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新たな風を連れて
90.許しを得るということ
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調印式では会合以上に多くの証人が必要なため、我々よりも先に、この調印の証人となるエカードの貴族らや、レオンの妻であるソフィア、名も知らぬ大臣や宗教関係者など10数名が先に部屋へ入り、調印席の真向かいに並んだ椅子へと着席する。
180センチ以上もあるレオンですら、見上げるほどに背の高い扉。ドアからまっすぐに伸びた真っ赤なカーペットは国境を表す様に2つの机の中央へと伸びている。全面に金色の装飾が施された扉は、ずずず…と音を立てて重苦しく両側へ開き、正装をしたクリストバルを先頭に、エカード国の大臣、そしてレオンが、机のほうへと案内された。その隣の席はハイデルの席だけれど、ほんの少しの事情があって空席となっている。
メイド達が椅子を引き、各々が席に着くと、レオンから「調印の前に我々から一言よろしいか。」と提案がなされた。
「クリストバル陛下、そしてお集まりの方々。
今回はこのような場を設けていただいたこと、シュベルトの民を代表して、深く感謝いたします。また、3年というこちらからの勝手な取り決めを容認し、断絶されていた国交を再び結ぶ日が迎えられましたこと、大変ありがたく思っております。
さて…昨日の会合において、『調印が行われれば、以後この国交再開は昼の刻の鐘をもって有効となり、再度両国の通行が制限なく行えることとする。』という内容で可決させていただいたのは皆さまも御存知の通りではございますが、1点だけ、我々からお願いがございます。
ハイデル、入りなさい。」
皇帝レオンは、入口ではない場所へ向かって話しかけ、自身の弟へ入室を促す。
今日の調印式に使う部屋は、普段クリストバルが晩餐の際に使う部屋のため、テーブルセッティング用のダスターやカトラリーを仕舞うような用途で使用するための、小さな窪みのようなエリアがある。
それを逆手に取ったハイデルは、マリとその場所に隠れ、出番の時を待っていた。
ソフィアの悪巧みである、ドレスへの着替えを済ませたマリは、クリーム色のシルク製で長袖のシンプルなドレスを着て、薄っぺらい壁の前に立つハイデルの腕の中で恥ずかしそうにしながら、静かに抱かれている。
マリには何が悪巧みなのかと思われていたが、このドレスは以前、ソフィアが兄の元へ輿入れする儀式に着用して以来、この城の玄関ホールで大切に保管されていたドレスであった。即ち、レオンがソフィアに贈ったウェディングドレスのうちの1着で、現在はこの国の国宝として扱われているドレスだ。
本来ならばウェディングドレスなど、贅の限りを尽くして誂え、相手が自分だけのものになったのだと、人々へ見せつけるために着せるものだから、ハイデルだけはいい気分ではない。
もし、彼女がこれをウェディングドレスだという意識を持って着ていたら、例え兄が義姉に贈ったもののお古だとしても許せないし、ウエストを絞る様に巻かれた太めのリボンを今すぐ解いて丸裸にしてやりたいけれど…ここは抑えなくてはならない。
お古とはいえ、なかなかに意地の悪い義姉だとは思ったが、「事実を伝えると逃げてしまいそうなほど心配していましたので、彼女にはその事実を伝えずに連れてきましたわ。」と聞いて、本当に敵に回してはいけないのはこの義姉だと即座に理解した。
レオンがハイデルを呼ぶ声を聞いて、一度深呼吸し、さぁ行くぞと声をかけると、マリもこくりと頷く。この部屋の壁紙がそのまま続く様に貼られただけの小さな窪みから、マリの手を引いてゆっくりと中央のカーペットまで歩を進める。
