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01:昇進旅行で一喜一憂
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「あっ……恥ずかし……っ」
「どこが恥ずかしいの?綺麗だよ、雫」
すらっとしていて骨ばった腕が、雫の体のラインをなぞり、するりと下着を下げた。艶やかなシーツの上で肌を寄せ合うふたりはもう十分すぎるほどに火照り、次の展開を求め合っていた。緩やかな癖のあるチョコレート色の髪はシーツの上に広がっている。自分を押し倒した相手へ向かって手を伸ばして小さな声で「もっと」と伝えると、彼の指は容赦なく熱い刺激を与えてきた。
「隆介さん……好き」
「俺も、好きだ……雫」
「あ、だめ……今そこ、触られたら……!」
「雫のナカ、奥まですごく柔らかい。包み込まれてるみたいだよ」
肌と肌が吸い寄せられるような不思議な感覚。まるでパズルのピースのように、彼の体の曲線に自分の体がピタッとはまっている気がする。元彼には不感症だと罵られた自分が、まさか会ったばかりの男性をこんなにも求めてしまうなんて、いつ想像しただろう。
◇◇◇
――ハルシュタット(オーストリア)
白波瀬 雫26歳、初めての海外旅行。
婚前旅行を傷心旅行に切り替え、7泊の一人旅中。憧れのオーストリアへは、本来ならもっと華やかな気持ちで来たかった。けれど、キャンセルを伝えた代理店からは「このタイミングだと返ってくるのは数万円です」と告げられ、こうなったら満喫してやろうと朝から晩まで予定を詰め込んだ。
ドイツ語はこの憧れの地で地元の人と触れ合いたい一心で必死に勉強したから、小学生レベルであれば話せる。女1人でも何とかなる……いやむしろ彼と一緒なら気を使って楽しめなかったであろう弾丸観光スポット巡りや音楽鑑賞もできる。
「なんだかんだ、一人で正解だったかも。あんなやつと来てたら、ろくに観光できなかったはずだし」
早朝、ワクワクとしながら山沿いを走る電車に乗り、大好きな映画の冒頭のシーンに出てくる丘を一望できる場所を満喫したり、ロープウェイに乗ってさらに標高の高い物見台を回ったり。傷心旅行だったということすら忘れて自然を謳歌した。
湖畔を散歩していた時に、事件は起きた。
岩場で足を滑らせた雫は自分の足元で、ぽちゃんという嫌な音を聞いた。
「えっ……あっ!わ!私のスマホ……っ待って!!」
ひらひらと湖底へ落ちていく銀色のプレートは、紛れもなく雫のもの。写真を撮ろうと開いていた画面は水中でも光っていたけれど、軽く手を伸ばすくらいじゃ届かないほどの深さまで落ちてしまえば、もうどこにあるのか見当もつかない。それでも本体を拾えばなんとかなるかもしれないと思った雫は、ザブザブと膝上まで水に使って、なんとか電源の落ちた水没スマホを回収した。
全てのデータを失った。この数日間の写真も、現地のバーで聴いた音楽も、航空チケットも、何もかも。
この街に家電屋はないし、wifiは空港のラウンジで一度繋いだっきりだから、おそらくバックアップも見込めない。待望のハルシュタットの思い出は、記憶に残しておくしかない。スリや強盗にあったわけでも、盗難にあったわけでもない。ただ自分の不注意が原因だとわかっているから、余計にこたえる。自分を責めても仕方ないこともわかっているけれど、それでも自分を責めるしか無かった。
スマホが壊れたというだけで、雫の旅行計画は完全に狂ってしまった。近くの観光名所やそこへの行き方はおろか、難しい言葉を調べることすらできない。依存度は低いな、なんて思っていた自分ですらこんなものかと笑えてしまう。
「もうほんっとにバカ……残りの3日、どうしよう」
湖に面した街は山々に囲まれた小さな村で、昔から住んでいる人たちと修道院のある市街地エリア、そして観光客向けに建物を残してホテルにした宿泊エリアに分かれている。その2つのエリアを結ぶのは小さなボートだけで、1日2往復の船に乗れなければ簡単に移動することもできない。夕暮れ前だからまだ宿泊エリア行きの船には間に合いそうだけれど、その後のことを考えると悲しくなる。
