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中央の国 ワクサレア
019 邂逅・”故郷を想え”
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やっぱり違うかもしれない、と思い始めているララキがいた。
何が違うって、樹の紋唱をやりながら制御の練習を始めたのはいいのだが、これが他の属性の紋唱にも応用できるかどうかと考えたら、それは違うと思うのだ。
なんといっても時間がかかる。単純に樹を生やすだけで、大きさにもよるが並木くらいのもの一本に五分くらいかかる。
比べて炎の紋唱だったら発動して火花が消えるまではものの数秒だ。そんなに長々と時間をかけてコントロールするようなものではないし、ちんたらやっている間に火は消える。
あと、樹を生やしてもなんにもならないということに気づいてしまった。
攻撃には使えないし、かといって防御に使うにも生え育つまでに時間がかかりすぎてどうしようもない。しいていえば梯子がわりに上るくらいか。
結論は出た。
ララキはべつに樹の紋唱が得意なのではない、ただ発動してからすぐに消えないので否応なしに時間をかけて制御できるだけである、という結論が。
結局振り出しに戻ってしまって頭を抱える。そんなこんなの訓練場二日目だった。
あのあとミルンが紋唱術師センターにかけあって、五日間は毎日同じ訓練場を借られるようになったというので、これからしばらく練習漬けの日々が続くララキである。
お祭りの日まで七日あるのに微妙に日数が足りないのは、やっぱりそういう行事に向けて観光目当ての旅の術師が増えるので、センターとしてもあまり長期で予約を取らせたくないからだろうか。
そんなわけで今日も朝から練習しているのだが、さっぱり上達していない。
図書館から借りてきた教本を片手にララキは唸る。学校などでも使われている正規の教本なのだが、そこには紋唱術の制御法についてこう書かれている。
「あなたの身体を大自然に預け、その中でこうあるべきとあなたが考える姿を想定し、そのように留意して紋唱を行う……ってなんじゃそりゃあ!?」
「要するに感覚でどうにかしろってことだよな。丁寧な言葉で言ってるだけで」
これにはミルンも苦笑いで聞いていた。ミルンにもわかるのだ、制御の感覚を言葉にするのは難しく、しかもそれを教本として万人に理解できるように言えとなると、結局こうしてふわっとした文言に落ち着いてしまうということが。
「大自然に預けってなんだよ~っ、あたしは元野生児だぞ~!?」
ララキは叫んだ。かつて屋根も床もない結界に囚われ、野ざらしで石の上に寝る生活をしていたララキなど、むしろ現在この大陸に生活するどんな人間より全身全霊を自然に預けてきたと言える。これ以上なにをどう預けろというのか。
それともこの十年あまりで人の社会に充分染まってしまったということだろうか。それはそれでいいと思うが。
とにかくこの教本は当てにならない。今日この練習が終わったらすぐに返しにいこうと決意し、ララキは教本を訓練場の隅に放った。
なお投げたり乱暴に扱うと本が傷むのでよい子はけして真似しないでください。
適当に紋唱をする。炎はやめて、今日は水でもやってみるか。
「水流の紋!」
言い放つと紋章が淡く光って、そこからぶくぶくと泡が出てきた。
もちろんそういう術ではない。相変わらず制御ができていないが、やはり苦手な属性の紋唱となると発動時のとんちんかんっぷりも増している感がある。
「もう一回、水流の紋!」
再挑戦すると今度はちょろっと水が出てきた。しかし困ったことにもうもうと湯気が立っている。
場合によってはお湯を噴出させるのもいいかもしれないが、意図していないのに沸騰した状態で出てこられるのは困る。あと量が少なすぎる。
なんでだ。なんでこんなことになるんだ。
