縁なせいか、どうも落ち着かない。その気持ちをぐっと抑えつつ道を渡ろうとすると、向かいから男性が駆け寄ってくる。
あ、良平さんだわ!
「椿!」
「杉原部長、お疲れ様です」
ぺこりと会釈をすると、目の前に来た良平さんが呆れた視線を向けてくる。
「就業時間後は恋人同士なんだから、名前で呼べよ」
だ、だって……。まだ会社の前だから……
「ごめんなさい、良平さん」
でも言い返すのも違う気がして、素直に彼の名前を呼ぶ。すると、彼は満足げに私の頭を撫でた。
「ん、いい子だ」
良平さん……
とくんと鼓動を刻む胸元を押さえながら彼を見つめると、彼は私を上から下までジッと見つめた。その視線が落ち着かなくて、俯きモジモジとスカートを掴む。
「つーか、今日の椿可愛いな。いや、いつも可愛いんだが、より一層可愛い。もしかして、俺とのデートのためにめかし込んでくれたのか?」
少し赤らむ頬を隠すように片手で口元を覆いながら、「うわー、ヤバい」と上擦った声を出す彼に、さっきよりも大きく胸が跳ねた。
気に入ってくれたのかしら?
頬を赤らめながら、彼をおずおずと見つめる。
「は、はい。狭山さんがメイクとヘアセットをしてくれたんです……」
なんでも女性らしいハーフアップとゆるふわは相性がバツグンらしく、彼女は「彼氏さんも普段とのギャップにドキドキすること間違いなしですよ」とか言っていた。だから髪型に合わせて、色みが気に入っている水色のボウタイブラウスと、トップスと同じトーンの花柄のロングスカートに着替えたのだ。可愛くちょうちょ結びにしてもらったブラウスのリボンの先端を触りながら、もじもじと照れ笑いをする。
狭山さんはバッチリと言ってくれたけれど、良平さんはどうかしら? 今、可愛いと言ってくれたということは気に入ってくれたってこと?
不安げに見つめると、彼は嬉しそうに笑った。
「狭山さん、よく分かってるな。椿のよさがすごく引き出されている」
その無邪気な笑顔と嬉しそうな声に、私もパァッと心が明るくなって、はにかむように笑う。
よかった……。狭山さん、ありがとう。
「本当に綺麗だ。黒真珠のような艶のある美しい髪に、ゆるいウェーブがプラスされると感動ものだな。それにメイクのせいか、いつもより透明感があって凛と輝く瞳がとてもよく引き立っているよ」
「え? 良平さん?」
彼は熱のこもった瞳で私を見つめながら、私の毛先に指を絡ませる。そしてそのまま、絡ませた髪にちゅっとキスを落とした。
「君は本当に尤物だな。大好きだ」
ゆ、尤物って……すごい美しいってこと……? さ、さすがにそれは言いすぎなんじゃないかしら……
というより褒められすぎて恥ずかしい。私は火照った頬を両手で押さえながら抗議した。
「言いすぎです」
「言いすぎなもんか。椿は美しさと可愛らしさを兼ね備えている。以前から可愛らしい子だなとは思っていたが、一層強くそう思うよ」
そう言って私の手を握り指を絡ませる。そのまま私の目を見つめながら、その手を持ち上げて見せつけるように手の甲にキスをしてくる彼に、私の頭も心もパンク寸前だった。
「~~~っ! りょ、良平さん! ここ、会社! 会社の前です!」
「ん? 俺は誰に見られても構わないが……」
なんでもないような顔をして、私の手を握ったまま本社ビル敷地内の駐車場に向かう彼に、私は真っ赤になった顔を上げられなかった。
お付き合いを始めたことを隠すつもりはないが、堂々とイチャイチャできるかといえば別問題だと思う。
「あ、これ俺の車。ほら、乗って」
「は、はい」
やっと駐車場……
なんだかいつもより遠く感じたのは恥ずかしさのせいだろうか。
ふぅと小さく息をつき、駐車場に着いた安堵から胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます」
彼が助手席側のドアを開けてくれたので、お礼を言って乗り込むと、彼は私の額にキスをしてから車のドアを閉めた。
「なぁ、椿。今日は俺の部屋に行って仕切り直さないか? 手料理をご馳走するよ」
彼は鼻歌混じりにそんなことを言いながら楽しそうに車に乗り込む。どうやら今のキスで動揺しているのは私だけみたいだ。
「俺、こう見えて結構料理するんだよ。もしよかったら食べに来ないか?」
「え? 良平さんの手料理?」
「この前だって、本当なら風呂入ったあとに振る舞うつもりだったんだ。だから、俺としては仕切り直したいんだが、どうだ? 椿が嫌でなければ家に来ないか?」
良平さんの手料理、めちゃくちゃ食べたい!
