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22:遠慮
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生まれ育った土地への片道切符は、購入するまでに少し勇気が必要だった。荷物はできる限り減らしたけれど、祖母宅に届けるには少し多い。
多田はあれから何度も電話をしてきたけれど、雫は帰郷を決めてからというもの、1度も電話に出なかった。多田が隆介のことを思って電話をかけてきているのなら、それだけ考えてくれている人が彼の側に居るということ。雫にはその事実だけで十分だった。
早朝の便に乗って福岡へ行き、そこから在来線と新幹線を乗り継いで長崎へ向かう。片道とはいえ、案外長旅だ。いくつかのお土産と化粧品、ドライヤーなど、帰ったら今日から使いたいものをバッグへ入れたら、結構な大荷物になってしまった。
婚前旅行としてオーストリアに行くために買ったキャリーバッグは、やっと2度目の出番が来たと嬉しそうに見えた。たった1年ちょっとの出来事なのに、とても昔のことのように思えるのは、沢山の思い出を彼から貰ったからだろうか。
「お、きたきた!雫ちゃんっ!こっち!こっちよ~!」
祖父母は白い軽バンで最寄り駅まで迎えに来てくれていた。駅から出てきた数人の若者を、順番にじーっと目を凝らすように見る。こちらを見つけた瞬間から手を振って、歓迎してくれた。
「長旅やったねぇ、お疲れ様」
「風邪、ひいとらんか?」
「んー、大丈夫!またお世話になるね。よろしく、お願いします」
幾つになっても孫なのだというふたりが、自分を可愛がってくれるのはわかっている。それなのに、彼らの優しさに甘えきれない雫はこの数年、ふたりと深く関わることを避けてきた。時節の挨拶を送ったり、時々お菓子や惣菜を送ったりする程度でしか連絡をしていないから、なんとなく気まずい。
「雫ちゃんが帰ってくるって聞いて、高校ん時ん部屋綺麗にしたけん、あん部屋使いんしゃい」
「ありがとう、ばぁば」
「さっき、東京でまた綺麗くなって、見つくるん大変やったばい」
「そうかな?そがんことなかと思うけど……」
高校の時通学で送ってくれていた道の景色は変わらない。同じ高校の後輩の制服姿に自分の姿を重ねて見てしまう。祖母の訛りと相まって、ジワジワと懐かしさが込み上げてきた。
言葉は思ったよりも早く戻ってきて、食事の頃には方言もだんだんと使えるようになった。
祖母の手料理は全体的に茶色くて、少ししょっぱい。でもその味が懐かしくてたまらない。こがん痩せてどうすると!と怒られながら、食べきれないほどのご馳走を、これでもかというほどに食べさせられた。
「雫ちゃん、こっちん仕事はもう見つけたと?」
「んーん、まだー。百貨店は遠かし、別ん仕事考えんとと思ってる」
「そしたらさ、ばぁばん仕事手伝うてくれんかな?アルバイトん子が、子供が生まるる~って言うて、最近やめたばっかりなんっさね」
「あ、そう?それならしばらくはお手伝いさせてもらおうかな」
懐かしい布団を広げながら、お互いのお客さんの話で盛り上がった。祖母はこの3階建ての家の1階で小さなギャラリーを営んでいて、毎月1日から15日までの期間をギャラリー解放日としている。
凄腕のガラス職人さんや、オブジェ作家の展示の時もあれば、地域小学生のお絵かきクラブの展示会になることもある。純粋に作品を観にくるというよりも、ここへ集まってはコーヒーを飲み、数時間語り合っていく……という人の方が多いらしい。
「もはやカフェ状態なんやなぁ」
「それでよかと。時々顔出してくるるくらいが、よか。元気かわかるし、うちも楽しか、作家さんも楽しか。それで作品も売れてくれたら、いいこと尽くしの大儲けじゃ」
自宅の一部を改装してやっているギャラリーだから、家賃はかからない。誰かと話したり、美しいものを見たりする時間が増えるだけだから、それが幸せなんだという。
「ばぁばと話しよーと、自分の悩みが小さかもんに思えてくるね。ありがとう」
「ばぁばは雫ちゃんと話しよーと、世界ん広さば知るばい。ばぁばの方こそ、ありがとうね」
分厚くてしわしわで大きな手が雫を撫でる。久しぶりの祖母の感触に思わず涙が溢れて、抱きつきたくなった。