一生懸命記憶を辿ってライレマに教わったことを思い出す。
丁寧に線を描きなさい、とはよく言われた。よく気持ちを込めて描けば必ず紋章は応えてくれる、とも。
ライレマはよくそういう言いかたをする人だった。紋章のことを生きもののように捉えているのだろうか。
あるいはその先に、何か──神のような存在を想定しているのか。
だとしたら、紋唱によって神と通じ、その力を借りているのだとすれば、ララキがありえないほどへったくそなのもそこに理由があるのではないか。
あらゆるクシエリスルの神にそっぽを向かれた異端児であるがゆえに、神々はララキの紋唱に力を貸してくれないのでは。
……あれ、これ詰んでるな? ララキの首筋を嫌な汗が流れ落ちる。
「おーいララキ、俺ちょっと昼飯買ってくるから、おまえは練習続けてろよ。どっちか残ってないと他のやつに横入りされるかもしれん」
「わかったー」
『じゃあオレたちも休憩すっかな』
ミルンが買出しに行き、彼の遣獣たちも引っ込み始めたので、ララキはひとり残される形になった。
プンタンもいるにはいるが、隅で寝ている。昨日はいろいろ感謝する場面もあったが今日はなんでこいつを遣獣にしてしまったんだという気持ちが尽きない。
まあ遣獣を増やすにしてもララキ自身の実力を伸ばさなければ無理な話だ。獣たちは術師の実力を測り、力を貸すに値すると判断しないと契約を結ばない。
しかし紋唱術は神との通信である説、という今ララキが思いついた仮説が正しいとしたら、ララキが上達するためには練習よりもまず力を貸してくれる神を探すほうが先だという気がする。
クシエリスルの神といっても大陸中にたくさんいるのだし、一人くらいシッカのようにララキの味方をしてくれる神がいてもいいのではないか。
もしくは、嫌な想像だが、ララキの紋唱術の腕はイキエスを出る前よりひどくなっている気がする。前から安定には欠けていたと思うが、旅に出ていろんな術師を見てきたせいか、改めて自分のへっぽこぶりを強く感じてしまうのだ。
それはつまり、ララキの紋唱術に力を貸しているのが他ならぬシッカで、彼が弱っているからこそ、この先もどんどんへっぽこが加速してしまうのではないか。
いや、いや、それはない。もしシッカの力を借りているのならせめて炎の紋唱だけは上手くないとおかしい。今のところ時間をかけられるぶん樹のほうが発動後の展開はまともだ。
しかし……いやでも……ううん……。
「考えたって仕方ないか」
かぶりを振って、紋唱の体勢に入る。ミルンの言葉を信じて練習あるのみ。まだ効果が感じられないけど。
もっともっと集中してやろう。深呼吸をして、ものすごくゆっくり紋章を描いた。線の一本一本を丁寧に、円は歪みの少ない丸になるよう意識して、きちんと繋げて描く。
それからイメージ。水がまっすぐ飛び出して、プンタンが寝ている訓練場の端まで届くまで出るところを想像する。
「プンタンをたたき起こせ、水流の紋!」
紋章がさあっと青く輝き、思っていたのと近い量の水が出てきた。勢いもなかなかいい感じだ。
やった! 思わずガッツポーズするララキだったが、そのとたんに水が途切れた。一気に水流は弱まってしまい、カエルをたたき起こすどころか、床を流れてプンタンの足元をちょっぴり塗らしただけに留まった。
ああああ。今度はその場に膝を衝く。
最後まで気を抜くなということだろうか。でも他の人はすぐ次の動作に移ったり、なんなら走ったりしながらだって紋唱ができるのに、こんなことにはならない。それともララキが異常に集中力の欠如した人間なのだろうか。
しかもあんなに長々と時間をかけて紋章を描く人などいない。ララキ唯一の美点である速さが完全に死んでいる。
愕然としながら、膝を衝いたままでいつもの感じで紋唱を使ってみた。紋章のほうはさっきに比べてだいぶ雑なものになったが、ぴゅるる、という感じの水流ができた。
