君の痴態が忘れられないんだ。

雅鳳飛恋

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第39話 気分転換

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「黛も一緒にね」

 紫苑は自分の左腕を実親の右腕に絡め、右腕を伊吹の左腕に絡める。そして自分の方に引き寄せて二人と密着した。

「暑いんだが」
「美少女と密着してるんだから嬉しいでしょ?」
「美少女なのは認めるが自分で言うな」

 いくら木陰にいるとはいえ、流石に三十度を超える気温の中で密着されるのは暑い。実親が苦言を呈するのは尤もだ。
 しかし当の紫苑はどこ吹く風である。

「美少女って認めてくれてるのに結婚してくれないのは何故なのか……」

 苦言は意に介していないが、結婚してくれないことには首を傾げていた。
 結婚云々は半分本気で半分冗談なので、「まあ、良いか」と呟いてすぐに思考を切り替え、デートの件について口にする。

「伊吹は明日暇?」
「一応オフだけど……」

 突然「デートしよ?」と言われたことに驚きで思考が止まっていた伊吹は、若干気圧されながら返答した。

 幸い明日は一日オフなので時間はある。いくら日々部活に打ち込んでいるとは言え休養も必要だ。インターハイが間近に迫っているからこそ体調管理は欠かせない。

「なら良かった。明日三人でデートしよ」
「三人でデートってどういう組み合わせなんだ……」
「ははは……」

 都合が良いとわかって安堵する紫苑に実親が呆れたような視線を向けると、釣られるように伊吹は空笑いしていた。

「伊吹はどこか行きたいところある?」
「私? 久世さんが決めるんじゃないの?」

 てっきり紫苑が決めると思っていた伊吹は首を傾げる。

「んーと、デートは悩める伊吹の気分転換が目的だから」
「あ、私の悩みの話続いてたんだ……」
「それは勿論。高跳びのことはわからないから相談に乗ってあげられないけど、私に出来ることでなら協力するよ」
「ありがとう」

 話が脱線していたので悩みの件は流れて終わったのかと思っていた。
 元々悩みを口にして気が楽になれば良いくらいにしか思っていなかったので不満はなかったが、紫苑は真剣に向き合ってくれていたのだとわかり伊吹は嬉しくて涙腺が緩んだ。

「それで行きたいところある?」
「んー」
「どこでも良いよー」

 再度問われた伊吹は視線を風で揺れる木の葉に向けて考え込む。
 強くない風なので小さく揺れて鳴る心地よい葉音と、近くにいる上級生の話し声が一帯にこだましている。

 そのまま無言の時間が流れるが悪くない空間だった。
 三人は居心地が悪く感じることもなく沈黙している時間を寧ろ堪能している。

 時間がどれほど経ったか定かではないが、紫苑と実親は急かすような野暮なことはしない。
 風と共に流れていた思考の時間がぐと伊吹は視線を二人に向け、揺れていた木の葉や、髪、制服とジャージがピタッと止まるのと同時におもむろに口を開いた。

「水族館とかかな……」
「水族館かー。良いんじゃない?」

 紫苑が微笑む。

「水族館となると池袋か江の島あたりか」
「そうだねぇ」

 実親の挙げた二ヶ所はメジャーな水族館であり、尚且つ比較的近場で高校生でも気軽に行ける場所だ。

「俺は池袋の方が近いが……」
「私は江の島の方が近い」
「お前は確か藤沢だったか」
「うん」

 立川在住の実親は池袋の方が近いが、神奈川県藤沢市に自宅がある紫苑は江の島の方が近かった。
 尤も、実親の家に泊まるなら話は別だが。

「私は町田駅周辺しか行ったことないからわからない……」

 伊吹は宮崎県から上京している。
 立誠高校に入学してから約五カ月経っているが学校と寮がある町田市からは大会以外で出たことがなく、池袋と江の島のどちらが近いのか皆目見当が付かなかった。
 町田市と言っても広いが、彼女の場合は殆ど学校と寮の往復だけだ。たまに買い物や遊びに行く時も町田駅周辺に限られる。
 高校に入学してから一人で電車に乗ったこともないので余計わからなかった。

「椎葉の場合は江の島の方が近いな」
「そうなんだ」

 伊吹は頷いているが、内心は良くわかっていなかった。
 土地勘がなく電車のこともわからないのだから無理もない。

 そのことに気付いた実親は苦笑しながら提案する。

「椎葉が構わないなら江の島にするか。二人はそっちの方が近いしな」
「私はその方が助かるけど黛は良いの?」
「ああ」

 池袋だと紫苑も伊吹も移動が大変だ。
 伊吹の場合は土地勘がないので尚更だろう。
 それに仮に帰宅時間が遅くなったら夜道を一人で歩くことになるので女性陣が心配だ。
 実親は多少遠くて大変だが男なので夜遅くなっても問題ない。
 万が一女性陣に何かあったら目も当てられないし、実親の心に深い傷を残しているトラウマが呼び起こされてしまう。なので江の島にした方が彼の精神衛生上都合が良かった。

「黛は紳士だねぇ。やっぱり私と結婚しようよー」

 素直に感心している紫苑だが、彼女の場合は実親の家に泊まれば池袋だろうと江の島だろうと関係のない話だった。共に帰宅すれば良いのだから。

「私は良くわからないから二人に任せるよ」
「とうとう伊吹までスルースキル身に付けちゃったよ……」

 結婚云々の話は触れなくても大丈夫だと伊吹は学習していた。
 対してスルーされた紫苑は口を尖らせるも、すぐに自分で話を引き戻す。

「私は近いから先に江の島で待ってても良い?」

 彼女の場合は自宅から直接江の島に移動して合流した方が効率が良い。
 態々わざわざ別の場所で待ち合わせするのは二度手間だ。

「良いぞ」
「うん」

 実親が了承すると伊吹も頷く。

「なら俺は町田駅で椎葉と待ち合わせしてから行こう」

 伊吹は電車のことは全くわからない。何線に乗ってどこにどう行けば良いのかも珍紛漢紛ちんぷんかんぷんだ。なので実親が江の島まで連れて行くことにした。

態々わざわざごめんね」
「気にするな」

 伊吹は実親がバイクに乗ることを知っているので、自分に付き合わせて電車移動になってしまうのが申し訳なかった。

「撮影を再開しますー!」

 沈鬱した空気を振り払うように宰の声が轟く。
 宰には全くそんなつもりはなかったが、お陰で伊吹は気に病まずに済んでいた。

「詳しいことはまた後で」
「そうだな」
「うん。わかった」

 撮影に戻る為に席を立った紫苑は振り返って告げると、間を開けることなく二人は頷いた。

 そして紫苑は映画研究部の二人と合流し、伊吹は理奈に呼ばれて駆け寄る。
 二人の後ろ姿を満足するまで眺めていた実親は鞄からポメラを取り出して執筆を再開するのであった。
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