「ぜひ! ぜひ、食べたいです!」
少し拗ねたように言う彼にこくこくと頷くと、良平さんが嬉しそうに笑って私の手を握る。
「じゃあ、決まりな」
「はい!」
嬉しい……!
こんなにも幸せでいいんだろうかと思いながら、私は運転している彼の横顔をふわふわした心持ちで見つめた。
***
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼のマンションに着き、玄関のドアを開けてくれる彼に頭を下げながら、おそるおそる一歩足を踏み入れる。
「お邪魔します」
この前は必死で逃げ出した場所に、次は望んで足を踏み入れるって少し変な感じ……
落ち着かない胸を抑えながらキョロキョロと視線を動かすと、玄関からリビングへ伸びる廊下の途中にある寝室のドアが目に入って、心臓がどきりと跳ねた。
あ、私……。あの日、あの部屋から逃げたのよね……
寝室のドアを見た瞬間、あの時の申し訳ない気持ちが怒涛のように押し寄せてきて動けなくなってしまう。
「椿」
私を呼ぶ声が聞こえたのと同時に、寝室のドアを見つめている私を閉じ込めるように壁にトンッと良平さんの手が置かれた。すぐ間近に彼の体温を感じて顔を上げる。
「良平さん……?」
戸惑いがちに少し振り向いて彼の顔を見上げると、彼の唇がそっと耳に触れた。
「そこはあとでな。それとも、食事の前にデザートが欲しいのか? 椿はいやらしいな」
色を含む声音に、彼が言わんとしていることが分かって、みるみるうちに顔に熱が集まってくる。
デザート、デザートって……
顔を真っ赤にしたまま、口をパクパクさせると、彼はプッと噴き出して「冗談だ、冗談」と私の頭をポンポンと軽く叩いた。
「揶揄うなんてひどいです」
「そうか? 椿が可愛い顔で寝室を見つめているのが悪いんだろ」
「わ、私は、ただ……一昨日のことを悪かったなと考えていただけで……」
真っ赤な顔で言い訳をすると、彼はくつくつと笑って、「はいはい」とリビングへ入っていく。
うう……
彼をじっとりとした目で睨みながらついていくと、彼は私にリビングのソファーに座るように促してから、リビングダイニングと続きになっているキッチンに入っていった。
「コーヒーと紅茶があるんだが、椿はどっちが好きだ?」
「あ、どちらでも。良平さんと同じのでいいです」
「そうじゃなくて、ちゃんと教えてくれ。椿の好きなものをこれから知っていきたいんだ」
「え? はい……どちらも好きですが、紅茶のほうが好きです」
私の返事に彼は嬉しそうに笑う。その笑顔を見て、胸の奥がじんわりと熱を持ち、むず痒く感じて私はそっと胸元を押さえた。
なんだかくすぐったい……
私のことを知ろうとしてくれる彼の想いや気遣いは嬉しいけれど、少しそわそわしてしまう。
でも、こういうことの積み重ねが付き合うということなのかしら……? 本当に彼と恋人になれたんだなぁと実感して、私は熱くなった頬を両手で押さえた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
良平さんが紅茶をローテーブルに置いてくれる。砂糖とミルクも一緒にあったので、その気遣いにお礼を言おうとした瞬間、キスをされた。
「えっ?」
「椿は可愛いな」
突然重なった彼の唇に驚いている私を見て楽しそうに笑いながら、彼はまた私の唇に自分の唇を重ねた。そして、唇の合わせ目を舌先でなぞられる。その動きに応えるように薄く唇を開けば、彼の舌が入り込んできて、反射的に目を瞑った。
「んっ……ふ、っぅ」
後頭部に手を添えられ、舌を絡めて強く吸われると、体の熱が一気に上がった。
強く求めるようなキスなのに、どこか甘みを帯びていて、その甘みが頭の中にじんわりと広がって思考能力を奪っていく……
「……っぁ」
「可愛い。この前も思ったけど、椿ってキスするとすぐにとろけた顔になって、たまらないんだよな」
唇を少し離して囁かれると、吐息が唇を掠める。その熱い息に、下腹部がズクリと疼いたような気がして、私は羞恥心から逃れるように彼の胸に顔をうずめた。すると、彼はまた「可愛い」と言って笑う。そして次は頭上にキスが落ちてきた。
「いい子で待ってろ。すぐ作るから」
「は、はい……」