「誰とも連絡取れないし、っていうかびしょ濡れだし、そもそも乗せてくれなかったら?意思疎通どうしよう……」
口に出せば出すほど、不安な感情が増していく。トボトボと連絡船乗り場の近くへ行くと、湖を一望できるデッキに日本人らしき男性が座っていた。ドイツへ降り立った時は案外多かったけれど、オーストリアに入ってからというもの、日本人にはほとんど出会っていない。
(悲しげな表情だけど……もしかしてあの人もスマホを落としたとか?いや、まさかね。ううん、でも心配だし……)
「あの……嫌なことあっても早まっちゃダメですよ。スマホは日本に帰ればなんとかなりますし、面倒だったり無駄に思えることも、今は必要なタイミングじゃないだけで、いつか『あの経験しててよかった』って思える日が来ますから!」
30代後半らしき男性に雫は大きな声で慰めの言葉をかけた。男性は雫の弾丸トークに驚いた表情をしている。長めの髪を後ろでまとめ、ゆるりとしたロングTシャツ1枚の姿は、「クリエイターです」と言わんばかりの雰囲気。奥二重の目は、何度か瞬きをしていた。
「あっ、いや、ごめんなさい、何もないならいいんです!私おせっかいで、いつもすぐ声かけちゃって……失礼しました!」
「えっと……君は?」
「あ、白波瀬 雫と言います。旅行でこっちにきてて、日本人珍しくて……つい」
「あぁ。なるほどね」
「なんかすみません」と謝った途端、濡れたデッキで足を滑らせ、バランスを崩した。「私はここでも滑るのか……」と後悔したけれど、雫が目を閉じても大きな衝撃はない。
恐る恐る目を開けると、彼の見た目よりもしっかりとした腕が肩をしっかりと支えてくれ、間一髪で転倒を免れていた。が、端正な顔立ちが目の前にあり、まるでキスされるのかと思うほど近づいたことで、雫の胸は走り出したように鼓動を早めた。
「あ、離して……ください」
「あぁ、ごめんごめん。大丈夫?」
「っはい、大丈夫……です!」
「湖はまだ冷たいから、落ちないようにね」
「あ、はい……」
何かを見つめていたはずの彼は、雫に一言残して立ち去ろうとした。
「あっ……あの!」
彼とまだなんとなく話していたくて、振り返ってくれることを期待して声をかけると、彼は体を前に向けたまま軽くこちらを振り返った。
「あの、すみません!スマホ……貸してもらえませんか」
「え、スマホ?」
「はい、もしくは航空会社に電話……とか」
「うーん……どういうこと?」
「恥ずかしながら実は……」と話す雫の言葉を、初対面の彼はうんうんと聞いてくれた。婚約中だった彼に浮気され、婚前旅行を傷心旅行として一人旅しているという話では「あぁ…」と同情し、滑ってスマホを落として……という話には「うわっ!」と反応してくれるあたり、案外悪い人ではなさそうだ。
「っくく……はははっ……!」
「そんな、笑わなくても……」
「いや、これは笑うでしょ。俺の心配してた君の方が、今は何倍も大変そうじゃん。うち、すぐそこだからおいで」
頼れる人のいないこの土地で、日本語が通じる人に出会えるだけでもありがたい。助けてくれるという言葉を怪しむこともなく、雫は彼の後ろをついて行くことにした。すぐそこ、という言葉は本当で、彼は20秒ほど歩いたところにある2階建てのログハウスに案内してくれた。誰がどう見たってそれは、立派な一軒家だ。
「うち……?自宅……?」
「ん?あぁ。貸別荘だよ、何人かでシェアするタイプの」
「海外、慣れてるんですね」
「まぁ、職業柄色々と移動することが多くて。ホテルは気が散るから苦手なんだ」
「へえ……あの、お名前聞いてもいいですか?」
「……近衛 隆介。適当に呼んでくれて良いよ」