その距離は実に数歩だが、大半の参加者はマリのドレスに気付き、ざわつきが大きくなる。騒然とした空気の中では、この数歩がマリにはかなりの歩数に感じられた。
「お待たせして申し訳ありません、クリストバル陛下ならびにエカード王国の諸貴族の皆様。
シュベルト帝国、宰相のハイデル・ルイス・グリンデンベルグと申します。
そしてこちらは、現在国王陛下にお仕えされている執事殿の養女、マリア・ルードリヒ。以前は、マリという名の、平民です。」
後ろに控えたマリを紹介すると、バタン!という音を立てて一脚の椅子が倒れる。詰襟のような黒い礼服を着たクリストバルが、唇をフルフルと震わせ、怒りか驚きかで、顔を赤らめて立ち上がっているのが見える。
兄上とソフィアは嬉しそうににっこりと笑っているが、そのほかの貴族達は皆それぞれに顔を真っ青にしたり、手をワナワナと震わせたりしている。
「お前、達……。」
「彼女がこちらへ来ることになった経緯については、一部の者が知っておりますので割愛いたしますが、私はこの国で彼女と恋に落ちてしまい、彼女がシュベルト帝国へ来ることを願っています。
メイドとしての職を辞し、シュベルトへ行っても良いというお許しを今、この場で、頂戴できませんでしょうか、……国王クリストバル陛下。」
しっかりと前を見据えながらも細かく震えるマリに、大丈夫だよと伝わる様に、振り返ることなく手をぎゅっと握る。クリストバルの許しを、という言葉に会場内は一気に静まった。しんと静まった空気に、窓の外の鳥の囀りだけが小さく響く。
記憶が戻ったということを知らなかったクリストバルは、平然を装いながらも、とても動揺していた。クロムからマリは彼らに会う気がないという話を聞いたことも影響し、クリストバルはその話が上がらないように必死で手回しをしていたため、自分の企ての失敗を悟った。
「そ、その者を譲るならば、国交の回復に合意すると、それでいいのか?
…ハイデル殿。」
額にはいくつもの汗が吹き出し、呂律も普段より回っていない。それでもこの場を取り繕おうと何とか言葉を紡ぐが、自分の一言で今日の調印式がおじゃんになることを知っているからこそ、なかなか言葉を選べない様子だ。
「お兄様、譲るとはお言葉が過ぎますわ。マリさんがこちらへ来たいというならば叶えると、そう仰っていただければ良いのです。」
ソフィアまでもが立ち上がり、にっこりと微笑んで兄を煽る。
「と、当事者のマリはどう…なのだ。それでいいのか?」
いままで会話の輪の中にいなかったマリに話が飛び、全員の目が一斉にマリへ向く。ハイデルが顔を見つめておらずとも、繋ぎ続けているマリの手から伝わる感情は多い。
「…私…は…。」
マリは緊張のせいか少し掠れた声で、ぽつり、ぽつり、と意思を示す。貴族に囲まれていようが、大多数が恐れる皇帝と話そうが、ちっとも怖がっていなかった彼女なら、ここでも話せると思って連れてきた。信じているからこそ振り向かず、前を向いて国王への圧をかけたまま、彼女の言葉に耳を傾ける。
「ハイデル様と共に、シュベルトへ…行きたい、と…思って、います…。」
…はぁ、はぁ、という彼女の息遣いから、強い緊張を感じるほど静まった2秒ほど後だろうか。ソフィア様が大きく拍手をしたのを皮切りに、クリストバル以外のほぼ全ての参加者がマリに対し、割れんばかりの拍手を送る。
「お兄様、いかがですか。共に行きたいという、私の義弟とこの者の願いを、叶えてはいただけませんか。」
誰よりもかわいくて仕方のない妹、隣国の皇帝、そして向かいにいる自身が元凶としてしまった娘に見つめられたクリストバルに、この期に及んで逃げられる場所などない。
「……ここで、断るという選択肢は、ないようだな。
いいだろう、彼女が望むのならば……我々は、それを歓迎し、支援しよう。手続きは、私の執事でその者の養父であるクロムに任せる。」
