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第64話 気持ち
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高校記録に並ぶことを誰もが期待を膨らませながら見守る中、町野は平然とバーを跳び越えて有言実行してみせた。
町野は「ウメが見守ってくれていたら私はどこまでだって跳べるからね」、と凛々しく言ったが、悲しいことに誤解を解くのに必死だった梅木は見ていなかった。
そのことは町野の為にも言わない方が良いであろう。見ていたことにすれば丸く収まる筈だ。きっと、恐らく、多分……。
続く伊吹も二回目の試技に挑む。
右側から半円を描くように助走し、左足で踏み切って跳び上がった。
右手と頭部から飛び込んでバーを跳び越える。
しなやかな身体を反ってバーを躱そうとするも、跳躍の高さが足りなかった。尻がバーに接触してしまったのだ。
バーを下敷きにするように背中からマットに着地した伊吹は苦悶の表情を浮かべる。
マットは弾力があって勢いを殺してくれるが、バーは硬い。
そんなバーの上に背中から落ちたら衝撃を諸に食らってしまい、痛みに耐えなくてはならなくなる。
高跳び選手にとってはあるあるであり、決して他人事ではないので反射的に肛門がキュッと締まってしまう。
梅木に抱き着いている今帰仁も一瞬だけビクッと身体を震わせていた。
「あれは痛いよー」
「そうね……大丈夫かしら?」
打ち所が悪いと立つのも困難な時がある。
なので梅木は心配そうに様子を窺う。
痛いだろうことは経験者じゃなくても想像出来ることなので、スタンドで見守る紫苑も心配そうに見つめていた。
「伊吹大丈夫かな……」
「あれが痛いだろうことは俺にもわかる」
実親が眉を顰める。
紫苑が祈るような眼差しを向ける先で、伊吹は腰を摩りながら立ち上がった。
少し重い足取りで自分のタオルを取りに行き、汗を拭ってスポーツドリンクで喉を潤す。
そうすることで少しは落ち着くことが出来る。
「ブッキー大丈夫?」
今帰仁が心配そうに尋ねる。
「ええ、大丈夫です。慣れてますから」
「あまり慣れたくはないことだけれどね」
「ですね」
肩を竦める梅木に伊吹は苦笑しながら頷く。
「パスするもの良いんじゃないかしら」
高跳びは同じ高さに三回挑戦する必要はない。
一回目に一メートル八十センチの高さに挑戦して失敗し、二回目に一メートル八十五センチに挑戦して失敗、そして三回目に一メートル九十センチに挑戦することも可能だ。
跳び始めの高さは選手が決めることが出来る。パスすることも可能だ。
最も高く跳んだ選手が優勝だが、同条件が複数いた場合は、その高さの失敗が少ない選手の順位が上になる。
それで決まらない場合は、全体の試技で失敗の少ない選手が勝者となる。
しかし、それでも決まらない場合は同順位となるが、優勝決定戦を行うことも可能だ。
パスを上手く使うことで順位が変わるのが高跳びの面白いところである。
つまり、梅木はパスをして次の高さに進むのもありなのではないか? と提案している訳だ。
「そうですね。でも跳びます。どちらにしろこの高さを跳べなければ次も跳べないと思うので」
梅木の提案も作戦としては有効な手段だが、伊吹はパスするつもりは微塵もなかった。
「そう」
本人が決めている以上は他人がとやかく言う筋合いはない、と梅木は引き下がる。
「ブッキーなら跳べるよ!」
「今帰仁さんに言われると不思議とそんな気がしてきますね」
「ふふん」
胸を張る今帰仁に笑みを返す伊吹。
「それじゃ行ってきます」
スポーツドリンクを置いた伊吹は三回目の試技を行う為に歩を進めた。
◇ ◇ ◇
助走位置についた伊吹は、自分よりも二十センチ以上高いバーを見据えていた。
(一週間前の私なら絶対に跳べない高さだよね……)
少し前の自分を思い出した伊吹は苦笑しながら心の中で自嘲する。
(期待してもらえているのは嬉しいけど、私は力に変えることが出来なかいみたいだから……)
伊吹には部内、学校、両親、友人だけに留まらず、陸上界までも期待を寄せている。
性格にもよるが、その期待は到底高校一年生の少女が耐えられる程度の重圧ではない。
メンタルに多大なる負荷が掛かり、上手く処理出来ずに壊れてしまってもおかしくない代物だ。
(やっぱり町野さんも梅木さんも今帰仁さんも凄いよ)
町野は伊吹の比にならないくらい期待を寄せられている。
当然だろう。陸上連盟が天才と認めている程の逸材で、既に世界の舞台でも戦っている高跳び界きっての期待の星なのだ。
なので伊吹のように重圧に押し潰されそうになっていてもおかしくないのだが、本人は数年間ずっと何もないとでも言うかのように平然としている。
普段はボケっとしていて天然なところがある彼女だからこそ、期待を寄せられていることに気付いていないだけなのだが、それは一部の人しか知らないことだった。
