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新たな風を連れて
86.月日が変えたもの
しおりを挟む3年という期間は、マリを取り巻く環境を大きく変え、現在は庭の手入れや通路の掃除などを行う下働きとして働くようになっていた。
当時、悪阻のように見えていた症状は、急激なストレスによるものだったようで─あの医師は、痩せすぎたせいで月のものが来なくなり、悪い気が下半身に滞ったためと言っていたけれど、1か月もすれば段々と食事が摂れるようになり、体調は見る見るうちに回復した。
元通りどころか、全体的にふんわりと肉付きが良くなり、月のものもきちんとした周期で来るようになってからは、肌の調子も気分も、すっかり良くなった。それでも、マリの白くなった髪を見た国王クリストバルは「神々の怒りに触れたからだ」とマリを警戒し、しばらく部屋を出るなという命令を下した。
健康なのに外へ出てはいけないと言われるといてもたってもいられず、庭や図書室へこっそりと抜け出したマリは、結局王城へ出入りする医師やメイドに何度か姿を目撃され、あの方はどこから来た来賓なのかと忽ち噂を立ててしまった。メイド達へ1度噂が流れてしまえば、そこから民へ流れていくことを止めるなんて、どんなに凶悪で意地の悪い裏の顔を持つクリストバルであってもできない。
当時話題に上がっていた夕闇姫なんてものは一瞬で忘れ去られ、皆すぐこの新たな登場人物に夢中になった。一時期は、「風に流されて飛んできた雪のようなお姫様」という意味の風花姫(かざはなひめ)などと呼ばれていたけれど、それは陛下の口からすぐにクロムの養女であると訂正された。
裏の顔をほとんど見せていなかったクリストバルが、自らの保身のために書類上の手続きをすっ飛ばし、『クロムの養女を体調不良のまま置いて働かせるわけにもいかず、貴賓室で預かっていた』と話したことで、マリは知らないうちに自分の居場所を手に入れていたのだった。
幸い、当初メイド達がささやいていた駆け落ちの夕闇姫は紺色の髪だけを目撃されていたため、白髪のマリが同一人物だとは思わなかったが、マリの心は複雑だった。もちろん、あの地獄の日々に戻らなくて済むことはとてもありがたかったけれど…この国に居続けなければならない理由も、自力では見つけきれずにいた。
・・・
「…マリアーッ!マリア!
ちょっとこっちへ来て!追加でバラを摘むのを手伝ってちょうだい!」
窓の外でマリを呼ぶのは、メアリだ。この城で働くメイド達は誰一人として彼女の年齢を知らないけれど、聞かずともかなりの高齢である。
クロムの養女という立場になったマリは、自分で自分の生計を立てていかなくてはいけなくなった。けれど、マリの出来る事と言ったら、組紐を編むことと、貴賓室から抜け出して読んでいた本に書いてあった知識を多少使う程度。
本当は頼りたくないと思いながらも他に頼れる人もおらず、仕方なくクロムに相談をしたところ、手が足りていない住み込みのメイド部屋を進められ、そのままマリアと名を変え、お針子やお洗濯、お掃除などのお仕事をする下級メイドとしての仕事を手に入れることが出来た。
この世界では、決められた職がなくてものらりくらりとその日暮らしで生きている人も沢山いるけれど、東京から来た斎藤茉莉としては、何か肩書を持っていたり、誰かに求められていたりしていないと、社会という大きな枠組みから自分だけがはみ出している気がしてとても落ち着かなかった。どんなに簡単な仕事だったとしても、決まった職を手に入れたことは、本当に嬉しい出来事だった。
「はーい!
園芸用のエプロンに変えて、すぐ行きます!」
考え事を巡らせながらアレンジを作っていたワイヤーを簡単にまとめ、まだアレンジしていない花々をバケツにごそっと戻す。園芸用のエプロンは普段使っているエプロンよりも厚手で、園芸鋏をポケットに入れても破れない丈夫な茶色いもの。よく擦れるところだけ色が変わっていて、相当年季が入っている。
メイド長のメアリは最年長で、誰よりもこの城の事をよく知っている。メアリはよく「みーんな、クロムにはだけ勝てないのよ」というけれど、クロムよりも噂に詳しくて年の功が勝っている分、マリはメアリのほうが強いと思っていた。もちろん、本気で。
最初は全く仕事のできない小娘だったマリも、3年の間には少しずつ任される仕事が増え、今ではメアリの片腕として立派に働くようになった。言われたことをただこなすのではなく、根拠を持って自分なりに工夫してやり方を変えたり、道具を変えたりするほうが、マリには向いているようだった。
下級メイドのようにただ指示された仕事だけをこなすよりも、こういう個人のセンスや経験を問われるような、クリエイティブな仕事のほうが得意だと気づいたのは、少し前の事だった。
カタリナの愚痴を聞きながら、ハイデル様にバレないように一生懸命髪紐を組んだ日々を思い出す。恋人が自分の事を思い出すことはもう無いとわかっていても、マリは毎日、笑顔の彼の姿に恋をしていた。
仕事が休みの日に遊ぶ友人のいないマリは、彼を思い出す日々の中でお揃いの髪紐をしたくて、自分の長い髪を結ぶための髪紐を作って使っていたら、メアリが欲しいと言い出し、今ではそれをきっかけに、この城の髪の長いメイドのほとんどがマリの髪紐をしている。
前に市場で出会った染物屋のハンナに「城でうちの染め物を宣伝しとくれよ!」とは言われたけれど、まさかこんな遠くで流行るとは、夢にも思わなかったな、と小さな笑いが溢れた。
・・・
たたたっと足早に納屋から出て、メアリの元へ駆け寄る。思っていたより早かったわ、と微笑んだマリアは、手をパンッと叩き、さぁさ始めましょ!と声をかけた。
「どうやら卓上花のバランスがクロムさんのお気に召さなかったみたいで…もう少し華やかにすることになったの。
マリアはそっちの大ぶりなバラを10本、明後日満開するくらいの開きのものを選んでちょうだい。」
メアリが今日、普段の倍以上のお花を摘んでいるのには、少し訳がある。
花が直接関係することではないけれど、エカードは今シュベルトとの国境が閉ざされている。理由はとても単純明快で、クリストバル陛下が企てた計画がシュベルト帝国─すなわちレオン陛下─へと伝わり、ご成婚から開かれていた両国の国境が、3年という期間を限定して封鎖されているからだ。
そして、この3年という期間は明日が最終日で、明日の両国の首脳会議で合意に繋がれば、明後日には再度国境が正常化されるという、その大事な会場の飾りつけの為の花を、メアリが摘んでいた。
私の事を思い出しているはずないのに、まだ宰相として務めていらっしゃるならば、きっとあの人もここへ来るだろうと思うと、マリは一瞬、あの日々に戻れるような気がして胸が高鳴った。
クリストバル陛下に抱かれ、クロムに調教をされていた回数は1度や2度ではない。彼らが忘れてしまっていても、マリの心の中には確かに大きな傷として残っている。
汚れてしまった自分をハイデルに知られたくない気持ちで、すぐに冷静さと恐怖を取り戻したマリは、せめて彼の視界を彩る花々の用意くらいは許してもらえますように…と、願いながら、ハイデルとその兄に似合いそうなクリーム色の大輪の薔薇を選んで摘んでいった。
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