「ばぁば、抱きついてよか?」
「よかよ、いつでんおいで」
座椅子に腰掛けている祖母は、昔の記憶よりも少し小さくなった。それでもこの太陽の匂いのする背中にぎゅっと抱きしめられると、あの頃を思い出す。誰にどう甘えていいか分からず、冷たい態度で必死に甘えていた、あの頃を。
両親が他界したのは雫の校内コンクール当日だった。雨の中、妹と三人で会場へ向かう途中の交差点で、信号を無視して直進してきた車と衝突。幸か不幸か、ほとんど意識のないままの別れだったと聞いた。
「ばぁばはさ、会いたいけど会えない人、おる?」
「おるよ。もう、いーっぱいおる」
「会いたくて会いたくて、苦しくなる?」
「苦しゅうなるばい。今も、こがん綺麗くなった娘ば見られん、あん子らに同情しとうよ」
祖母はうんうんと静かに相槌を打った。抱き抱えた幼子をあやすように、祖母は前後に体を揺らしながら、雫の背中をゆっくり叩く。トン、トン、という静かなリズムが雫の感情を溢れさせた。
「私ね……っ、苦しくなるほど会いたい人を、置いてきたの。今の私じゃ、向き合いきれなくて……っ。どうしたらいいか、わからなかったの……っ」
「大丈夫。大丈夫。愛っていうとは、縁があればまたどっかで繋がるもんばい。今は少し、離るる時やっただけ。それにほら……無駄なことはなかけん。そうやろ?」
「ふふふ。……そう、やったね」
ありがとうと首に抱きつくと、風呂を出た祖父が「なんでそがん格好なんや」と不思議そうに雫と祖母を見下ろした。白いタンクトップにヨレヨレのズボン。この家を出て行った時も同じ服を着ていたっけ。祖父は冷蔵庫からビールを取り出しその場で開けると、少し離れたところにあるダイニングテーブルに腰掛けた。
「女の恋ん秘密ばい……じぃじには話せんってよ」
はっはっはと大きく笑う祖母に、怖いものはないようだった。祖父母は幼くして戦争を経験した世代だ。今はこんなにも気丈に明るく振る舞う祖母もまた、雫以上にたくさんの会いたくて会えない人を想っているのかもしれない。祖母は毎日静かに仏壇へ手を合わせ、空を見つめることがある。一度なぜかと聞いたことはあるけれど、今日も元気に生きていると報告しているのだと言っていた。それ以上のことは話してはくれない。
けれど、自分以外の人も同じ思いをしながら生きているということ、そしてそれは幾つになっても変わらないということは、雫の心の重しをほんの少し軽くしたようだった。
◇◇◇
翌日、開店前の掃除から手伝いを始めた雫は、祖母の偉大さに改めて気付いた。
整理を頼まれた何百枚にも及ぶ絵葉書の1つ。その表面の版画には、見覚えがあった。宛名面を見て、さらに驚く。百貨店での展示会では長蛇の列を作っていたあの作家や、抽選販売時に20倍という倍率を叩き出したあの作家、さらに新進気鋭でこれから人気に火がつくと話題のあの作家まで……信じられない相手からの手紙が、祖母の元へ届いていた。
文面は、達筆すぎて全く理解できない。けれど、結びの文に「大変感謝しております」「またお会いできることを楽しみにしております」などといった文章が入っているをの見ると、どの作家も祖母には少なからず縁があるようだった。ひとまず地域ごとに分けて、さらにそれを発送者ごとにページ分けしてファイリングした。作業がひと通り済んだ頃にはお昼を過ぎていて、ギャラリーの休憩エリアには3人の老人がコーヒーを飲みに来ていた。
「あれ!新しかスタッフさん?べっぴんやねえ」
「違うじゃろ。しらちゃん、今度孫娘ば帰って来るって言いよったぞ」
「ええっ!じゃああれか、あの……雫ちゃんか!いやぁ~大きゅうなったねえ。おじさん、酒屋んおじさんばい。覚えとお?」
覚えていると答えると、残りの二人も俺は?俺は?と自分の顔を指差して、ワイワイと盛り上がる。話を聞けば、早々と息子・娘に家督を譲り、こんなにも明るく楽しい人生を送っているらしい。土日の忙しい時だけ手伝う生活くらいがちょうどいいのだと教えてくれた。
今回の祖母のギャラリーの展示品は、骨董品と版画。どちらも様々な作家の作品が等間隔に並べられている。作品を自宅に持ち帰った時のイメージが湧くよう、長く大きな一枚板の机に並べられた骨董品。中には江戸時代に作られたものもあるらしく、金額は書かれていない。
「雫ちゃん、こん中で一番高額なんはどれやと思う?」