その弱さでもいいからとにかくプンタンまで届け、としつこいくらいに念じてみるが、水はそこまでいかずに地面に流れた。
やっぱりララキの意志が反映されているわけではなく、集中力の問題でもなく、ただただ制御が覚束ないだけのようだ。
どうすりゃいいのよ。
精神的にすっかり疲れ果て、ちょっと泣きべそをかきつつ、もはややけくそで紋唱を続ける。もうプンタンが起きるまでやってやる。一回、二回、三回、……。
そうして何度目だったろうか。
またしてもララキの術は暴発した。炎ではないので爆発にはならなかったが、水流を通り越して滝としかいいようのない大量の水が、それはもうすごい勢いで噴き出したのだ。
しかもそのタイミングで誰かが訓練場に入ってくる。少し早いがミルンが戻ってきたのだろうか、ともかくララキには人影に向かって避けて!と叫ぶしかできなかった。
「──氷瓶の紋」
その誰かはすばやい動きで紋唱を行い、分厚く大きな氷の塊を出現させて水流の直撃を逃れた。
水はどんどんその塊の中に吸い込まれていく。初めて見る術だった。
あれ、とララキは違和感を覚える。声がミルンよりもちょっと低い気がしたのだ。
やがて水がすっかり消えると、そこには若い男の人が立っていた。やはりミルンではなかったが、彼によく似た暗い色の銀髪で、しかもずいぶん長い。先に声を聞かなければ女の人かと思ったかもしれない。
その人はきょとんとしてララキを眺めていた。
ララキもララキで、しばらくその人をぼんやりと眺めていた。ちょっと不思議な、というか浮世離れした雰囲気のある人だったからだ。
「あ……ご、ごめんなさい! でも上手に避けてくれてよかった~」
「いや、こちらこそ、部屋を間違えたみたいで、急に入ってきてしまって申し訳ない」
彼はポケットから紙を取り出して部屋の番号を確認した。言ったとおり部屋を間違えただけのようで、一礼して出て行こうとする。
だがその腕をララキが思わず掴んだので、彼は不思議そうな顔で振り返った。
「えっと……なんでしょう?」
「あっあの、お兄さん、かなり上手いみたいだから、ひとつ質問してもいい?」
「え……ああ、どうぞ」
「ありがとう! あの、あたし今、制御の練習してるんだけど、ぜんぜんうまくいかなくて。さっきもちょっと水流を起こすだけのつもりがあんなことに……何かこう、制御するコツみたいなの、ある?」
優しそうな顔立ちの人だったのでだめもとで訊いてみたのだが、実際とても親切な人だったようで、彼はララキの質問を聞くなり真剣な顔で考え始めた。
彼もやはりわざわざ制御について考えたことなどなかったようで、すぐに回答は出なかった。
逆に「感覚でどうにかする」みたいな言葉で簡潔に済ませるようなこともしなかった。じっくり考えて、実際に紋唱をやるときのような動きを手元で再現しながら、どうだったかな、と呟いている。
その姿を見ながら、やっぱりハーシの人だ、とララキは思っていた。ミルン以外で初めてハーシ人を見た気がするが、それは今まで意識していなかっただけだろうか。
「難しい質問だけど……僕はいつも頭の片隅に故郷を思い浮かべている気がする。田舎の出なんで森や湖ばかりだけど、やはり僕にとってはいちばん安らげる情景なんだ。
心を故郷に帰すつもりで紋唱を行う。この行為には国境は関係がないからね。どこで紋章を描いても、その中に故郷が見える気がする。そうやって自分の根源を見つめ、僕は僕自身を見つけなおす……」
「え、えっと」
「ごめんね、話がうまくまとまらなくて。つまりその、自分が何者であるかをよく理解して、自分を制御するんだ」
彼は言った。紋唱が思ったようにならないのは、きっと自分を捉えられていないからだよ、と。
「僕にもちょっと覚えがあってね。スランプに陥るときは、たいてい自分が嫌いになっているときだった」
自分を信じてやってごらん。
そう言うと、彼は去っていった。ララキはお礼を言いながら見送った。