クリストバルの言葉を漏らさず聴こうと一度静かになっていた観衆から一斉にわぁっと声が上がり、室内は祝福ムードに染まった。
180センチ以上もあるレオンですら、見上げるほどに背の高い扉。ドアからまっすぐに伸びた真っ赤なカーペットは国境を表す様に2つの机の中央へと伸びている。全面に金色の装飾が施された扉は、ずずず…と音を立てて重苦しく両側へ開き、正装をしたクリストバルを先頭に、エカード国の大臣、そしてレオンが、机のほうへと案内された。その隣の席はハイデルの席だけれど、ほんの少しの事情があって空席となっている。
メイド達が椅子を引き、各々が席に着くと、レオンから「調印の前に我々から一言よろしいか。」と提案がなされた。
「クリストバル陛下、そしてお集まりの方々。
今回はこのような場を設けていただいたこと、シュベルトの民を代表して、深く感謝いたします。また、3年というこちらからの勝手な取り決めを容認し、断絶されていた国交を再び結ぶ日が迎えられましたこと、大変ありがたく思っております。
さて…昨日の会合において、『調印が行われれば、以後この国交再開は昼の刻の鐘をもって有効となり、再度両国の通行が制限なく行えることとする。』という内容で可決させていただいたのは皆さまも御存知の通りではございますが、1点だけ、我々からお願いがございます。
ハイデル、入りなさい。」
皇帝レオンは、入口ではない場所へ向かって話しかけ、自身の弟へ入室を促す。
今日の調印式に使う部屋は、普段クリストバルが晩餐の際に使う部屋のため、テーブルセッティング用のダスターやカトラリーを仕舞うような用途で使用するための、小さな窪みのようなエリアがある。
それを逆手に取ったハイデルは、マリとその場所に隠れ、出番の時を待っていた。
ソフィアの悪巧みである、ドレスへの着替えを済ませたマリは、クリーム色のシルク製で長袖のシンプルなドレスを着て、薄っぺらい壁の前に立つハイデルの腕の中で恥ずかしそうにしながら、静かに抱かれている。
マリには何が悪巧みなのかと思われていたが、このドレスは以前、ソフィアが兄の元へ輿入れする儀式に着用して以来、この城の玄関ホールで大切に保管されていたドレスであった。即ち、レオンがソフィアに贈ったウェディングドレスのうちの1着で、現在はこの国の国宝として扱われているドレスだ。
本来ならばウェディングドレスなど、贅の限りを尽くして誂え、相手が自分だけのものになったのだと、人々へ見せつけるために着せるものだから、ハイデルだけはいい気分ではない。
もし、彼女がこれをウェディングドレスだという意識を持って着ていたら、例え兄が義姉に贈ったもののお古だとしても許せないし、ウエストを絞る様に巻かれた太めのリボンを今すぐ解いて丸裸にしてやりたいけれど…ここは抑えなくてはならない。
お古とはいえ、なかなかに意地の悪い義姉だとは思ったが、「事実を伝えると逃げてしまいそうなほど心配していましたので、彼女にはその事実を伝えずに連れてきましたわ。」と聞いて、本当に敵に回してはいけないのはこの義姉だと即座に理解した。
レオンがハイデルを呼ぶ声を聞いて、一度深呼吸し、さぁ行くぞと声をかけると、マリもこくりと頷く。この部屋の壁紙がそのまま続く様に貼られただけの小さな窪みから、マリの手を引いてゆっくりと中央のカーペットまで歩を進める。
その距離は実に数歩だが、大半の参加者はマリのドレスに気付き、ざわつきが大きくなる。騒然とした空気の中では、この数歩がマリにはかなりの歩数に感じられた。
「お待たせして申し訳ありません、クリストバル陛下ならびにエカード王国の諸貴族の皆様。
シュベルト帝国、宰相のハイデル・ルイス・グリンデンベルグと申します。