グレーの厚い名刺を一枚渡された。Ryusuke Konoeという名前と、メールアドレスが書いてあるだけのシンプルな活版印刷。なんの狙いがあるのか、肩書きどころか社名すらも書いていない。雫は受付案内という仕事柄、何枚もの名刺をもらうことがある。けれど、こんなにも情報のない名刺は初めてだった。何をやっている人なのかわからない名刺の存在意義を考えてしまった。
「で、湖で濡れたんでしょ?寒くない?」
「あ、もうだいぶ、乾いてるので大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
荷物は少ない方なのか、数日の宿泊なのか、彼が持ち込んだと思われる荷物は1週間用くらいのサイズの黒いキャリーバックが1つだけ。8人掛けくらいの机には銀色のラップトップとヘッドホンが使いっぱなしで置かれていた。ますます謎が深まったけれど、身につけているものや小物の質が良さげなところを見ると、初見の「クリエイターっぽい」という感想もあながち間違っていないのかもしれない。
「きっと冷えただろうから」と出してくれたミルクティーはミルクたっぷりで、体の芯から温まる。今は名前とメールアドレスしか知らない関係でも、本当に悪い人はこんな美味しいミルクティ淹れてくれないはず、なんて楽天的に考えることにした。
「で、スマホ貸せばいいの?それで解決する?」
「えっと、飛行機は決済してあるので、発券番号さえわかればなんとかなるかなって」
「なるほどね。そういうことなら、はいこれ」
彼は雫の使い慣れたスマホと同じメーカーのスマホを差し出した。ほぼ初期画面のまま、何もダンロードされずシンプルに使われているらしい画面。インターネットブラウザを開いて、予約確認ページへ飛ぶ。
「あ、ダメでした……予約番号、メールに届いてるけど見れないんだった……」
「ん、そっか。それなら航空会社に直接電話だな。今日本は深夜だから、明日の朝早めに起きて電話すれば繋がるはずだよ」
ここですぐに解決できると思っていたのに、一筋縄では行かないらしい。珍事件に落ち込んでいる雫の頭を、彼は優しくポンっと叩いて慰めた。
「パッケージならホテル代は込みだよね?こっち泊まっていけば?」
「え、でも……」
「この街のホテルがある通りは向こう岸だろ?朝早く、こっちに来る手段なんてある?それとも、俺をその部屋まで連れてく?」
「う、ごめんなさい。それはちょっと」
「じゃ、決まり。そこの階段上がったとこが寝室。ドアに鍵ついてるから、ちゃんと鍵閉めるんだよ?……開けて寝るなら、俺はそういうことって捉えるから」
「……はい、えっ?!」
「ははっ……冗談。俺、もう少し外にいるから、適当にくつろいでていいよ。風呂は1階の奥だから、置いてあるものは好きに使って」
軽く笑いながら、彼はヘッドホンとカーディガンを手に取って外へと歩いていった。傷心中だったはずなのに、今はなぜかこんなにもドキドキしている。彼の言葉が本気だったのか、冗談なのか、経験の乏しい雫にはさっぱり理解できなかった。
◇◇◇
「……おはよう。よく眠れたみたいだね」
静かな低い声の挨拶で目が覚める。泊まっていっていいと言ってくれた家主は、ベッドサイドに座ってこちらを見つめていた。
「……鍵をかけなかったね?」
「っ?!」
「雫ちゃん、すごく可愛い顔して寝てたよ。」
昨日は一日中歩き回っていて疲れていたせいで、お風呂を借りた後の記憶がない。くたくたでベッドに倒れ込んだまま爆睡していて、ドアのことまで頭が回っていなかった。
「いやっ、その、私、そういうことじゃなくて……!」
「ん、そうだろうね。疲れてるだろうなと思って、流石に手は出さなかったんだ。褒めて欲しいくらいだよ」
「ま、バカンスでこんなおじさんに手を出されちゃ困っちゃうだろうしね」と笑う彼。コーヒーいる?と聞いてくれたので、欲しいですと答えた。
「でも……じゃない、です」
「ん?」
「あの……っ近衛さんは、おじさん……じゃないです。優しいし、素敵だし」
「ふーん……可愛い子にそういうこと言われると、手を出したくなるな」
コーヒーの入ったマグを手にしていた隆介はサイドテーブルにマグを預け、雫の後頭部を片手で掴むようにしてキスをしてきた。
