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24:最愛
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愛の形は誰にも決められない。本人にですら理解できないことばかりだ。いつも楽しくて永遠に幸せな恋も、辛く険しくどこまでも苦しい愛も――この世のどこかにはあるかもしれない。
そんな夢を見てしまうほどに、情緒を揺さぶられる展示。
ギャラリーの新人発掘を目的とした公募展というだけあって、作家なりの爆発的な愛を込めた熱い作品ばかり。子連れや老夫婦など、その展示会を見て重い想いに感想を言い合っている人たちもまた、誰かにとっての"最愛"なのだと思える。
今日の展示会の中で、一番の収穫かもしれない。来られて良かったと思いながら展示を見て回る雫に若い男性が声をかけてきた。運営の名札を首から下げた大学生くらいの、感じの良い青年。
「よかったら、こっちも見てってください」
男性に連れられて、子供が喜びそうなサイズ感の小屋を覗いた。それは一辺が2mも無い小さな立方体。雫でもまっすぐ立つと頭がぶつかるような狭さ。全てが真っ白な箱の中に、同色の小さなスツールがひとつ。片面がスクリーンになっていて、カウントダウンが始まっている。
そこへ座ってご覧くださいという声に従ってスツールに浅く腰掛けると、壁面で白黒写真のスライドショーが始まった。
飾り気のない指先
ギターのヘッド
閉じた瞳のまつ毛
枕に流れる髪
車の助手席
白いシーツに包まれて眠る背中
真っ白なCD
膝を抱き抱える腕
スタンドマイクの脚
その写真の全てに、見覚えがある。だんだんと視界の端が滲み始め、急速にその全てがぼかされていく。ここにいてはいけないという危機感と、なぜ、どうして、という疑問が雫の脳内を一気に占拠した。室内には映写機で映像を流している時のようなジィーという音が響き続けている。
「雫」
一番聞きたかった声が、自分の名前を呼ぶ。普段存在を感じない心臓が、僕はここにあるんだと強く主張しだした。白で統一された世界は夢の中にいるような錯覚を引き起こし、雫を更なる混乱へ運んだ。
「ねぇ雫」
聞こえているのはスピーカーじゃない、生の声。それでも、雫は横を向けない。喉の奥がきゅっと閉まり、焼け付くように熱く痛い。その優しく甘い声をくれるその人に、雫は見せられる顔も、投げられる言葉も持っていない。
「またどうせ、何もないって言うんだろ。自分の足でここまで来たのに」
単純な心の中を見透かされている。見始めてすぐに溢れ出したものは永遠に止まらず、ライトグレーのスカートの一部はもう黒く染まっている。パグみたいにくしゃくしゃになった顔を両手で覆って必死で呼吸を整えようとしても、息の仕方が思い出せない。
「俺に捕まりに来たって、もう、観念して。お願い」
声の主は雫の前でしゃがみ、顔を覆い続けているその手に優しく触れた。いつも暖かかだったその手が、今日は指先からキンキンに冷たく、震えている。パーマのかかった長い髪は少し乱れていて、どこからか急いできたような雰囲気がある。
その手の冷たさにビクリとして思わず指先が顔から離れたタイミングを、その人は逃さなかった。雫の両手を下へ押し除けて、涙で濡れて歪んだその顔を微笑みながら見つめた。
「……会いたかった」
隆介は自分も泣いているくせに、眉山を下げ、心底嬉しそうに笑顔のまま。両側から温めるように握った雫の手に、そっと頬を寄せた。相変わらず全身真っ黒の装いのその人は、部屋とのコントラストではっきりとこちらに存在を主張している。
「なん……で?」
カラッカラの喉を絞るようにして出た、小さな声。東京へ行くことが決まった日、祖母のリストの中に彼の名前があるかは何度も確認したし、祖母はこの会場で見るべき作家が隆介だとも言っていなかった。
私が来るかもしれないという賭けに、彼は勝ったのか。
「運命、的な……?」
あまりにくさいセリフを言ったと本人も自覚しているのか、首も顔も、耳まで赤い。彼の手に包まれたままの雫の手は、じんわりと汗をかいた。離れても離れても、また巡り合ってしまう運命なのかもしれない。素直になっても、いいのかもしれない。
「私も、会いた……っん……!」
皆まで言うなとばかりに右腕で雫の後ろ頭を掴んだ隆介は、柔らかな唇で雫の言葉を止めた。愛の言葉を交わすように、幾重にも重なる唇。苦しさで彼の上着を掴んでも、キスの雨は簡単には止まない。唇が離れた頃には、互いの目がその先を求めていた。
小さな小箱の中で繰り返される1分間のスライドショーを横目に、ふたりは顔を見合わせて笑った。いつのまにか落ち着いた涙の跡を軽く拭うと、隆介は指先でもう一度その涙の筋を追いかけるように触れた。
「泣かせてばかりでごめん」
「ううん、これは私が」
「でも、謝らせてよ。それで、これからも全部俺のせいにして」