梅木は言うまでもないだろう。
同い年に町野という天才がいても腐らずに戦い続けてきた心の強さがある。
そもそも重圧を力に変えるタイプなので、自ら自分を追い込むくらいだ。
町野のライバルとしての役割を陸上界に期待されている梅木にこそ、一番プレッシャーが圧し掛かっているかもしれない。
しかも普段の町野はポンコツで使い物にならないので、有望選手を集めた合宿などの活動の際には梅木がリーダーの役目を任されることが多い。同年代の選手達と大人の間に立たされることも多々ある苦労人だ。
確りしていて責任感の強い性格であり、心の強さを持っている梅木は、重圧に真正面からぶつかって打ち砕いていた。
そして今帰仁は兎に角マイペースなのでプレッシャーなど気にも留めない。
どれだけ期待を寄せられても努力せずに笑っている図太い神経の持ち主で、重圧があっても知らないうちに自分で躱している。
いくら親しいからとはいえ、他校の上級生にタメ口をきける時点で彼女の性格を察せられるだろう。
図太くて天真爛漫な彼女には重圧などないに等しいものなのだ。
そんな自分にはない強さを持っている三人のことを伊吹は素直に尊敬していた。
(でも、私には私の強さがある。それを黛君が気付かせてくれた)
バーに向けていた視線を、その先のスタンドにいる実親へ向ける。
(楽しむ気持ちが私を強くする。確かにそれは間違いないけど、ここ一週間くらいで私をもっと強くするものがあることに気付いたよ)
クスッと笑みを浮かべる伊吹の髪を撫でる風が舞う。
(私は君にかっこいい姿を見せて夢中になってもらおうと思えば思うほど強くなれるんだ)
視線の先にいる実親に笑い掛ける。
すると実親が笑い返してくれたような気がした。
気のせいだと思いつつも嬉しくなる自分の単純さに笑みが苦笑に変わっていく。
(だから、その目に焼き付けてね。私が跳ぶ姿を!)
ふっと息を吐いて表情を引き締めた伊吹は、持ち前の長い脚を活かした大きな歩幅で右側から半円を描くように走り出す。
誰もが見惚れる美しい脚で助走すると、勢いよく左足で踏み切った。
その時、伊吹は精一杯の気持ちを乗せて心の中で告白する。
(私は黛君のことが好きです!)
愛を力に変えた伊吹の跳躍は、今日一番の高さを誇っていた。
重力を無視したかのような長い滞空時間の中、しなやかな身体を反ってバーの上を通過していく。
そして会場にいる誰もが息を止めて見惚れてしまうほど美しくて絵になる跳躍は、バーに接触することなく背中からマットに着地する。
見守っていた人々は等しく、天使の羽衣に包まれている幻想的な姿を幻視していた。
町野は「ウメが見守ってくれていたら私はどこまでだって跳べるからね」、と凛々しく言ったが、悲しいことに誤解を解くのに必死だった梅木は見ていなかった。
そのことは町野の為にも言わない方が良いであろう。見ていたことにすれば丸く収まる筈だ。きっと、恐らく、多分……。
続く伊吹も二回目の試技に挑む。
右側から半円を描くように助走し、左足で踏み切って跳び上がった。
右手と頭部から飛び込んでバーを跳び越える。
しなやかな身体を反ってバーを躱そうとするも、跳躍の高さが足りなかった。尻がバーに接触してしまったのだ。
バーを下敷きにするように背中からマットに着地した伊吹は苦悶の表情を浮かべる。
マットは弾力があって勢いを殺してくれるが、バーは硬い。
そんなバーの上に背中から落ちたら衝撃を諸に食らってしまい、痛みに耐えなくてはならなくなる。
高跳び選手にとってはあるあるであり、決して他人事ではないので反射的に肛門がキュッと締まってしまう。
梅木に抱き着いている今帰仁も一瞬だけビクッと身体を震わせていた。
「あれは痛いよー」
「そうね……大丈夫かしら?」
打ち所が悪いと立つのも困難な時がある。
なので梅木は心配そうに様子を窺う。
痛いだろうことは経験者じゃなくても想像出来ることなので、スタンドで見守る紫苑も心配そうに見つめていた。
「伊吹大丈夫かな……」
「あれが痛いだろうことは俺にもわかる」
実親が眉を顰める。
紫苑が祈るような眼差しを向ける先で、伊吹は腰を摩りながら立ち上がった。
少し重い足取りで自分のタオルを取りに行き、汗を拭ってスポーツドリンクで喉を潤す。
そうすることで少しは落ち着くことが出来る。
「ブッキー大丈夫?」
今帰仁が心配そうに尋ねる。
「ええ、大丈夫です。慣れてますから」
「あまり慣れたくはないことだけれどね」
「ですね」
肩を竦める梅木に伊吹は苦笑しながら頷く。
「パスするもの良いんじゃないかしら」
高跳びは同じ高さに三回挑戦する必要はない。
一回目に一メートル八十センチの高さに挑戦して失敗し、二回目に一メートル八十五センチに挑戦して失敗、そして三回目に一メートル九十センチに挑戦することも可能だ。
跳び始めの高さは選手が決めることが出来る。パスすることも可能だ。