「……んっふ!……んんん?!」
「気を許すとこういうことされちゃうから、簡単に男をを褒めるものじゃないよ。……ましてや海外ではね」
先手を取った隆介はニッと笑って立ち上がり、「コーヒー淹れてくるから、そこの服着て降りておいで」と呟いてリビングへと去っていった。
「なん……なの?」
触れるような軽いものだったとはいえ、彼からの突然の行為で全ての思考が停止する。わかっているのは、この胸が確かに今、ドキドキと高速で鼓動を鳴らしているということだけだ。
「どこが恥ずかしいの?綺麗だよ、雫」
すらっとしていて骨ばった腕が、雫の体のラインをなぞり、するりと下着を下げた。艶やかなシーツの上で肌を寄せ合うふたりはもう十分すぎるほどに火照り、次の展開を求め合っていた。緩やかな癖のあるチョコレート色の髪はシーツの上に広がっている。自分を押し倒した相手へ向かって手を伸ばして小さな声で「もっと」と伝えると、彼の指は容赦なく熱い刺激を与えてきた。
「隆介さん……好き」
「俺も、好きだ……雫」
「あ、だめ……今そこ、触られたら……!」
「雫のナカ、奥まですごく柔らかい。包み込まれてるみたいだよ」
肌と肌が吸い寄せられるような不思議な感覚。まるでパズルのピースのように、彼の体の曲線に自分の体がピタッとはまっている気がする。元彼には不感症だと罵られた自分が、まさか会ったばかりの男性をこんなにも求めてしまうなんて、いつ想像しただろう。
◇◇◇
――ハルシュタット(オーストリア)
白波瀬 雫26歳、初めての海外旅行。
婚前旅行を傷心旅行に切り替え、7泊の一人旅中。憧れのオーストリアへは、本来ならもっと華やかな気持ちで来たかった。けれど、キャンセルを伝えた代理店からは「このタイミングだと返ってくるのは数万円です」と告げられ、こうなったら満喫してやろうと朝から晩まで予定を詰め込んだ。
ドイツ語はこの憧れの地で地元の人と触れ合いたい一心で必死に勉強したから、小学生レベルであれば話せる。女1人でも何とかなる……いやむしろ彼と一緒なら気を使って楽しめなかったであろう弾丸観光スポット巡りや音楽鑑賞もできる。
「なんだかんだ、一人で正解だったかも。あんなやつと来てたら、ろくに観光できなかったはずだし」
早朝、ワクワクとしながら山沿いを走る電車に乗り、大好きな映画の冒頭のシーンに出てくる丘を一望できる場所を満喫したり、ロープウェイに乗ってさらに標高の高い物見台を回ったり。傷心旅行だったということすら忘れて自然を謳歌した。
湖畔を散歩していた時に、事件は起きた。
岩場で足を滑らせた雫は自分の足元で、ぽちゃんという嫌な音を聞いた。
「えっ……あっ!わ!私のスマホ……っ待って!!」
ひらひらと湖底へ落ちていく銀色のプレートは、紛れもなく雫のもの。写真を撮ろうと開いていた画面は水中でも光っていたけれど、軽く手を伸ばすくらいじゃ届かないほどの深さまで落ちてしまえば、もうどこにあるのか見当もつかない。それでも本体を拾えばなんとかなるかもしれないと思った雫は、ザブザブと膝上まで水に使って、なんとか電源の落ちた水没スマホを回収した。
全てのデータを失った。この数日間の写真も、現地のバーで聴いた音楽も、航空チケットも、何もかも。
この街に家電屋はないし、wifiは空港のラウンジで一度繋いだっきりだから、おそらくバックアップも見込めない。待望のハルシュタットの思い出は、記憶に残しておくしかない。スリや強盗にあったわけでも、盗難にあったわけでもない。ただ自分の不注意が原因だとわかっているから、余計にこたえる。自分を責めても仕方ないこともわかっているけれど、それでも自分を責めるしか無かった。
スマホが壊れたというだけで、雫の旅行計画は完全に狂ってしまった。近くの観光名所やそこへの行き方はおろか、難しい言葉を調べることすらできない。依存度は低いな、なんて思っていた自分ですらこんなものかと笑えてしまう。
「もうほんっとにバカ……残りの3日、どうしよう」