酒屋のおじちゃんが笑いながら問題を出してくる。祖母の方を向くと、好きに見ていいと言った表情でこくりと頷くだけ。流石に触れて落としてしまってはいけないので、慎重に、少し離れたところから360度に目を凝らして見る。
20分ほど吟味して、入口から見て真正面の、一番最初に目に留まるところへ置かれた灰色の器を選んだ。正直なところ、雫は陶芸品には全く詳しくない。何焼き、と呼ばれる呼び名があることすら最近知ったくらいだ。だから、鮮やかな色彩の器よりもどこか彼の家の壁に雰囲気の似た、その器が気になった。
「雫ちゃんは、ほんなこてそれがよかと?」
「はい。これが一番、目を惹いたので!」
直感を信じますと伝えると、雫以外の4人は顔を見合わせて、大笑いした。ヒィヒィと呼吸を乱し、目尻には涙さえ浮かんでいる。悔しくも笑いの理由がわからず質問すると、それはこの中で一番価格の低い、若手作家のものなのだと答えられた。
「そん器がよかもんであることに間違いはなかばってん、骨董品ば見る目はまだまだかもしれんね」
「ただの美術ギャラリーじゃなくて経営やけん、美術品ば見る目は養うとかんばいかんねぇ」
「おじさんはそれ好いとーばってん、まだまだ新人さんなんっさね!」
あまりにも大袈裟にケラケラと笑われると、耳は赤くなる。初日だから仕方ないと笑われながらも、恥を忍んで他の作品の価値について説明を聞くと、確かに価格に納得のいく銘品ばかりだった。話によると3人はこのギャラリーの常連で、設営を手伝ってくれる仲間でもあるらしい。祖母のことも、祖母の大切な場所も大切にしてくれている人の存在ほど有難いものはない。
「雫ちゃんがゆくゆくはここんオーナーになると?」
「よか歳なんやけん結婚して旦那さんもらわんば!」
「ああそうばい、まずは結婚や!」
初日から歯に衣着せぬ豪速球が飛ぶ。気まずくて空笑いして誤魔化そうにも、どうなん?恋人は?などと掘り返された。
「失恋して帰ってきたけん、しばらくはひとり、ですね」
ちょっと表を掃除してきますと言い残してギャラリーを出た。2時間前に掃除したばかりの玄関口はまだ葉っぱ1枚落ちておらず、ピカピカのままだ。それでもあの田舎特有のストレートな物言いや、近すぎる空気感には慣れず、雫はもう一度竹箒で玄関口を綺麗に掃除してから中へ戻った。
多田はあれから何度も電話をしてきたけれど、雫は帰郷を決めてからというもの、1度も電話に出なかった。多田が隆介のことを思って電話をかけてきているのなら、それだけ考えてくれている人が彼の側に居るということ。雫にはその事実だけで十分だった。
早朝の便に乗って福岡へ行き、そこから在来線と新幹線を乗り継いで長崎へ向かう。片道とはいえ、案外長旅だ。いくつかのお土産と化粧品、ドライヤーなど、帰ったら今日から使いたいものをバッグへ入れたら、結構な大荷物になってしまった。
婚前旅行としてオーストリアに行くために買ったキャリーバッグは、やっと2度目の出番が来たと嬉しそうに見えた。たった1年ちょっとの出来事なのに、とても昔のことのように思えるのは、沢山の思い出を彼から貰ったからだろうか。
「お、きたきた!雫ちゃんっ!こっち!こっちよ~!」
祖父母は白い軽バンで最寄り駅まで迎えに来てくれていた。駅から出てきた数人の若者を、順番にじーっと目を凝らすように見る。こちらを見つけた瞬間から手を振って、歓迎してくれた。
「長旅やったねぇ、お疲れ様」
「風邪、ひいとらんか?」
「んー、大丈夫!またお世話になるね。よろしく、お願いします」
幾つになっても孫なのだというふたりが、自分を可愛がってくれるのはわかっている。それなのに、彼らの優しさに甘えきれない雫はこの数年、ふたりと深く関わることを避けてきた。時節の挨拶を送ったり、時々お菓子や惣菜を送ったりする程度でしか連絡をしていないから、なんとなく気まずい。
「雫ちゃんが帰ってくるって聞いて、高校ん時ん部屋綺麗にしたけん、あん部屋使いんしゃい」
「ありがとう、ばぁば」
「さっき、東京でまた綺麗くなって、見つくるん大変やったばい」
「そうかな?そがんことなかと思うけど……」
高校の時通学で送ってくれていた道の景色は変わらない。同じ高校の後輩の制服姿に自分の姿を重ねて見てしまう。祖母の訛りと相まって、ジワジワと懐かしさが込み上げてきた。