最も高く跳んだ選手が優勝だが、同条件が複数いた場合は、その高さの失敗が少ない選手の順位が上になる。
それで決まらない場合は、全体の試技で失敗の少ない選手が勝者となる。
しかし、それでも決まらない場合は同順位となるが、優勝決定戦を行うことも可能だ。
パスを上手く使うことで順位が変わるのが高跳びの面白いところである。
つまり、梅木はパスをして次の高さに進むのもありなのではないか? と提案している訳だ。
「そうですね。でも跳びます。どちらにしろこの高さを跳べなければ次も跳べないと思うので」
梅木の提案も作戦としては有効な手段だが、伊吹はパスするつもりは微塵もなかった。
「そう」
本人が決めている以上は他人がとやかく言う筋合いはない、と梅木は引き下がる。
「ブッキーなら跳べるよ!」
「今帰仁さんに言われると不思議とそんな気がしてきますね」
「ふふん」
胸を張る今帰仁に笑みを返す伊吹。
「それじゃ行ってきます」
スポーツドリンクを置いた伊吹は三回目の試技を行う為に歩を進めた。
◇ ◇ ◇
助走位置についた伊吹は、自分よりも二十センチ以上高いバーを見据えていた。
(一週間前の私なら絶対に跳べない高さだよね……)
少し前の自分を思い出した伊吹は苦笑しながら心の中で自嘲する。
(期待してもらえているのは嬉しいけど、私は力に変えることが出来なかいみたいだから……)
伊吹には部内、学校、両親、友人だけに留まらず、陸上界までも期待を寄せている。
性格にもよるが、その期待は到底高校一年生の少女が耐えられる程度の重圧ではない。
メンタルに多大なる負荷が掛かり、上手く処理出来ずに壊れてしまってもおかしくない代物だ。
(やっぱり町野さんも梅木さんも今帰仁さんも凄いよ)
町野は伊吹の比にならないくらい期待を寄せられている。
当然だろう。陸上連盟が天才と認めている程の逸材で、既に世界の舞台でも戦っている高跳び界きっての期待の星なのだ。
なので伊吹のように重圧に押し潰されそうになっていてもおかしくないのだが、本人は数年間ずっと何もないとでも言うかのように平然としている。
普段はボケっとしていて天然なところがある彼女だからこそ、期待を寄せられていることに気付いていないだけなのだが、それは一部の人しか知らないことだった。
梅木は言うまでもないだろう。
同い年に町野という天才がいても腐らずに戦い続けてきた心の強さがある。
そもそも重圧を力に変えるタイプなので、自ら自分を追い込むくらいだ。
町野のライバルとしての役割を陸上界に期待されている梅木にこそ、一番プレッシャーが圧し掛かっているかもしれない。
しかも普段の町野はポンコツで使い物にならないので、有望選手を集めた合宿などの活動の際には梅木がリーダーの役目を任されることが多い。同年代の選手達と大人の間に立たされることも多々ある苦労人だ。
確りしていて責任感の強い性格であり、心の強さを持っている梅木は、重圧に真正面からぶつかって打ち砕いていた。
そして今帰仁は兎に角マイペースなのでプレッシャーなど気にも留めない。
どれだけ期待を寄せられても努力せずに笑っている図太い神経の持ち主で、重圧があっても知らないうちに自分で躱している。
いくら親しいからとはいえ、他校の上級生にタメ口をきける時点で彼女の性格を察せられるだろう。
図太くて天真爛漫な彼女には重圧などないに等しいものなのだ。
そんな自分にはない強さを持っている三人のことを伊吹は素直に尊敬していた。
(でも、私には私の強さがある。それを黛君が気付かせてくれた)
バーに向けていた視線を、その先のスタンドにいる実親へ向ける。
(楽しむ気持ちが私を強くする。確かにそれは間違いないけど、ここ一週間くらいで私をもっと強くするものがあることに気付いたよ)
クスッと笑みを浮かべる伊吹の髪を撫でる風が舞う。
(私は君にかっこいい姿を見せて夢中になってもらおうと思えば思うほど強くなれるんだ)
視線の先にいる実親に笑い掛ける。
すると実親が笑い返してくれたような気がした。
気のせいだと思いつつも嬉しくなる自分の単純さに笑みが苦笑に変わっていく。
(だから、その目に焼き付けてね。私が跳ぶ姿を!)
ふっと息を吐いて表情を引き締めた伊吹は、持ち前の長い脚を活かした大きな歩幅で右側から半円を描くように走り出す。
誰もが見惚れる美しい脚で助走すると、勢いよく左足で踏み切った。
その時、伊吹は精一杯の気持ちを乗せて心の中で告白する。
(私は黛君のことが好きです!)
愛を力に変えた伊吹の跳躍は、今日一番の高さを誇っていた。
重力を無視したかのような長い滞空時間の中、しなやかな身体を反ってバーの上を通過していく。
そして会場にいる誰もが息を止めて見惚れてしまうほど美しくて絵になる跳躍は、バーに接触することなく背中からマットに着地する。
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