幸福の国の獣たち

夢 浮橋(ゆめの/うきはし)

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中央の国 ワクサレア

018 彼方の城壁 / 特訓は計画的に

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 ふたりの紋唱術師が悩み足掻いていたころ、遠く離れた別の場所でも苦悶している者がいた。

 マヌルド帝国、首都アウレアシノン。二重の城壁に囲まれているこの都市では、住んでいる場所がそのまま当人の階級を示している。
 中央に皇帝一家の居城が据えられ、その周り──内側の城壁に囲われた区域──は貴族の中でもとくに位の高い家のみが住まうことを許されている。

 その上級貴族の邸宅のひとつに暮らす伯爵で、本人は帝国軍のすべてを掌握し取り仕切る権限を有する将軍の地位にある男……ハイダール・ウムス=ラディウ・クイネスは、怒りに震える拳を目前の壁に叩きつけた。

 彼の背後で状況を説明していた部下は震え上がったが、椅子に腰かけていた夫人はちっとも気にする風情もない。
 ただ絹のような美しくなめらかな声で、まるで小さな子どもでもあやすように優しく──あなた、落ち着いてくださいな。ロンショットが怯えていますわ──と言った。

「落ち着いていられるか! もう一週間だぞ! 貴様の部隊は何をしている!」
「は、はい、城下一帯をくまなく捜索いたしましたッ! ですがご令嬢の姿を見かけたという住民はおらず……」
「それはもう聞いたわ!」

 クイネス将軍は肩を怒らせたまま振り返り、部下であるロンショット少佐に詰め寄った。

「あの愚図が……もはや帝都におらぬという……その意味が貴様にわかるか?」
「は、はい、あの、いえ」
「お馬鹿さんねえロンショット。か弱い娘がひとりで都を出て行くなど不可能、つまり誰かが手引きしたということ……と夫は言いたいのよ」
「はっ……ですが伯爵夫人、お嬢さまのご交友関係はすでに調査済みです。本日まで全員この帝都内に居ることが確認されております。何者かが手引きしたというのは、その、少々考えにくいかと……」
「あら。外から来た方かもしれなくてよ。学院に旅の術師が訪ねてくるなどよくある話じゃなくて?
 世間知らずなうちの娘が、見聞広い旅の方に心を許した……なんてこともありうるのではないかしらねぇ」

 夫人は面白がるような素振りさえ見せながら将軍を伺った。彼女の夫は顔を真っ赤に染めて怒り狂い、両顎の歯がすべて砕けそうなほど力強く食いしばっていた。

 将軍は自他問わず厳格に接する人柄で知られている。
 そして歴史ある名家クイネスの威厳と地位を守るために、自らの娘をも鞭打つ勢いで厳しく育ててきた。良家の子女として持つべき慎ましさと気品を備え、なおかつ将軍の娘として恥じぬ力と知をも併せ持つ、強い娘に育てようとしてきたのだ。

 その娘が家出をしてもう七日以上が過ぎている。彼の心境は、顔と同じく燃え盛る炎となっていることであろう。
 しかもただ出て行ったのではなく、どこの馬の骨ともしれない男が一緒かもしれないと思えば、穏やかでいられぬのも無理はない。それが彼女自身の意思であっても、あるいは詐欺師に誑かされただけだとしても。
 なんにせよ伯爵令嬢として許されない行為であることは間違いない。

 クイネス将軍は怒りを露にしたままロンショット少佐に命じた。彼の娘が失踪する前に帝国立紋唱学術院を訪れた外部の人間がどれほどいて、そのうち何人がすでに帝都を離れているのか──その全員の行方を調査せよと。

 ロンショットは震えた声で敬礼し、急いで部屋を出て行った。彼が出て行ったのを見届けると、将軍は夫人の真向かいの椅子にどっかりと腰を下ろし、深い溜息をついた。

「そんなに心配なさるなら、普段からもう少し優しくしてやればよろしかったのに」
「何を言うか。私の教育に間違いはない」
「……そうかもしれませんわね。あんなに気が弱くておっちょこちょいな子でも、こうして家出する勇気は持っていたようですもの」
「それは嫌味か、ヴァネロッタ。……しかし七日経っても何の要求もないとなれば誘拐の可能性はあるまいな」
「わかりませんわ。あなたには敵が多いもの」

 将軍は顔をしかめる。
 あらゆる手で政敵を捻じ伏せ、クイネス家の地位を守るためには犠牲も厭わない考えで生きてきた彼には、その死さえ望む者も少なくはない。そういう者の魔手が娘に伸びた可能性は否定しきれなかった。

 それなら自分自身を狙えばいい。しかし、将軍の名に恥じないよう鍛錬し熟達した彼の紋唱の腕を前に怖気づき、彼よりもずっと弱い娘を狙ったということは充分に考えられる。

 だがそれならなぜ死体が出てこないのだ? よもや自殺ではないかという考えが当初によぎったこともあり、そういう可能性を含めて帝都内を捜査するよう部下たちに命じているが、そのような報告は一切なかった。
 気性の荒い将軍を激昂させないよう黙っているのなら話は別だが、それも長く隠し通せるものではない。

 一体何者が娘を誑かし攫っていったのか。そして、娘は今どこにいるのか。

 煩悶する将軍に対し、夫人は鷹揚に受け止めていた。娘が厳しすぎる父に抑圧されて苦しんでいたことを、母親として日々見守ってきた彼女にしてみれば、このたびの家出はある種好ましい事態ですらあった。
 もちろん、伯爵家の人間として真正面から賞賛するわけにはいかないことも重々承知している。

