君の痴態が忘れられないんだ。

雅鳳飛恋

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第65話 閉幕

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 見事に高校記録を跳んでみせた伊吹だったが、続く一メートル九十一センチを三回以内に跳び越えることは叶わなかった。
 それでも健闘をたたえるように会場からは惜しみない拍手が送られていた。

「伊吹惜しかったね」
「そうだな」

 梅木と今帰仁に話し掛けられている伊吹を眺めながら悔し気に呟く紫苑は、脱力して実親に寄り掛かる。
 微かに汗の匂いが実親の鼻腔を擽るが、不快感は一切なく、寧ろ安心感を与えてくれていた。

「でも一年生なのに準優勝出来るなんて凄いよね」
「しかも高校記録に並んだからな」
「すぐに町野さんが塗り替えちゃったけど」
「それは仕方ない」

 伊吹は一時的に高校記録保持者の一人になったが、町野が一メートル九十一センチを二回目の試技で成功させて新たに記録を更新してしまった。

 そもそも一メートル九十センチを跳べること自体がとんでもなく凄いことだ。
 本来は日本人の女子高生が跳べる高さではない。日本人だと大人でも一メートル九十センチを跳んだのは数人しかいないくらいだ。
 そう聞くと、如何に町野と伊吹が凄いかわかるだろう。梅木の記録でさえ日本トップクラスである。

 間違いなく伊吹の名は高跳び界の、いや、陸上界の歴史に名を刻まれた筈だ。

「やっぱり伊吹はかっこいいな……」

 感慨深げに呟く紫苑は、憧れの人物を見つめるような表情になっていた。

「なんか別世界の人みたい」
「まあ、確かにそれはわかるな」

 伊吹は今後、おそらく町野のように世界の舞台で戦う選手になるだろう。
 既に日本トップクラスの記録を有しているので、オリンピックに出場することも夢物語ではない。

 自分と同い年の友人が世界に羽ばたく姿を想像すると、どうしたって眩しく感じてしまう。
 それに自分と比較して「何やってんだろ私……」、と考えてしまう人もいるかもしれない。

「いや、それは黛もだからね」

 紫苑が「何言ってんの?」と言いたげな表情で視線を向ける。

 実親も高校ながら売れっ子のライトノベル作家だ。確かに普通の高校生とは一線を画す存在なのは間違いない。

「いや、高校生作家は意外といるぞ」
「え、そうなの?」
「少なくとも一メートル九十センチのバーを跳び越えられる日本人女性よりはいるだろうな」
「へー、そうなんだ」

 目を点にしていた紫苑は意外感に包まれながら頷くが、すぐに別の疑問が浮かんできた。

「でも、黛みたいに生計を立てられている高校生作家は少ないでしょ?」
「それはどうだろうな……」

 発行部数などからある程度は推測出来るが、流石に他人の懐事情など把握していない。なので実親は肩を竦めることしか出来なかった。

「それよりも、町野さんの最後の試技が始まるぞ」

 フィールドでは町野が助走位置についていた。

 町野の優勝は既に決まっているが、高跳びは最後の一人になると試技者の希望の高さを聞いてバーを上げる仕様になっている。
 それが最後の試技となって高跳び競技は幕を閉じるのだ。

「ついさっき自分が打ち立てた高校記録を更に伸ばせるかの挑戦だね」

 紫苑は自分のことのように緊張して微かに声が上擦ってしまうが、会場にいる多くの者が同じような状態に陥っている。

 町野が希望したバーの高さは一メートル九十三センチだった。
 一メートル九十二センチではなく、一気に二センチも上げて一メートル九十三センチを希望したのは跳べる自信があるからだろう。

 そして誰もが注目する中、町野はいつも通りの無表情で走り出す。
 左側から半円を描くように助走し、右足で踏み切ると同時にバーに背を向ける。

「高い」

 実親が呟く。

 素人目にもわかるほど高くて滞空時間の長い跳躍を披露した町野は、左手と頭部から飛び込み、身体を反ってバーを躱す。

 背中、尻、足、どこもバーに掠ることすらなく通過していく。
 男装の麗人が優雅に舞う姿を幻視してしまうほど洗練されていて堂に入った跳躍は、会場中の人が息を飲んで見惚れてしまい、瞬きすら忘れてしまう始末であった。

 そして町野が背中からマットに着地した瞬間、会場が今日一番の歓声に包まれる。

「まさか一回で成功させてしまうとはな……」
「流石は絶対王者……」

 実親と紫苑も例に漏れず町野に視線を奪われており、我に返ったところで無意識に呟いていた。

「これ、もっと高くても跳べたんじゃない……?」

 バーの高さをもっと高くしていれば高校記録を更に伸ばせたのでは? と思った紫苑はもったいなさを感じてしまう。

「無理に高くして跳べなければ更新出来ないから、確実に跳べる自信があった高さにしたんじゃないか?」
「なるほど」
「本人にしかわからないことだから想像でしかないが……」

 あくまでも推測に過ぎないが、紫苑を納得させるには充分な説だった。

「なんにしろ、これで椎葉のインターハイは終わったんだ。後で労ってやろう」
「そうだね!」
「飯でもご馳走してやりたいところだが……」

 梅木と今帰仁と共に町野のことを祝っている伊吹を眺めながら微笑んでいた実親だったが、途中から眉間に皺が寄っていく。

 伊吹はその時に必要な栄養を効率良く摂取する為に栄養士が決めた食材しか口に出来ない。
 美味しい物でもご馳走して労いたくても難しいと言わざるを得なかった。

「一応伊吹に訊いてみたら? こういう時くらいは大目に見てくれるかもしれないし」

 優勝を逃したとはいえ、準優勝した事実は変わらない。一年生である伊吹がだ。しかも一時的だったが高校記録に並んでいる。
 めでたいことなので祝いの席としてコーチも許してくれるかもしれない。

「そうするか」
「うんうん」

 実親は訊いてみて駄目だったら別の労い方を考えれば良いか、と問題を先送りにすることにした。



 インターハイ自体はまだ続くが、伊吹が出場する女子高跳びは幕を閉じた。
 今年の女子高跳びは名勝負、名場面として今後も語り継がれることになり、主役級の活躍をして舞台を盛り上げた数名の少女達はこの先世界に羽ばたくことになるが、それはまた別のお話。
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