言葉は思ったよりも早く戻ってきて、食事の頃には方言もだんだんと使えるようになった。
祖母の手料理は全体的に茶色くて、少ししょっぱい。でもその味が懐かしくてたまらない。こがん痩せてどうすると!と怒られながら、食べきれないほどのご馳走を、これでもかというほどに食べさせられた。
「雫ちゃん、こっちん仕事はもう見つけたと?」
「んーん、まだー。百貨店は遠かし、別ん仕事考えんとと思ってる」
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「あ、そう?それならしばらくはお手伝いさせてもらおうかな」
懐かしい布団を広げながら、お互いのお客さんの話で盛り上がった。祖母はこの3階建ての家の1階で小さなギャラリーを営んでいて、毎月1日から15日までの期間をギャラリー解放日としている。
凄腕のガラス職人さんや、オブジェ作家の展示の時もあれば、地域小学生のお絵かきクラブの展示会になることもある。純粋に作品を観にくるというよりも、ここへ集まってはコーヒーを飲み、数時間語り合っていく……という人の方が多いらしい。
「もはやカフェ状態なんやなぁ」
「それでよかと。時々顔出してくるるくらいが、よか。元気かわかるし、うちも楽しか、作家さんも楽しか。それで作品も売れてくれたら、いいこと尽くしの大儲けじゃ」
自宅の一部を改装してやっているギャラリーだから、家賃はかからない。誰かと話したり、美しいものを見たりする時間が増えるだけだから、それが幸せなんだという。
「ばぁばと話しよーと、自分の悩みが小さかもんに思えてくるね。ありがとう」
「ばぁばは雫ちゃんと話しよーと、世界ん広さば知るばい。ばぁばの方こそ、ありがとうね」
分厚くてしわしわで大きな手が雫を撫でる。久しぶりの祖母の感触に思わず涙が溢れて、抱きつきたくなった。
「ばぁば、抱きついてよか?」
「よかよ、いつでんおいで」
座椅子に腰掛けている祖母は、昔の記憶よりも少し小さくなった。それでもこの太陽の匂いのする背中にぎゅっと抱きしめられると、あの頃を思い出す。誰にどう甘えていいか分からず、冷たい態度で必死に甘えていた、あの頃を。
両親が他界したのは雫の校内コンクール当日だった。雨の中、妹と三人で会場へ向かう途中の交差点で、信号を無視して直進してきた車と衝突。幸か不幸か、ほとんど意識のないままの別れだったと聞いた。
「ばぁばはさ、会いたいけど会えない人、おる?」
「おるよ。もう、いーっぱいおる」
「会いたくて会いたくて、苦しくなる?」
「苦しゅうなるばい。今も、こがん綺麗くなった娘ば見られん、あん子らに同情しとうよ」
祖母はうんうんと静かに相槌を打った。抱き抱えた幼子をあやすように、祖母は前後に体を揺らしながら、雫の背中をゆっくり叩く。トン、トン、という静かなリズムが雫の感情を溢れさせた。
「私ね……っ、苦しくなるほど会いたい人を、置いてきたの。今の私じゃ、向き合いきれなくて……っ。どうしたらいいか、わからなかったの……っ」
「大丈夫。大丈夫。愛っていうとは、縁があればまたどっかで繋がるもんばい。今は少し、離るる時やっただけ。それにほら……無駄なことはなかけん。そうやろ?」
「ふふふ。……そう、やったね」
ありがとうと首に抱きつくと、風呂を出た祖父が「なんでそがん格好なんや」と不思議そうに雫と祖母を見下ろした。白いタンクトップにヨレヨレのズボン。この家を出て行った時も同じ服を着ていたっけ。祖父は冷蔵庫からビールを取り出しその場で開けると、少し離れたところにあるダイニングテーブルに腰掛けた。
「女の恋ん秘密ばい……じぃじには話せんってよ」
はっはっはと大きく笑う祖母に、怖いものはないようだった。祖父母は幼くして戦争を経験した世代だ。今はこんなにも気丈に明るく振る舞う祖母もまた、雫以上にたくさんの会いたくて会えない人を想っているのかもしれない。祖母は毎日静かに仏壇へ手を合わせ、空を見つめることがある。一度なぜかと聞いたことはあるけれど、今日も元気に生きていると報告しているのだと言っていた。それ以上のことは話してはくれない。
けれど、自分以外の人も同じ思いをしながら生きているということ、そしてそれは幾つになっても変わらないということは、雫の心の重しをほんの少し軽くしたようだった。
◇◇◇