私の頭を撫でる手は優しいのに、「待ってろ」と言う声が掠れていて、妙に色っぽい。そのせいか、彼の目が見られなくて、彼の胸にうずめたまま小さく頷いた。
彼はそんな私をふっと笑って、スーツのジャケットを脱ぎ革張りのソファーの背もたれにかけた。そして、もう一度頭を撫でてから立ち上がる。
良平さん……
彼の体温が離れていくのを感じて、ゆっくりと顔を上げると、彼は胸元を寛げながら鼻歌混じりにキッチンに入っていくところだった。
その姿を確認して、大きく息を吐いてから、鼻からゆっくりと肺いっぱいに息を吸い込み、ソファーに体を沈める。
「……ふぅ」
深呼吸をして少し冷静になると、リビングを見る余裕が生まれてきて、私は部屋の中をぐるりと見回した。
広くて、彼のセンスのよさが窺える落ち着いた空間に思わず賛辞の言葉が漏れる。
「とても居心地がよさそうな素敵なリビングですね」
専門書や論文が床に平積みになっている私の部屋とは大違いだわ。
壁についている大きなテレビとそれに合わせた壁面のテレビボード。落ち着いた木のぬくもりが感じられるローテーブル。そのすべてがシンプルな装いの中にラグジュアリーな機能美を兼ね備えていて、とても心地よい贅沢な空間を作り出していた。シックでキラキラしていて、まるで雑誌で紹介されているインテリアデザインをそのまま切り取ったかのように美しく整えられている。
「良平さん。とても綺麗にされているんですね。私、一人暮らしの男性の部屋はもう少し散らかっているものだと思っていました」
声をかけた時、本棚に立てられた化粧品の成分辞典や成分検定のテキストが目に入った。そして次にデザイン性と耐久性に優れたクオーツストーンのダイニングテーブルに視線を移す。
あのテーブルで食事をしたり、勉強をしたりしているのかしら?
帰宅後、家で過ごしている彼を想像するだけで、少しドキドキした。
「ん? そうか? 俺も椿までとはいかないが、仕事中心の生活だからな。寝に帰るだけの家だと、そんなに散らからないもんだ」
「いえ、そんなことないですよ。私の部屋なんて、この素晴らしい部屋と比べると倉庫のようなものですから」
私の言葉を聞いた良平さんがプハッと噴き出す。
「倉庫ってなんだよ、倉庫って……っく、ふっ、ふはっ」
「そ、そんなに笑わないでください」
倉庫は言いすぎだったかもしれない。でもよく言って資料室かしら?
自宅の部屋はお手伝いの生嶋さんが定期的に片づけてくれるからまだマシなのだが、研究所の上の部屋は本当にひどい。本棚に入りきらない本や論文で足の踏み場もない。とてもじゃないが女性らしい部屋とは無縁だ。
「じゃあ、いつかはその倉庫みたいな部屋、見せてくれよな」
「……その時までには、ちゃんと片づけておきます」
きまりが悪そうな表情でそう答えると、彼は「残念」と笑う。
いや、本当に。見せられたものではないので、あとでちゃんと片づけたいと思う。目指せ、女性らしい部屋だ! 私は心の中でそう決意した。
「まあでも、この部屋を気に入ってくれたんなら嬉しいよ。これからはここでたくさん一緒に過ごそうな」
「は、はい……」
これから、ここでたくさん……
さりげなく二人のこれからを意識させる言葉が彼から飛び出して、心臓が跳ねた。
なんだか胸の奥がほんのりと温かい。当たり前のように一緒に過ごす未来を思い描いてもらえて、照れくさいけれど嬉しい。
彼は頬を赤らめ俯く私を見て目を細めて笑う。そして食事の支度を再開した。
素敵……
その姿がとてもかっこよくて、思わず目が奪われる。
ああ。私、良平さんのことすごく好きかも……
一度想いを受け止めてもらえると、もう止まらない。私は胸元を押さえながら、料理をしている彼の姿を見つめた。
「良平さん、何か手伝えることはありますか?」
と言っても、私は料理ができないので、食器を出すとか、そういう簡単なお手伝いしかできないのだけれど……
ソファーから腰を浮かし、そう問いかけると、良平さんは動かしている手は止めずに顔だけを上げた。
「うーん。手伝いは別にいいんだけど、お願いならあるかな」
「はい! なんですか? なんでも言ってください」
「一緒に風呂に入ってほしい」
「え……?」
お風呂……? 一緒にお風呂……?