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やっぱり違うかもしれない、と思い始めているララキがいた。
何が違うって、樹の紋唱をやりながら制御の練習を始めたのはいいのだが、これが他の属性の紋唱にも応用できるかどうかと考えたら、それは違うと思うのだ。
なんといっても時間がかかる。単純に樹を生やすだけで、大きさにもよるが並木くらいのもの一本に五分くらいかかる。
比べて炎の紋唱だったら発動して火花が消えるまではものの数秒だ。そんなに長々と時間をかけてコントロールするようなものではないし、ちんたらやっている間に火は消える。
あと、樹を生やしてもなんにもならないということに気づいてしまった。
攻撃には使えないし、かといって防御に使うにも生え育つまでに時間がかかりすぎてどうしようもない。しいていえば梯子がわりに上るくらいか。
結論は出た。
ララキはべつに樹の紋唱が得意なのではない、ただ発動してからすぐに消えないので否応なしに時間をかけて制御できるだけである、という結論が。
結局振り出しに戻ってしまって頭を抱える。そんなこんなの訓練場二日目だった。
あのあとミルンが紋唱術師センターにかけあって、五日間は毎日同じ訓練場を借られるようになったというので、これからしばらく練習漬けの日々が続くララキである。
お祭りの日まで七日あるのに微妙に日数が足りないのは、やっぱりそういう行事に向けて観光目当ての旅の術師が増えるので、センターとしてもあまり長期で予約を取らせたくないからだろうか。
そんなわけで今日も朝から練習しているのだが、さっぱり上達していない。
図書館から借りてきた教本を片手にララキは唸る。学校などでも使われている正規の教本なのだが、そこには紋唱術の制御法についてこう書かれている。
「あなたの身体を大自然に預け、その中でこうあるべきとあなたが考える姿を想定し、そのように留意して紋唱を行う……ってなんじゃそりゃあ!?」
「要するに感覚でどうにかしろってことだよな。丁寧な言葉で言ってるだけで」
これにはミルンも苦笑いで聞いていた。ミルンにもわかるのだ、制御の感覚を言葉にするのは難しく、しかもそれを教本として万人に理解できるように言えとなると、結局こうしてふわっとした文言に落ち着いてしまうということが。
「大自然に預けってなんだよ~っ、あたしは元野生児だぞ~!?」
ララキは叫んだ。かつて屋根も床もない結界に囚われ、野ざらしで石の上に寝る生活をしていたララキなど、むしろ現在この大陸に生活するどんな人間より全身全霊を自然に預けてきたと言える。これ以上なにをどう預けろというのか。
それともこの十年あまりで人の社会に充分染まってしまったということだろうか。それはそれでいいと思うが。
とにかくこの教本は当てにならない。今日この練習が終わったらすぐに返しにいこうと決意し、ララキは教本を訓練場の隅に放った。
なお投げたり乱暴に扱うと本が傷むのでよい子はけして真似しないでください。
適当に紋唱をする。炎はやめて、今日は水でもやってみるか。
「水流の紋!」
言い放つと紋章が淡く光って、そこからぶくぶくと泡が出てきた。
もちろんそういう術ではない。相変わらず制御ができていないが、やはり苦手な属性の紋唱となると発動時のとんちんかんっぷりも増している感がある。
「もう一回、水流の紋!」
再挑戦すると今度はちょろっと水が出てきた。しかし困ったことにもうもうと湯気が立っている。
場合によってはお湯を噴出させるのもいいかもしれないが、意図していないのに沸騰した状態で出てこられるのは困る。あと量が少なすぎる。
なんでだ。なんでこんなことになるんだ。
一生懸命記憶を辿ってライレマに教わったことを思い出す。
丁寧に線を描きなさい、とはよく言われた。よく気持ちを込めて描けば必ず紋章は応えてくれる、とも。
