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優しい人・第30話
しおりを挟む今までで、1番優しい笑顔―
突然、やってきて、いきなり傷つけて、なのに、世話になって、散々引っ掻き回した挙句、また、なんのことはなく、萌花を選んで突然去る、そんな自分に、こんなにも優しい笑顔をくれる滝。
優しい、優しい微笑み。
申し訳ない気持ちと、落胆する気持ちが入り混じる…
その微笑みは、限りなく優しく篤仁を
遠ざける―
今、自分の肉体は滝に接触する程に近く、両手は、その人の両手首を掴んでいるというのに……
触れているのに、触れられない…ジレンマ……
「志賀?離して?」
穏やかな滝の声。
篤仁はもう、手を離すしかなかった━━━
△
千佳史の手を離した志賀が下ろした両手をグーにして俯く。
「志賀。ありがとうな、ほんまに、色々。…お前、お父さん、殴ったんやって?そんなん、アカンよ……。でも、嬉しかったけど、俺の為に、って。…志賀のお父さん、志賀によう似てるな。メッチャ謝ってくれた。それに、ここに来た時も、ほんま…優しかってんで?」
志賀は下を向いたままだ。
「志賀?」
「………」
―頼む…ッ…もう、ちょっとやから、沈んどけッ…
志賀を欲する心…
心を曝けてしまいたい衝動…
最後に『抱いて』と言ってしまいそうな自分を…
全ての細胞を駆使して全力で押さえ込む……
中2の4月。
新1年生の入学式が終わり、オリエンテーションが済んですぐの頃だった。
「1年2組の志賀篤仁です!入部したいんですけど!」
デカい声で言って、文学部のドアをガラガラッと勢いよく開けた志賀。
射抜かれた―
でも、数分後、立ち上がった千佳史の制服のズボンを見て
「男ォ?!マジで?!うっわ、やられたー!!川本蘭奈やのに、何故に男ー?!」
と、コケやがった。
それなのに、俺だけどんどん…どんどん、気になって、気になって…。
それは恋だと気付き、苦しくて、倉本に打ち明け、もちろん、想いを告げることもなく、遠く離れ、大人になった。
だが、どんなに時が流れても、誰と出会い、体を重ね、長い時間を過ごしても、千佳史の心は志賀のものだった。
志賀一人のものだった。
消せずに来たのだ。
そして、突然、夢じゃないか?と思うほど唐突に訪れた至福の時。
長い一生からすれば、ほんの少しの間でも、千佳史にとっては永遠程長い時間だった……。
本当に本当に感謝している。
本当に本当に幸せだった。
志賀の母親のことも、伊川や今井のことも、そんなものは、志賀と過ごした宝石の日々の為だったと思えばヘでもない。
その思い出を、綺麗なままに置きたい。
―俺は、これからそれを抱いて行くんやから…。絶対…笑って……綺麗に、送る。
「結婚式、いつ?」
「それは…考えてへん…まだ」
俯いたままの志賀がボソッと答える。
「ちゃんと、もう1回プロポーズしたん?」
ハッとしたように、志賀が顔を上げる。
「あ…まだ、やったな…」
へっ…と笑う…片笑窪…
―男前……ほんまに、ええ顔。好き…志賀……大好き……
声に出ないように気を付けながら、心で噛みしめる。
「…どんなんや、もう」
面白くもないのに、少し大袈裟に笑えば、余計、寂しくなって失敗…。
「滝さん…」
泣きそうな、顔…。
―何で?笑っとけよ。止めて、そんな顔すんの……
「何?」
精一杯、声を張る。
「俺、滝さんの顔、メッチャ好き。項とか、背中とか…何か、メッチャ、ええ、って言うか、その…ほんま、アホかやけど、すごい…」
―も…止めて、ほんま………!
「………ハハ…オッサンか」
ペシ!と志賀のデコを叩く。
「あう…ッ…」
志賀が座り込む。
―え、え…?!そんなに強く…当たった?!