私は意気揚々とソファーから立ち上がったまま、予測のしていなかった言葉に一瞬理解が追いつかなかった。硬直している私を見た彼が困ったように笑う。
「ほら。この前、一緒に入れなかっただろ? だから、入りたいなって。ダメか?」
「えっと……」
どうしよう。でもここは変に誤魔化すよりは素直に自分の気持ちを言ったほうがいいのかしら?
そう思った私は小さく頭を下げた。
「そんな顔するなよ。ちゃんと分かってるから」
「ですが……」
「散々好き放題言われて戸惑う気持ちは分かるが、何も今すぐ結婚しようと言っているわけじゃない。婿入りは俺の覚悟だと思って頭の隅にでも置いといてくれればいい。椿ははっきり言葉にしておかないと、勝手に俺が後悔しているとか優しいから嫌だと言えないんだとか……間違えた方向に気を回すからな」
「ごめんなさい」
頭を下げると、彼は私をぎゅっと抱き締めて、「もう謝らなくていい」と言った。理解を示してくれる彼に胸がじんわりと熱くなっていく。
「椿。仕事優先でいいから、男は俺だけを見てろよ。大切に愛してやるから」
「良平さん……」
「これからは変な勘違いなんてする暇もないくらい言葉にして伝えるよ。だから、椿も言葉にしてくれ。俺のこと、仕事の次くらいには好きなんだろ?」
声音も眼差しも優しげなのに、とても熱い。男の欲望を孕んだ熱い眼差しに――私はもう逃げられないことを悟って、小さく頷いた。
「椿、ダメだ。言葉にしろって言っただろ。ほら、ちゃんと言ってくれ」
「っ! は、はい。……私も、私も良平さんが好きです。仕事ばかりの至らない私ですが……よろしくお願いします」
「おう」
嬉しそうに笑いながら力強く抱き締めてくれる彼に、私のオーバーワークに愛想を尽かされるまでは側にいようと心に決めて、私も彼の背中に手を回して抱きついた。
ずっと憧れていた人に好いてもらえるなんて夢みたい。それに今朝まではどうやって許してもらおうと、そればかりを考えていたから……。またしても目まぐるしい展開に、少々混乱気味でもある。
恋愛に慣れていないから戸惑っちゃうのよね。彼の側で慣れていけば、動揺したり戸惑ったりしてキャパオーバーを起こさないかしら……
2
ちらちらと時計を盗み見ると、十七時を指していた。
まだ十七時……
今日は時間が経つのが遅い気がするのは気のせいかしら。いつもは気がつくと定時を過ぎているのに……
そう思いながら、ふぅと息をつく。
良平さんは部長だし、定時になったからといってすぐに終了というわけにはいかないわよね。研究所の皆だって、いつも定時を少し過ぎてから帰るもの……
「……はぁ」
露骨な溜息が漏れる。そのうち、溜息に溺れてしまいそうだ。
私、本当にどうしちゃったのかしら。
会議室での話し合いは仕事中ということもあり早々に切り上げて、終業後にデートをすることになった。
そう、デート。良平さんとデート……
心の中で反芻すると、そわそわと落ち着かない。彼は今朝は仕事中でちゃんと話せないから仕事後に話そうという意味で誘ってくれたのに……。分かっているのに、心が浮き立ってしまう。
私は机の上に突っ伏しながら、また溜息をついた。自分で自分がよく分からない。彼に謝るまでの自分と今の自分の心境の変化の大きさにも、正直戸惑いを覚えている。
彼は仕事を優先していいと理解を示してくれた。今日のデートだって、私がきりのいいところまでやってからでいいと許してくれている。そんなふうに何時まででも待つよ、と言ってくれているのに……
それなのに、それなのに……楽しみすぎて何も手につかないとかダメすぎるでしょう、私。
「……それだけ楽しみってことなのよね」
独り言ちながらマウスに触れ、研究開発中の新規有効成分のデータを開いて、ぼーっと眺めた。