ライレマはよくそういう言いかたをする人だった。紋章のことを生きもののように捉えているのだろうか。
あるいはその先に、何か──神のような存在を想定しているのか。
だとしたら、紋唱によって神と通じ、その力を借りているのだとすれば、ララキがありえないほどへったくそなのもそこに理由があるのではないか。
あらゆるクシエリスルの神にそっぽを向かれた異端児であるがゆえに、神々はララキの紋唱に力を貸してくれないのでは。
……あれ、これ詰んでるな? ララキの首筋を嫌な汗が流れ落ちる。
「おーいララキ、俺ちょっと昼飯買ってくるから、おまえは練習続けてろよ。どっちか残ってないと他のやつに横入りされるかもしれん」
「わかったー」
『じゃあオレたちも休憩すっかな』
ミルンが買出しに行き、彼の遣獣たちも引っ込み始めたので、ララキはひとり残される形になった。
プンタンもいるにはいるが、隅で寝ている。昨日はいろいろ感謝する場面もあったが今日はなんでこいつを遣獣にしてしまったんだという気持ちが尽きない。
まあ遣獣を増やすにしてもララキ自身の実力を伸ばさなければ無理な話だ。獣たちは術師の実力を測り、力を貸すに値すると判断しないと契約を結ばない。
しかし紋唱術は神との通信である説、という今ララキが思いついた仮説が正しいとしたら、ララキが上達するためには練習よりもまず力を貸してくれる神を探すほうが先だという気がする。
クシエリスルの神といっても大陸中にたくさんいるのだし、一人くらいシッカのようにララキの味方をしてくれる神がいてもいいのではないか。
もしくは、嫌な想像だが、ララキの紋唱術の腕はイキエスを出る前よりひどくなっている気がする。前から安定には欠けていたと思うが、旅に出ていろんな術師を見てきたせいか、改めて自分のへっぽこぶりを強く感じてしまうのだ。
それはつまり、ララキの紋唱術に力を貸しているのが他ならぬシッカで、彼が弱っているからこそ、この先もどんどんへっぽこが加速してしまうのではないか。
いや、いや、それはない。もしシッカの力を借りているのならせめて炎の紋唱だけは上手くないとおかしい。今のところ時間をかけられるぶん樹のほうが発動後の展開はまともだ。
しかし……いやでも……ううん……。
「考えたって仕方ないか」
かぶりを振って、紋唱の体勢に入る。ミルンの言葉を信じて練習あるのみ。まだ効果が感じられないけど。
もっともっと集中してやろう。深呼吸をして、ものすごくゆっくり紋章を描いた。線の一本一本を丁寧に、円は歪みの少ない丸になるよう意識して、きちんと繋げて描く。
それからイメージ。水がまっすぐ飛び出して、プンタンが寝ている訓練場の端まで届くまで出るところを想像する。
「プンタンをたたき起こせ、水流の紋!」
紋章がさあっと青く輝き、思っていたのと近い量の水が出てきた。勢いもなかなかいい感じだ。
やった! 思わずガッツポーズするララキだったが、そのとたんに水が途切れた。一気に水流は弱まってしまい、カエルをたたき起こすどころか、床を流れてプンタンの足元をちょっぴり塗らしただけに留まった。
ああああ。今度はその場に膝を衝く。
最後まで気を抜くなということだろうか。でも他の人はすぐ次の動作に移ったり、なんなら走ったりしながらだって紋唱ができるのに、こんなことにはならない。それともララキが異常に集中力の欠如した人間なのだろうか。
しかもあんなに長々と時間をかけて紋章を描く人などいない。ララキ唯一の美点である速さが完全に死んでいる。
愕然としながら、膝を衝いたままでいつもの感じで紋唱を使ってみた。紋章のほうはさっきに比べてだいぶ雑なものになったが、ぴゅるる、という感じの水流ができた。
その弱さでもいいからとにかくプンタンまで届け、としつこいくらいに念じてみるが、水はそこまでいかずに地面に流れた。
やっぱりララキの意志が反映されているわけではなく、集中力の問題でもなく、ただただ制御が覚束ないだけのようだ。