湖に面した街は山々に囲まれた小さな村で、昔から住んでいる人たちと修道院のある市街地エリア、そして観光客向けに建物を残してホテルにした宿泊エリアに分かれている。その2つのエリアを結ぶのは小さなボートだけで、1日2往復の船に乗れなければ簡単に移動することもできない。夕暮れ前だからまだ宿泊エリア行きの船には間に合いそうだけれど、その後のことを考えると悲しくなる。
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口に出せば出すほど、不安な感情が増していく。トボトボと連絡船乗り場の近くへ行くと、湖を一望できるデッキに日本人らしき男性が座っていた。ドイツへ降り立った時は案外多かったけれど、オーストリアに入ってからというもの、日本人にはほとんど出会っていない。
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「あの……嫌なことあっても早まっちゃダメですよ。スマホは日本に帰ればなんとかなりますし、面倒だったり無駄に思えることも、今は必要なタイミングじゃないだけで、いつか『あの経験しててよかった』って思える日が来ますから!」
30代後半らしき男性に雫は大きな声で慰めの言葉をかけた。男性は雫の弾丸トークに驚いた表情をしている。長めの髪を後ろでまとめ、ゆるりとしたロングTシャツ1枚の姿は、「クリエイターです」と言わんばかりの雰囲気。奥二重の目は、何度か瞬きをしていた。
「あっ、いや、ごめんなさい、何もないならいいんです!私おせっかいで、いつもすぐ声かけちゃって……失礼しました!」
「えっと……君は?」
「あ、白波瀬 雫と言います。旅行でこっちにきてて、日本人珍しくて……つい」
「あぁ。なるほどね」
「なんかすみません」と謝った途端、濡れたデッキで足を滑らせ、バランスを崩した。「私はここでも滑るのか……」と後悔したけれど、雫が目を閉じても大きな衝撃はない。
恐る恐る目を開けると、彼の見た目よりもしっかりとした腕が肩をしっかりと支えてくれ、間一髪で転倒を免れていた。が、端正な顔立ちが目の前にあり、まるでキスされるのかと思うほど近づいたことで、雫の胸は走り出したように鼓動を早めた。
「あ、離して……ください」
「あぁ、ごめんごめん。大丈夫?」
「っはい、大丈夫……です!」
「湖はまだ冷たいから、落ちないようにね」
「あ、はい……」
何かを見つめていたはずの彼は、雫に一言残して立ち去ろうとした。
「あっ……あの!」
彼とまだなんとなく話していたくて、振り返ってくれることを期待して声をかけると、彼は体を前に向けたまま軽くこちらを振り返った。
「あの、すみません!スマホ……貸してもらえませんか」
「え、スマホ?」
「はい、もしくは航空会社に電話……とか」
「うーん……どういうこと?」
「恥ずかしながら実は……」と話す雫の言葉を、初対面の彼はうんうんと聞いてくれた。婚約中だった彼に浮気され、婚前旅行を傷心旅行として一人旅しているという話では「あぁ…」と同情し、滑ってスマホを落として……という話には「うわっ!」と反応してくれるあたり、案外悪い人ではなさそうだ。
「っくく……はははっ……!」
「そんな、笑わなくても……」
「いや、これは笑うでしょ。俺の心配してた君の方が、今は何倍も大変そうじゃん。うち、すぐそこだからおいで」
頼れる人のいないこの土地で、日本語が通じる人に出会えるだけでもありがたい。助けてくれるという言葉を怪しむこともなく、雫は彼の後ろをついて行くことにした。すぐそこ、という言葉は本当で、彼は20秒ほど歩いたところにある2階建てのログハウスに案内してくれた。誰がどう見たってそれは、立派な一軒家だ。
「うち……?自宅……?」
「ん?あぁ。貸別荘だよ、何人かでシェアするタイプの」
「海外、慣れてるんですね」
「まぁ、職業柄色々と移動することが多くて。ホテルは気が散るから苦手なんだ」