いつもなら、必死になって向き合っているはずなのに何も頭に入ってこない。
「珍しいですね」
「えっ?」
頬杖をついて、パソコンの画面を目的もなく見つめている私に、狭山さんが微笑みかける。
「ほら。羽無瀬さんって、いつも黙々と仕事に励んでいるじゃないですか。なのに、今日はずっと心ここにあらずだったから、とても珍しくて……。皆で、どうしたんだろうって気にしていたんですよ」
「あ……。ごめんなさい。仕事を疎かにするつもりじゃなかったんです……」
「違いますよ~。責めているわけじゃないんです」
慌てて頭を下げようとすると、彼女は笑いながら私を制止した。
「最初は体調が悪いのかなと思ったんですけど、見ていたらなんだかそわそわもしていたし……。このあと、何か楽しみなことがあるのかなって思ったんです」
狭山さん、すごい……
言ってもいないのに私の気持ちを分かっている彼女に、驚いて目を見張る。
「狭山さんって、人の心の機微を読むのに長けている方なんですね。とてもすごいです」
「やだぁ。ただ単に羽無瀬さんが分かりやすいだけですよ」
私の肩を軽く叩きながらクスクスと笑う彼女に少し驚いて、私は目を瞬かせた。
私って分かりやすいのかしら?
「それで? 今日はデートですか?」
「えっ? えっと……」
「あ! 当たりました? ふふっ、やっぱりそうだと思ったんですよね~」
「あ、あの……。えっと……」
的確に当てられて慌てている私とは対照的に彼女はとても嬉しそうだ。
「ふふっ、なんだか嬉しいです。研究バカの羽無瀬さんにもようやく春が来たんですね。よし! そうと決まれば急ぎましょう!」
「えっ? 何を?」
何を急ぐの?
彼女は意気揚々と立ち上がり、困惑している私を引きずりながら楽しそうに研究室を出た。
一体何を急がなきゃならないのかしら? 一応、まだ就業時間中なのだけれど……
***
「ほ、本当にこれで大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。めちゃくちゃ可愛いから自信を持ってください!」
「で、でも……」
「明日、いい報告待ってますね。ほら、いってらっしゃい!」
可愛い? 本当に?
まごついている私の背中をドンと押す狭山さんに縋るような視線を向けると、背中をまた押された。
「もう定時を三十分も過ぎてるんですよ。遅れちゃいますよ!」
そ、それは狭山さんがメイクとヘアセットをすると言って放してくれなかったからじゃ……
そう思いつつ、押し出されるままに研究所を出て、通りを隔てた斜向かいに建っている本社ビルへと向かう。
うう……。なんだか落ち着かないわ。本当に変じゃないかしら……
普段おしゃれとは無縁なせいか、どうも落ち着かない。その気持ちをぐっと抑えつつ道を渡ろうとすると、向かいから男性が駆け寄ってくる。
あ、良平さんだわ!
「椿!」
「杉原部長、お疲れ様です」
ぺこりと会釈をすると、目の前に来た良平さんが呆れた視線を向けてくる。
「就業時間後は恋人同士なんだから、名前で呼べよ」
だ、だって……。まだ会社の前だから……
「ごめんなさい、良平さん」
でも言い返すのも違う気がして、素直に彼の名前を呼ぶ。すると、彼は満足げに私の頭を撫でた。
「ん、いい子だ」
良平さん……
とくんと鼓動を刻む胸元を押さえながら彼を見つめると、彼は私を上から下までジッと見つめた。その視線が落ち着かなくて、俯きモジモジとスカートを掴む。
「つーか、今日の椿可愛いな。いや、いつも可愛いんだが、より一層可愛い。もしかして、俺とのデートのためにめかし込んでくれたのか?」
少し赤らむ頬を隠すように片手で口元を覆いながら、「うわー、ヤバい」と上擦った声を出す彼に、さっきよりも大きく胸が跳ねた。
気に入ってくれたのかしら?