「ああ……つゥ……」
座り込んだ志賀の前に正座して、顔を覗き込む。
「志賀?ごめ・・どうしよう…そんなに強く叩いてなッ……」
いきなり、近づいた志賀の唇を、ギリで躱して俯いた。
「滝さん…ッ…お願いッ…1回だけ。最後、1回だけ、キス」
―止めて、お願い…ッ
志賀を躱した姿勢のまま、ブンブンと首を振る。
「お願いッ」
「やや」
―こっちがお願い…ッ…
「何で?」
……?!
思わず、顔を上げると、志賀の本物の思案顔。
―こいつ…ッ…ほんまに…志賀やねんからっ!!
「…は?え?お前、って…。え、何で、って当たり前やんか。もう、萌花さんがおるんやから、女の代わりは、要らんやん!」
「……女の…代わり……」
さっき思い切り、横に振った首を、今度は縦に首をコクコク振る。
「代わり…女の……女の、代わり……」
ブツブツと確認するように志賀が呟く。
そして、シィッと、歯の間を抜ける空気音を出しながら、首を何度か傾げる志賀。
「いや…そんな…そう……なん、かな……や、でも……女より、滝さんの方が、綺麗…っちゅーか……」
パシッ…
今度はもう少し強めに眉間にしっぺをお見舞いする。
「いたっ…なッ…」
「お ん な と く ら べ ん な…ッあ!」
あまりのタブー発言に、思わず、そっちにだけ気を取られ、顔を近づけて
文句を言ったら、すごい早業でキスされた。
「ふふ~ん」
触れるだけのほんの軽いキスだけど、成功させた志賀はどや顔。
足が震える。
座ってて良かった…
立ってたら、腰砕けになってた。
志賀は、余裕だ…
自分だけ、必死……
―何やねん、アホッ…ふざけんなよ…!こんなキスでも、俺は……俺にとっては、愛する男からのキスねんやッ……
「すいません…ごめん、滝さん?」
「……」
「ごめん…怒った?…ごめん…ごめんな?ごめんなさい!怒らんといて…」
「……許してほしかったら、川柳考えろ、一句でええから」
「ぇええ?!川柳?!…それは…無理ですわ」
苦し紛れに言っただけ。
でも、口に出したら、どうしても志賀に川柳を詠んで欲しくなった。
「無理ちゃう。何でもええねん、5・7・5の言葉、当てはめるだけやから。な、考えて?」
「え、だって、俺、文学部におる時でさえ、一句も詠んでないんですよ?無理やわ」
「さあ早く 詠んでみなさい 川柳を。これでもう出来た!」
「なんやそれ。情緒もクソもないやん。…キスさせてくれたら、詠む」
「そんなんアカン」
「今度。今度会う時までに、考えときます」
「今度はないやん」
「……」
自分で言って打ちのめされる……
「ない?」
「なぃ……」
「今日が…最後?」
「最後」
頑張ってニッコリと笑う。
うまくいった…。
………ッ!
ギシッ、と音がするかと思うほど、抱きしめられる。
「どうしても 最後のキスを したいです」
棒読みで志賀が言った。
志賀の初川柳だ。
―ダメだ…、負ける……
再び、触れるだけの…
でも、触れ合わせたまま、それをキスと言うのかどうか判らないような、ずっと動かない、そんな最後のキスをして、キスしたまま
「ありがとう」
「元気で」
と言い合って、唇を離した━━━
「幸せになれよ?絶対…って、大丈夫やな」
「ほんまに、ありがとう、滝さん。でも…滝さんこそ、幸せになって。人のことばっかり思っとかんと、たまには自分のことも思ってやらな…あかんと思う」
「うん…ありがと」
「あの……会いたなってもたら、どうしよ…」
「……見たなったら、やろ?ネットで川本蘭奈、画像、で検索…」
右手の人差し指を立てる。
ハハッ…、と志賀がまた、片っぽの頬に笑窪を凹ませて、ちょっと情けない顔で笑う。
「もう行きよし…」
「……じゃ…」
何度か浅く頷いて、少し、赤い目の志賀は、ドアを開け、気が遠くなるほど綺麗な微笑で千佳史をもう1度振り返り、外に出た…
ドアが閉まる―
まだだ…まだだ…
息を止めて10数える。
7、8、9、10……よし。
千佳史はせり上がってくる慟哭を押えていた箍を、取り払った。
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