「へえ……あの、お名前聞いてもいいですか?」
「……近衛 隆介。適当に呼んでくれて良いよ」
グレーの厚い名刺を一枚渡された。Ryusuke Konoeという名前と、メールアドレスが書いてあるだけのシンプルな活版印刷。なんの狙いがあるのか、肩書きどころか社名すらも書いていない。雫は受付案内という仕事柄、何枚もの名刺をもらうことがある。けれど、こんなにも情報のない名刺は初めてだった。何をやっている人なのかわからない名刺の存在意義を考えてしまった。
「で、湖で濡れたんでしょ?寒くない?」
「あ、もうだいぶ、乾いてるので大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
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「で、スマホ貸せばいいの?それで解決する?」
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「なるほどね。そういうことなら、はいこれ」
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「あ、ダメでした……予約番号、メールに届いてるけど見れないんだった……」
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「え、でも……」
「この街のホテルがある通りは向こう岸だろ?朝早く、こっちに来る手段なんてある?それとも、俺をその部屋まで連れてく?」
「う、ごめんなさい。それはちょっと」
「じゃ、決まり。そこの階段上がったとこが寝室。ドアに鍵ついてるから、ちゃんと鍵閉めるんだよ?……開けて寝るなら、俺はそういうことって捉えるから」
「……はい、えっ?!」
「ははっ……冗談。俺、もう少し外にいるから、適当にくつろいでていいよ。風呂は1階の奥だから、置いてあるものは好きに使って」
軽く笑いながら、彼はヘッドホンとカーディガンを手に取って外へと歩いていった。傷心中だったはずなのに、今はなぜかこんなにもドキドキしている。彼の言葉が本気だったのか、冗談なのか、経験の乏しい雫にはさっぱり理解できなかった。
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「……おはよう。よく眠れたみたいだね」
静かな低い声の挨拶で目が覚める。泊まっていっていいと言ってくれた家主は、ベッドサイドに座ってこちらを見つめていた。
「……鍵をかけなかったね?」
「っ?!」
「雫ちゃん、すごく可愛い顔して寝てたよ。」
昨日は一日中歩き回っていて疲れていたせいで、お風呂を借りた後の記憶がない。くたくたでベッドに倒れ込んだまま爆睡していて、ドアのことまで頭が回っていなかった。
「いやっ、その、私、そういうことじゃなくて……!」
「ん、そうだろうね。疲れてるだろうなと思って、流石に手は出さなかったんだ。褒めて欲しいくらいだよ」
「ま、バカンスでこんなおじさんに手を出されちゃ困っちゃうだろうしね」と笑う彼。コーヒーいる?と聞いてくれたので、欲しいですと答えた。
「でも……じゃない、です」
「ん?」
「あの……っ近衛さんは、おじさん……じゃないです。優しいし、素敵だし」
「ふーん……可愛い子にそういうこと言われると、手を出したくなるな」
コーヒーの入ったマグを手にしていた隆介はサイドテーブルにマグを預け、雫の後頭部を片手で掴むようにしてキスをしてきた。
「……んっふ!……んんん?!」
「気を許すとこういうことされちゃうから、簡単に男をを褒めるものじゃないよ。……ましてや海外ではね」
先手を取った隆介はニッと笑って立ち上がり、「コーヒー淹れてくるから、そこの服着て降りておいで」と呟いてリビングへと去っていった。
「なん……なの?」
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