どうすりゃいいのよ。
精神的にすっかり疲れ果て、ちょっと泣きべそをかきつつ、もはややけくそで紋唱を続ける。もうプンタンが起きるまでやってやる。一回、二回、三回、……。
そうして何度目だったろうか。
またしてもララキの術は暴発した。炎ではないので爆発にはならなかったが、水流を通り越して滝としかいいようのない大量の水が、それはもうすごい勢いで噴き出したのだ。
しかもそのタイミングで誰かが訓練場に入ってくる。少し早いがミルンが戻ってきたのだろうか、ともかくララキには人影に向かって避けて!と叫ぶしかできなかった。
「──氷瓶の紋」
その誰かはすばやい動きで紋唱を行い、分厚く大きな氷の塊を出現させて水流の直撃を逃れた。
水はどんどんその塊の中に吸い込まれていく。初めて見る術だった。
あれ、とララキは違和感を覚える。声がミルンよりもちょっと低い気がしたのだ。
やがて水がすっかり消えると、そこには若い男の人が立っていた。やはりミルンではなかったが、彼によく似た暗い色の銀髪で、しかもずいぶん長い。先に声を聞かなければ女の人かと思ったかもしれない。
その人はきょとんとしてララキを眺めていた。
ララキもララキで、しばらくその人をぼんやりと眺めていた。ちょっと不思議な、というか浮世離れした雰囲気のある人だったからだ。
「あ……ご、ごめんなさい! でも上手に避けてくれてよかった~」
「いや、こちらこそ、部屋を間違えたみたいで、急に入ってきてしまって申し訳ない」
彼はポケットから紙を取り出して部屋の番号を確認した。言ったとおり部屋を間違えただけのようで、一礼して出て行こうとする。
だがその腕をララキが思わず掴んだので、彼は不思議そうな顔で振り返った。
「えっと……なんでしょう?」
「あっあの、お兄さん、かなり上手いみたいだから、ひとつ質問してもいい?」
「え……ああ、どうぞ」
「ありがとう! あの、あたし今、制御の練習してるんだけど、ぜんぜんうまくいかなくて。さっきもちょっと水流を起こすだけのつもりがあんなことに……何かこう、制御するコツみたいなの、ある?」
優しそうな顔立ちの人だったのでだめもとで訊いてみたのだが、実際とても親切な人だったようで、彼はララキの質問を聞くなり真剣な顔で考え始めた。
彼もやはりわざわざ制御について考えたことなどなかったようで、すぐに回答は出なかった。
逆に「感覚でどうにかする」みたいな言葉で簡潔に済ませるようなこともしなかった。じっくり考えて、実際に紋唱をやるときのような動きを手元で再現しながら、どうだったかな、と呟いている。
その姿を見ながら、やっぱりハーシの人だ、とララキは思っていた。ミルン以外で初めてハーシ人を見た気がするが、それは今まで意識していなかっただけだろうか。
「難しい質問だけど……僕はいつも頭の片隅に故郷を思い浮かべている気がする。田舎の出なんで森や湖ばかりだけど、やはり僕にとってはいちばん安らげる情景なんだ。
心を故郷に帰すつもりで紋唱を行う。この行為には国境は関係がないからね。どこで紋章を描いても、その中に故郷が見える気がする。そうやって自分の根源を見つめ、僕は僕自身を見つけなおす……」
「え、えっと」
「ごめんね、話がうまくまとまらなくて。つまりその、自分が何者であるかをよく理解して、自分を制御するんだ」
彼は言った。紋唱が思ったようにならないのは、きっと自分を捉えられていないからだよ、と。
「僕にもちょっと覚えがあってね。スランプに陥るときは、たいてい自分が嫌いになっているときだった」
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そう言うと、彼は去っていった。ララキはお礼を言いながら見送った。
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