頬を赤らめながら、彼をおずおずと見つめる。
「は、はい。狭山さんがメイクとヘアセットをしてくれたんです……」
なんでも女性らしいハーフアップとゆるふわは相性がバツグンらしく、彼女は「彼氏さんも普段とのギャップにドキドキすること間違いなしですよ」とか言っていた。だから髪型に合わせて、色みが気に入っている水色のボウタイブラウスと、トップスと同じトーンの花柄のロングスカートに着替えたのだ。可愛くちょうちょ結びにしてもらったブラウスのリボンの先端を触りながら、もじもじと照れ笑いをする。
狭山さんはバッチリと言ってくれたけれど、良平さんはどうかしら? 今、可愛いと言ってくれたということは気に入ってくれたってこと?
不安げに見つめると、彼は嬉しそうに笑った。
「狭山さん、よく分かってるな。椿のよさがすごく引き出されている」
その無邪気な笑顔と嬉しそうな声に、私もパァッと心が明るくなって、はにかむように笑う。
よかった……。狭山さん、ありがとう。
「本当に綺麗だ。黒真珠のような艶のある美しい髪に、ゆるいウェーブがプラスされると感動ものだな。それにメイクのせいか、いつもより透明感があって凛と輝く瞳がとてもよく引き立っているよ」
「え? 良平さん?」
彼は熱のこもった瞳で私を見つめながら、私の毛先に指を絡ませる。そしてそのまま、絡ませた髪にちゅっとキスを落とした。
「君は本当に尤物だな。大好きだ」
ゆ、尤物って……すごい美しいってこと……? さ、さすがにそれは言いすぎなんじゃないかしら……
というより褒められすぎて恥ずかしい。私は火照った頬を両手で押さえながら抗議した。
「言いすぎです」
「言いすぎなもんか。椿は美しさと可愛らしさを兼ね備えている。以前から可愛らしい子だなとは思っていたが、一層強くそう思うよ」
そう言って私の手を握り指を絡ませる。そのまま私の目を見つめながら、その手を持ち上げて見せつけるように手の甲にキスをしてくる彼に、私の頭も心もパンク寸前だった。
「~~~っ! りょ、良平さん! ここ、会社! 会社の前です!」
「ん? 俺は誰に見られても構わないが……」
なんでもないような顔をして、私の手を握ったまま本社ビル敷地内の駐車場に向かう彼に、私は真っ赤になった顔を上げられなかった。
お付き合いを始めたことを隠すつもりはないが、堂々とイチャイチャできるかといえば別問題だと思う。
「あ、これ俺の車。ほら、乗って」
「は、はい」
やっと駐車場……
なんだかいつもより遠く感じたのは恥ずかしさのせいだろうか。
ふぅと小さく息をつき、駐車場に着いた安堵から胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます」
彼が助手席側のドアを開けてくれたので、お礼を言って乗り込むと、彼は私の額にキスをしてから車のドアを閉めた。
「なぁ、椿。今日は俺の部屋に行って仕切り直さないか? 手料理をご馳走するよ」
彼は鼻歌混じりにそんなことを言いながら楽しそうに車に乗り込む。どうやら今のキスで動揺しているのは私だけみたいだ。
「俺、こう見えて結構料理するんだよ。もしよかったら食べに来ないか?」
「え? 良平さんの手料理?」
「この前だって、本当なら風呂入ったあとに振る舞うつもりだったんだ。だから、俺としては仕切り直したいんだが、どうだ? 椿が嫌でなければ家に来ないか?」
良平さんの手料理、めちゃくちゃ食べたい!
「ぜひ! ぜひ、食べたいです!」
少し拗ねたように言う彼にこくこくと頷くと、良平さんが嬉しそうに笑って私の手を握る。
「じゃあ、決まりな」
「はい!」
嬉しい……!