そしてこちらは、現在国王陛下にお仕えされている執事殿の養女、マリア・ルードリヒ。以前は、マリという名の、平民です。」
後ろに控えたマリを紹介すると、バタン!という音を立てて一脚の椅子が倒れる。詰襟のような黒い礼服を着たクリストバルが、唇をフルフルと震わせ、怒りか驚きかで、顔を赤らめて立ち上がっているのが見える。
兄上とソフィアは嬉しそうににっこりと笑っているが、そのほかの貴族達は皆それぞれに顔を真っ青にしたり、手をワナワナと震わせたりしている。
「お前、達……。」
「彼女がこちらへ来ることになった経緯については、一部の者が知っておりますので割愛いたしますが、私はこの国で彼女と恋に落ちてしまい、彼女がシュベルト帝国へ来ることを願っています。
メイドとしての職を辞し、シュベルトへ行っても良いというお許しを今、この場で、頂戴できませんでしょうか、……国王クリストバル陛下。」
しっかりと前を見据えながらも細かく震えるマリに、大丈夫だよと伝わる様に、振り返ることなく手をぎゅっと握る。クリストバルの許しを、という言葉に会場内は一気に静まった。しんと静まった空気に、窓の外の鳥の囀りだけが小さく響く。
記憶が戻ったということを知らなかったクリストバルは、平然を装いながらも、とても動揺していた。クロムからマリは彼らに会う気がないという話を聞いたことも影響し、クリストバルはその話が上がらないように必死で手回しをしていたため、自分の企ての失敗を悟った。
「そ、その者を譲るならば、国交の回復に合意すると、それでいいのか?
…ハイデル殿。」
額にはいくつもの汗が吹き出し、呂律も普段より回っていない。それでもこの場を取り繕おうと何とか言葉を紡ぐが、自分の一言で今日の調印式がおじゃんになることを知っているからこそ、なかなか言葉を選べない様子だ。
「お兄様、譲るとはお言葉が過ぎますわ。マリさんがこちらへ来たいというならば叶えると、そう仰っていただければ良いのです。」
ソフィアまでもが立ち上がり、にっこりと微笑んで兄を煽る。
「と、当事者のマリはどう…なのだ。それでいいのか?」
いままで会話の輪の中にいなかったマリに話が飛び、全員の目が一斉にマリへ向く。ハイデルが顔を見つめておらずとも、繋ぎ続けているマリの手から伝わる感情は多い。
「…私…は…。」
マリは緊張のせいか少し掠れた声で、ぽつり、ぽつり、と意思を示す。貴族に囲まれていようが、大多数が恐れる皇帝と話そうが、ちっとも怖がっていなかった彼女なら、ここでも話せると思って連れてきた。信じているからこそ振り向かず、前を向いて国王への圧をかけたまま、彼女の言葉に耳を傾ける。
「ハイデル様と共に、シュベルトへ…行きたい、と…思って、います…。」
…はぁ、はぁ、という彼女の息遣いから、強い緊張を感じるほど静まった2秒ほど後だろうか。ソフィア様が大きく拍手をしたのを皮切りに、クリストバル以外のほぼ全ての参加者がマリに対し、割れんばかりの拍手を送る。
「お兄様、いかがですか。共に行きたいという、私の義弟とこの者の願いを、叶えてはいただけませんか。」
誰よりもかわいくて仕方のない妹、隣国の皇帝、そして向かいにいる自身が元凶としてしまった娘に見つめられたクリストバルに、この期に及んで逃げられる場所などない。
「……ここで、断るという選択肢は、ないようだな。
いいだろう、彼女が望むのならば……我々は、それを歓迎し、支援しよう。手続きは、私の執事でその者の養父であるクロムに任せる。」
クリストバルの言葉を漏らさず聴こうと一度静かになっていた観衆から一斉にわぁっと声が上がり、室内は祝福ムードに染まった。
応援ありがとうございます!
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