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新たな風を連れて

85.存在しないはずの記憶 (side Heidel)

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─3年後、シュベルト帝国
 ヴェルヌ城 西の塔にて


 もう30歳だというのに、私は時折、胸が痛くなるほどの、幸せで悲しい夢を見る.
どんな娘とも恋に落ちたことなどないのに、熱く滾り、恋焦がれる感情を抱く夢。

 共に馬に乗って野山を駆けまわり、森を歩き、湖へ行く。時々神殿の泉に足を浸して、濡れた彼女を抱きしめたり、口付け、笑い合う。
 日差しを感じては彼女の笑顔を思い出し、月を見ては彼女の涙を思い出すような日々を過ごし、毎晩彼女の寝息を聞き、寝顔を見つめながら隣で眠る。

 そして最後はいつも、彼女が涙ながらに馬車に乗って、どこかへ行ってしまうところで目覚める、夢。

 目覚めたころには、名前はおろか、顔も姿も思い出せないが、ただその娘の存在が今この手のなかに無いことに、涙で枕を濡らしている。

 淡白宰相はよく言ったもので、どんな女性と見合いをしようとも、夢に出てくるその女性と比較してしまい、途端に興味が薄れる。そんな姿を見たメイドや執事から淡白だと揶揄られるのにも慣れている。見合いや紹介の話も減り、国民の平穏や平和を考えて仕事をしていくだけならば、別に伴侶が居らずとも生きていけるのだから、問題もない。



「…ハイデル様、アーリーモーニングティーをお持ちしました。」
「カタリナか。入れ。」

 カタリナは長くこの城で使えているメイドの一人だ。以前一度、数週間ではあるが、彼女はキッチンで務めていたこともあり、最近では朝のティーから夜までのほとんどの雑務を執事と仕事を二分して行ってくれているほど、とても有能だ。

「ハイデル様。今日もお変わりありませんか。
「あぁ、特に問題はない。カタリナは少し顔色が悪いように思うが…」

 まだ若いとはいえ、こき使ってきたのは私だ、倒れられて困るのも私だからこそ、侍従たちの体調は心配してしまう。

「あぁ…体調を心配させてしまうとは…大変申し訳ありません。

 実は最近、可愛い妹のような娘のような、幼い少女が泣いている夢を、よく見るんです。その夢を見ると、どうしても胸が痛くて。今朝も涙を流しながら目を覚ましてしまったので、どうもぼうっとしてしまって。」

 立ち位置は違えど、私の時折見るようになった夢とよく似ている。

「…ほう。それで、その娘はどんな風貌だ。」
「それが、夢の中ではとても現実味のある会話をするのですが、目を覚ますと決して思い出せないのです。それがまた、とても不思議で不思議で。」

「そうか。…実はな、私も同じようにある娘の夢を見るのだ。」

 カタリナはティーポットを落としそうなほどに驚き、ガタガタッと手を動かしてポットを支えた。

「そこまで動揺することは無いだろう。」

 カタリナ想定外の動揺にため息交じりの苦言を呈すと、カタリナは急につかつかと近寄って話しかけてきた。

「いえ、ハイデル様。心配をおかけした失礼ついでに申しますが、ハイデル様がこの夢を見ているということは、もしかするとこの方こそ、運命のお相手かもしれないということでございます。
ハイデル様はもう数えで31になられます。そろそろお相手を見つけていただかないと、このカタリナもいつまでお世話できるか…。それにお相手にだって理想というものはございます。ハイデル様がどんなに見目麗しい30代であられていたとしても、20代ではよろしくとも、30代では離れすぎていてお断りということだってありかねませんわ。それに…」

 今までの不満や心配が、堰を切ったように、あれよあれよと零れてくるカタリナの口。よくもこう早口で心配事を次から次へと並べることが出来るものだ。

「あぁわかった、わかったから…。いったん茶をくれ。」
「熱くなりましたわ、失礼いたしました。」

 一度軽くお辞儀をして砂時計が落ち切ったのを確認し、濃いめのアッサムを淹れたティーカップを机へ置いた。濃いめのアッサムにはミルクが合う。人肌程度に温めたミルクをしっかりと淹れ、香りを楽しみながら、朝を迎えたことを全身に伝える時間が心地良い。

「して、その夢の続きはどうなんだ?」
「わかりませんわ…。ただ、紺色の髪の背の低い少女だったようで…。」

 その情報は自分としても初めての情報だ。覚えていないから当たり前だが、思い出そうとしても記憶に靄がかかったように、少女を思い出せない。

「紺色?それはどこから知った。」
「いつも忘れてしまうから…と思って、喉が渇いて起きた時にメモを取ったんです。」

 あとは、15歳くらいで紫色の瞳だと書いていますねーと、くちゃくちゃになったメモを見ながら話すカタリナ。つい気になってその手からパシッとメモを奪うが、ミミズの這いつくばったような文字でとても読み取れなかった。

「あ…っもう!これは私にしか解読できませんよっ!」
「偉そうに言うな。」
「暗号みたいなものですから。」
「調子に乗っていると、日頃の業務でも怪我をするぞ。」

 んふふふ…と笑ってポットを握ったカタリナは、熱々のティーポットの持ち手と注ぎ口を逆さに持ちあげ、あまりの熱さに、びくん!と肩を上げた。

「……カタリナッ!…言ったそばから!」

 急いで水の魔術を呼び出してハンカチを濡らし、カタリナの手のひらにあてる。やけどをしてしまったかもしれないというのに、カタリナはお礼を言う前に、驚いた顔でハイデルの顔を見つめる。

「…っ!…ハイデル様、これ…これ!私今、デジャヴです!」

 急なデジャヴ宣言に、戸惑いを隠せない。初めに注がれてたティーはおしゃべりと火傷の救護で、もうだいぶぬるくなってしまった。残りをサッと飲みきってカタリナの話に耳を傾ける。

「さっきのあの女の子の話です!
 私…その娘を世話していたような、いや世話してるのはハイデル様なんですけど、その夢の中ではその娘をお世話していて。

 その娘に、さっきのハイデル様と同じように『いったそばから!』って、『そういうとこですよ!』って、叱ったことが…あったんです…多分。

 どんなシーンかもどこでの事かも、思い出せないんですけど、確かに叱って…その後、2人で顔を見合わせて大笑いしたんです…。」

 カタリナは、とてもわかりやすくうーんうーんとうなりながら、頭を抱えて思い出そうとしている。

「わかった。とりあえずお前は、顔色が悪いから半日休暇だ。この後の食事と着替えまで付き合ってくれたら、その後の仕事は他に振って帰って休め。」
「暇をくださるんですか!」

 喜ぶべきことではないというのに、嬉しそうな顔と悲しそうな顔を繰り替えるカタリナは忙しい。

「明日は朝早くの出立だ。出立前にさらに大火傷されたらかなわんからな。
…さっきの夢の話の礼だとでも思っておけばいい。」

 カタリナの運命という発言を真に受けているわけではないが、そう思いたくなるほど恋焦がれ愛しく思えている自分がいるのも確かで、そうであったらいいのにと願う気持ちはある。

「紺色の髪で、紫色の瞳の娘、か…」

 どんな風に笑うのか、どんな風に泣くのか、何も思い出せない自分を不甲斐なく思いながら、運命だというのなら早く会ってみたいものだと浮足立つ心を抑えきれない。いつもより軽い足取りで公室へと向かった。
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