こんなにも幸せでいいんだろうかと思いながら、私は運転している彼の横顔をふわふわした心持ちで見つめた。
***
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼のマンションに着き、玄関のドアを開けてくれる彼に頭を下げながら、おそるおそる一歩足を踏み入れる。
「お邪魔します」
この前は必死で逃げ出した場所に、次は望んで足を踏み入れるって少し変な感じ……
落ち着かない胸を抑えながらキョロキョロと視線を動かすと、玄関からリビングへ伸びる廊下の途中にある寝室のドアが目に入って、心臓がどきりと跳ねた。
あ、私……。あの日、あの部屋から逃げたのよね……
寝室のドアを見た瞬間、あの時の申し訳ない気持ちが怒涛のように押し寄せてきて動けなくなってしまう。
「椿」
私を呼ぶ声が聞こえたのと同時に、寝室のドアを見つめている私を閉じ込めるように壁にトンッと良平さんの手が置かれた。すぐ間近に彼の体温を感じて顔を上げる。
「良平さん……?」
戸惑いがちに少し振り向いて彼の顔を見上げると、彼の唇がそっと耳に触れた。
「そこはあとでな。それとも、食事の前にデザートが欲しいのか? 椿はいやらしいな」
色を含む声音に、彼が言わんとしていることが分かって、みるみるうちに顔に熱が集まってくる。
デザート、デザートって……
顔を真っ赤にしたまま、口をパクパクさせると、彼はプッと噴き出して「冗談だ、冗談」と私の頭をポンポンと軽く叩いた。
「揶揄うなんてひどいです」
「そうか? 椿が可愛い顔で寝室を見つめているのが悪いんだろ」
「わ、私は、ただ……一昨日のことを悪かったなと考えていただけで……」
真っ赤な顔で言い訳をすると、彼はくつくつと笑って、「はいはい」とリビングへ入っていく。
うう……
彼をじっとりとした目で睨みながらついていくと、彼は私にリビングのソファーに座るように促してから、リビングダイニングと続きになっているキッチンに入っていった。
「コーヒーと紅茶があるんだが、椿はどっちが好きだ?」
「あ、どちらでも。良平さんと同じのでいいです」
「そうじゃなくて、ちゃんと教えてくれ。椿の好きなものをこれから知っていきたいんだ」
「え? はい……どちらも好きですが、紅茶のほうが好きです」
私の返事に彼は嬉しそうに笑う。その笑顔を見て、胸の奥がじんわりと熱を持ち、むず痒く感じて私はそっと胸元を押さえた。
なんだかくすぐったい……
私のことを知ろうとしてくれる彼の想いや気遣いは嬉しいけれど、少しそわそわしてしまう。
でも、こういうことの積み重ねが付き合うということなのかしら……? 本当に彼と恋人になれたんだなぁと実感して、私は熱くなった頬を両手で押さえた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
良平さんが紅茶をローテーブルに置いてくれる。砂糖とミルクも一緒にあったので、その気遣いにお礼を言おうとした瞬間、キスをされた。
「えっ?」
「椿は可愛いな」
突然重なった彼の唇に驚いている私を見て楽しそうに笑いながら、彼はまた私の唇に自分の唇を重ねた。そして、唇の合わせ目を舌先でなぞられる。その動きに応えるように薄く唇を開けば、彼の舌が入り込んできて、反射的に目を瞑った。
「んっ……ふ、っぅ」
後頭部に手を添えられ、舌を絡めて強く吸われると、体の熱が一気に上がった。
強く求めるようなキスなのに、どこか甘みを帯びていて、その甘みが頭の中にじんわりと広がって思考能力を奪っていく……
「……っぁ」
「可愛い。この前も思ったけど、椿ってキスするとすぐにとろけた顔になって、たまらないんだよな」
唇を少し離して囁かれると、吐息が唇を掠める。その熱い息に、下腹部がズクリと疼いたような気がして、私は羞恥心から逃れるように彼の胸に顔をうずめた。すると、彼はまた「可愛い」と言って笑う。そして次は頭上にキスが落ちてきた。
「いい子で待ってろ。すぐ作るから」
「は、はい……」
私の頭を撫でる手は優しいのに、「待ってろ」と言う声が掠れていて、妙に色っぽい。そのせいか、彼の目が見られなくて、彼の胸にうずめたまま小さく頷いた。
彼はそんな私をふっと笑って、スーツのジャケットを脱ぎ革張りのソファーの背もたれにかけた。そして、もう一度頭を撫でてから立ち上がる。
良平さん……