翌日、開店前の掃除から手伝いを始めた雫は、祖母の偉大さに改めて気付いた。
整理を頼まれた何百枚にも及ぶ絵葉書の1つ。その表面の版画には、見覚えがあった。宛名面を見て、さらに驚く。百貨店での展示会では長蛇の列を作っていたあの作家や、抽選販売時に20倍という倍率を叩き出したあの作家、さらに新進気鋭でこれから人気に火がつくと話題のあの作家まで……信じられない相手からの手紙が、祖母の元へ届いていた。
文面は、達筆すぎて全く理解できない。けれど、結びの文に「大変感謝しております」「またお会いできることを楽しみにしております」などといった文章が入っているをの見ると、どの作家も祖母には少なからず縁があるようだった。ひとまず地域ごとに分けて、さらにそれを発送者ごとにページ分けしてファイリングした。作業がひと通り済んだ頃にはお昼を過ぎていて、ギャラリーの休憩エリアには3人の老人がコーヒーを飲みに来ていた。
「あれ!新しかスタッフさん?べっぴんやねえ」
「違うじゃろ。しらちゃん、今度孫娘ば帰って来るって言いよったぞ」
「ええっ!じゃああれか、あの……雫ちゃんか!いやぁ~大きゅうなったねえ。おじさん、酒屋んおじさんばい。覚えとお?」
覚えていると答えると、残りの二人も俺は?俺は?と自分の顔を指差して、ワイワイと盛り上がる。話を聞けば、早々と息子・娘に家督を譲り、こんなにも明るく楽しい人生を送っているらしい。土日の忙しい時だけ手伝う生活くらいがちょうどいいのだと教えてくれた。
今回の祖母のギャラリーの展示品は、骨董品と版画。どちらも様々な作家の作品が等間隔に並べられている。作品を自宅に持ち帰った時のイメージが湧くよう、長く大きな一枚板の机に並べられた骨董品。中には江戸時代に作られたものもあるらしく、金額は書かれていない。
「雫ちゃん、こん中で一番高額なんはどれやと思う?」
酒屋のおじちゃんが笑いながら問題を出してくる。祖母の方を向くと、好きに見ていいと言った表情でこくりと頷くだけ。流石に触れて落としてしまってはいけないので、慎重に、少し離れたところから360度に目を凝らして見る。
20分ほど吟味して、入口から見て真正面の、一番最初に目に留まるところへ置かれた灰色の器を選んだ。正直なところ、雫は陶芸品には全く詳しくない。何焼き、と呼ばれる呼び名があることすら最近知ったくらいだ。だから、鮮やかな色彩の器よりもどこか彼の家の壁に雰囲気の似た、その器が気になった。
「雫ちゃんは、ほんなこてそれがよかと?」
「はい。これが一番、目を惹いたので!」
直感を信じますと伝えると、雫以外の4人は顔を見合わせて、大笑いした。ヒィヒィと呼吸を乱し、目尻には涙さえ浮かんでいる。悔しくも笑いの理由がわからず質問すると、それはこの中で一番価格の低い、若手作家のものなのだと答えられた。
「そん器がよかもんであることに間違いはなかばってん、骨董品ば見る目はまだまだかもしれんね」
「ただの美術ギャラリーじゃなくて経営やけん、美術品ば見る目は養うとかんばいかんねぇ」
「おじさんはそれ好いとーばってん、まだまだ新人さんなんっさね!」
あまりにも大袈裟にケラケラと笑われると、耳は赤くなる。初日だから仕方ないと笑われながらも、恥を忍んで他の作品の価値について説明を聞くと、確かに価格に納得のいく銘品ばかりだった。話によると3人はこのギャラリーの常連で、設営を手伝ってくれる仲間でもあるらしい。祖母のことも、祖母の大切な場所も大切にしてくれている人の存在ほど有難いものはない。
「雫ちゃんがゆくゆくはここんオーナーになると?」
「よか歳なんやけん結婚して旦那さんもらわんば!」
「ああそうばい、まずは結婚や!」
初日から歯に衣着せぬ豪速球が飛ぶ。気まずくて空笑いして誤魔化そうにも、どうなん?恋人は?などと掘り返された。
「失恋して帰ってきたけん、しばらくはひとり、ですね」
ちょっと表を掃除してきますと言い残してギャラリーを出た。2時間前に掃除したばかりの玄関口はまだ葉っぱ1枚落ちておらず、ピカピカのままだ。それでもあの田舎特有のストレートな物言いや、近すぎる空気感には慣れず、雫はもう一度竹箒で玄関口を綺麗に掃除してから中へ戻った。
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