 だが、彼女が知る限り、娘は弱すぎる。家出したとされる日の前の晩も、彼女が演じた失態について父にひどく叱責され、夜空が白むまで泣き明かしていたのを、母は知っている。

 紋唱術についてもそうだ。夫人は自分が紋唱術を使えるわけではなかったが、夫を通じてそれらの知識は持っているし、伯爵夫人として国が主催するもろもろの行事に参加して見識を深めてきた。だから自分の娘がどの程度の技量を持っているのかは理解している。

 ゆえに彼女がひとりではないと断言できるのだ。
 必ず誰かが傍にいる。
 それは女かもしれないが、男である可能性のほうがもっと高いだろう。旅人と仮定するとなおさらだ。女の旅人は少ない。

 果たしてそれはどんな男だろうか。もしいつか娘が彼を連れて戻ってきたならば、伯爵夫人として見極めねばならない。その男がクイネス家に相応しい人物かどうか、そして何より、己の娘の生涯を任せるに足る男であるかどうか。

 もっとも娘が自分の意思で戻ってくる可能性など麦粒ひとつほどもないとも思っている。
 それくらいの覚悟でなければ家出などできようはずもない。生半可の覚悟で出て行ったのならすぐに見つかっているはずだ。

 しかしそれらを夫に伝えると、この男は壊れてしまうだろう。それで夫人はそっと夫に歩み寄り、その肩を優しく抱いて、なだめるようにこう言った。

「ロンショットが見つけてくれるか、スニエリタが自分の意思で帰ってくることを、クシエリスルの神に祈りましょう。
 そして無事に帰ってきたなら、いきなり叱るのではなくて、まずは抱き締めてあげるのですよ」
「……それはおまえの役目だ。私ではない」

 将軍はそう言って頭を垂れると、黙り込んだ。


 * * *


 なんか嫌な音がする。いや、さっきからずっとしてる。気のせいだと思いたかったが、さすがに気のせいでは済まされないレベルの音が聞こえてきたので、ミルンは恐る恐る振り返った。

 果たしてそこに広がっていたのは森である。見渡す限り樹、樹、樹……前後左右もう訓練場の形がわからないほどに木々が生い茂り、上下にも天井が見えないほど高々と並びそびえていた。
 ひどいありさまだ。訓練場を使用後は、円内を使う前の状態に戻さねばならない規則なのだが、これを消すにはどれくらいの時間がかかるだろう。

 森の中からは心地良さそうなカエルの歌がゲコゲコと聞こえてくるが、その機嫌のよさがなおさら癪に障る。

 遣獣たちに片っ端から伐採していくように命じ、ミルンは森へ踏み込んだ。足元も絨毯を敷いたように隙間なく苔が生しており、どこを踏んでもふかふかと柔らかい質感だった。これだけ苔が生育した原因は間違いなくカエルの放った湿気に違いない。

 やがて歩き進んでいくうちに、カエルの歌に混じってふんふんと人間の鼻歌が聞こえてきた。

「思ったよりイケるかもー♪」
「じゃねえよ何やってんだおまえは! 今すぐ止めて全部枯れさせろ!」
「あ、ミルン。……なんで怒ってんの?」

 楽しそうに樹を生やしまくっていた犯人であるララキは、頭にプンタンを乗せたまま首を傾げた。そのまま落っこちたカエルも楽しそうに苔の絨毯を転がってゲコゲコしている。

「遊びに来てんじゃねえんだぞ。あと出てくときにきちんと片付けしてけって規約にあっただろうが」
「そうだっけ。でも遊んでないもん。これもれっきとした練習」

 ほら、とララキが樹の一本を指差す。

 大陸南部によく見られるふつうの広葉樹だ。これがなんだと言うのか。意味がわからず怪訝な顔になったミルンを見て、ララキはちょっと怒りながら、もっとよく見てよと言う。

「こっからここまでぜんぶ同じ種類の樹! で、育ち具合を順番に並べてみました!」
「……ああ、言われてみりゃこっちのは若木で向こうのはけっこう育ってる感じではあるな……なるほど、たしかに制御の練習で樹はちょうどいいかもしれない」
「そうでしょ? それでね、ここは同じくらい育ってる樹で、実がついてるのとそうじゃないやつ」
「実って……枯れてるぞこれ」
「そうなんだよね、そこが難しくて……」

 と言いながらまた新しい樹を生やし始めるララキ。を紋章を拳でぶちわって無理やり止めるミルン。

「何すんの!?」
「やりたいことはわかったけど一旦片付けろ! あとプンタンを黙らせろ!」

 ほんとうならプンタンも実力行使で止めればいいのだが、そうしなかった。
 というかできなかった。以前もスニエリタの大ヘビに絶叫し爬虫類が得意でないことが明らかになっているミルンであるが、密かにもっと得意でないのが両生類だからだ。
 なお、水場の多い土地に生まれ育った水ハーシ族(部族名は湖水地方を居住地とすることが由来)には珍しいことである。

 幸いプンタンがニンナほど大きくないので真顔で対処できているが、触るとなると話は別だ。むしろ外見より手触りのほうがきつい。ぬるぬる、とか、ぬめぬめ、とかが苦手なのだ。
 それをララキに感づかれたくないので、極力プンタンには近づかないことにしている。

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