彼の体温が離れていくのを感じて、ゆっくりと顔を上げると、彼は胸元を寛げながら鼻歌混じりにキッチンに入っていくところだった。
その姿を確認して、大きく息を吐いてから、鼻からゆっくりと肺いっぱいに息を吸い込み、ソファーに体を沈める。
「……ふぅ」
深呼吸をして少し冷静になると、リビングを見る余裕が生まれてきて、私は部屋の中をぐるりと見回した。
広くて、彼のセンスのよさが窺える落ち着いた空間に思わず賛辞の言葉が漏れる。
「とても居心地がよさそうな素敵なリビングですね」
専門書や論文が床に平積みになっている私の部屋とは大違いだわ。
壁についている大きなテレビとそれに合わせた壁面のテレビボード。落ち着いた木のぬくもりが感じられるローテーブル。そのすべてがシンプルな装いの中にラグジュアリーな機能美を兼ね備えていて、とても心地よい贅沢な空間を作り出していた。シックでキラキラしていて、まるで雑誌で紹介されているインテリアデザインをそのまま切り取ったかのように美しく整えられている。
「良平さん。とても綺麗にされているんですね。私、一人暮らしの男性の部屋はもう少し散らかっているものだと思っていました」
声をかけた時、本棚に立てられた化粧品の成分辞典や成分検定のテキストが目に入った。そして次にデザイン性と耐久性に優れたクオーツストーンのダイニングテーブルに視線を移す。
あのテーブルで食事をしたり、勉強をしたりしているのかしら?
帰宅後、家で過ごしている彼を想像するだけで、少しドキドキした。
「ん? そうか? 俺も椿までとはいかないが、仕事中心の生活だからな。寝に帰るだけの家だと、そんなに散らからないもんだ」
「いえ、そんなことないですよ。私の部屋なんて、この素晴らしい部屋と比べると倉庫のようなものですから」
私の言葉を聞いた良平さんがプハッと噴き出す。
「倉庫ってなんだよ、倉庫って……っく、ふっ、ふはっ」
「そ、そんなに笑わないでください」
倉庫は言いすぎだったかもしれない。でもよく言って資料室かしら?
自宅の部屋はお手伝いの生嶋さんが定期的に片づけてくれるからまだマシなのだが、研究所の上の部屋は本当にひどい。本棚に入りきらない本や論文で足の踏み場もない。とてもじゃないが女性らしい部屋とは無縁だ。
「じゃあ、いつかはその倉庫みたいな部屋、見せてくれよな」
「……その時までには、ちゃんと片づけておきます」
きまりが悪そうな表情でそう答えると、彼は「残念」と笑う。
いや、本当に。見せられたものではないので、あとでちゃんと片づけたいと思う。目指せ、女性らしい部屋だ! 私は心の中でそう決意した。
「まあでも、この部屋を気に入ってくれたんなら嬉しいよ。これからはここでたくさん一緒に過ごそうな」
「は、はい……」
これから、ここでたくさん……
さりげなく二人のこれからを意識させる言葉が彼から飛び出して、心臓が跳ねた。
なんだか胸の奥がほんのりと温かい。当たり前のように一緒に過ごす未来を思い描いてもらえて、照れくさいけれど嬉しい。
彼は頬を赤らめ俯く私を見て目を細めて笑う。そして食事の支度を再開した。
素敵……
その姿がとてもかっこよくて、思わず目が奪われる。
ああ。私、良平さんのことすごく好きかも……
一度想いを受け止めてもらえると、もう止まらない。私は胸元を押さえながら、料理をしている彼の姿を見つめた。
「良平さん、何か手伝えることはありますか?」
と言っても、私は料理ができないので、食器を出すとか、そういう簡単なお手伝いしかできないのだけれど……
ソファーから腰を浮かし、そう問いかけると、良平さんは動かしている手は止めずに顔だけを上げた。
「うーん。手伝いは別にいいんだけど、お願いならあるかな」
「はい! なんですか? なんでも言ってください」
「一緒に風呂に入ってほしい」
「え……?」
お風呂……? 一緒にお風呂……?
私は意気揚々とソファーから立ち上がったまま、予測のしていなかった言葉に一瞬理解が追いつかなかった。硬直している私を見た彼が困ったように笑う。
「ほら。この前、一緒に入れなかっただろ? だから、入りたいなって。ダメか?」
「えっと……」
どうしよう。でもここは変に誤魔化すよりは素直に自分の気持ちを言ったほうがいいのかしら?
そう思った私は小さく頭を下げた。
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