地面に膝立ちするようにして座っていた隆介は、まるで子供が大人に甘えるような体制で、下から腰の方へ腕を伸ばした。雫に抱きしめられようとして腕の下へ入ってくる大きな体は、前と同じウッドの香水とタバコの混ざった香りがする。
「俺の、奥さんになってよ」
「えっ……えぇ?!」
話が飛びすぎていてついて行けない。一年前に別れたはずなのに、どうして急にそうなるのだろう。戸惑う雫に隆介は言葉を続ける。
「本当はあの日、言おうと思ってて。でも先に帰るし、そのまま連絡取れなくなるし……心配してた」
「えっと……私達、別れたはずじゃ……」
「俺はお礼を言われただけで、別れてない」
「時計も鍵も返して……」
「『貸してた』ものを返されただけ。それに、俺は雫を手放さないって、最初に約束しただろ」
嫌なら今ここで俺を突き離してと強請る彼は、雫の本心をどこまで知っているのだろう。会いたくて、抱きしめられたかった雫の体が、この大きな体を突き放せると本当に思っているのだろうか。
「俺は、もうこれ以上離れていられない」
ようやく止まったはずの涙がまた、ブワッと吹き出すように湧いてくる。この腕の中にずっといたいと願ったあの夜の思いを、そのまま伝えてしまってもいいんだろうか。
ひっくひっくとしゃくり上がる呼吸を整えながら、言葉を紡ぐ。全ての感情を表に出して泣いたのはいつぶりだろう。胸の奥で硬く蓋をして閉じ込めてきた思いは、声にするまでに時間がかかる。隆介は雫の背中を撫でながら、なかなか出てこない言葉を待ち続けた。
「……私、まだ、側にいても、いいんですか」
許可を求めてしまうのは、まだ怖さが残っているから。隆介に迷惑をかけるのではないか、負担を増やすのではないか、そんな悩みばかりが雫を取り囲む。
「俺が、雫じゃなきゃ駄目なんだ。だから……」
一度抱きしめていた腕を解き、隆介の体が離れる。2人の体の間に溜まっていた熱がひんやりとした空気に滲んでいく。雫の頬を撫でて涙が落ち着くのを待ってから、隆介は目を見つめてぽつりと話した。
「雫の相手は俺だって……雫に、選ばれたい」
彼の懇願するような瞳は濡れたように光っていて、ただ雫だけを反射させている。唇はきゅっと結ばれていて、思いの強さを感じる。自分の不安で愛しい人をここまでさせてしまったことを悔やんだ。
もう、悩むのはやめにしよう。私の"最愛"はどんなに悩んでもどんなに苦しんでも、この人なのだ。辛ければ辛いと伝えて、その時出来ることをふたりで考えればいい。
「私も、隆介さんしかいりません」
口にした瞬間に、背中の強張りが解けてジンと熱くなる。こんなにも緊張して、ガチガチになってしまっていたのかと今更気付いた。
まんべんの笑みでこちらを見て笑った隆介は、大型犬が飼い主に飛びつくように雫を目一杯抱きしめる。ぎゅううっと強い腕力で抱きしめられるのも、たまには悪く無い。離れていた期間を埋めるような熱い抱擁に、隠しきれない心はたちまち溶かされていった。
5分か10分か……もうどのくらいの時間が経ったかわからない。自然に惹かれ合った唇で触れるようなキスをして、隆介の手のひらが雫の腰回りに触れ始めた頃、箱の外で「オーナー!」と青年の呼ぶ声がした。
「~っ!」
流石にこのタイミングで、ギャラリーオーナーに会うのはまずい。現実に戻されて焦った雫は、歯止めの効かなくなりそうな隆介を無理やり引き剥がし、乱れた髪と服を軽く整えてから隆介の背中を押して箱の外へ出た。
「近衛さん、いい加減にしてください」
箱から出た矢先、雫の言おうと思っていた言葉を、先ほどの案内をしてくれた青年が隆介へ投げかけている。突然の展開に話が読めない。ふたりの会話を盗み聞きするのもなんだか良くない気がして、そっと1歩半離れて後ろを向いた。
「いくらなんでも長居しすぎです」
「いいだろ別に俺のなんだから」
「後ろ、詰まってます」
「もう誰も入れない。無理。撤収」
「は?本気ですか?」
「フツーに本気」
雫の方を振り向き、肩へ腕を回した隆介は少し待っててと声をかけた。箱の中へ戻るとすぐに小さなプロジェクターとスツールを持って帰ってきた。ほいっと投げるように青年に渡して、中に入っても何もないのだとわかるように間接照明のスイッチを切った。
「うわ、ほんとに撤収してるし……」
「これ、持って帰って。多田に渡せばわかるから」
「……了解す」
むすっとした顔の青年は少し残念そうな顔でこちらを見てすぐ、何かを感じ取ったかように目を丸くしていた。隆介は照れ隠しのように胸元に刺していたサングラスをかけ直し、すぐにでもその場を立ち去ろうとする。
「ちょっと待って、隆介さん」
「何?」
「私今日は仕事で来てて。オーナーさんに挨拶しなきゃいけないの。あと、他の作家さんにも」
「会期明日までだから、それ全部まとめて明日にしない?」
「オーナーさんは明日もいるかわからないでしょ?さっきオーナーさんのこと呼んでる声してたし……」
「いるいる、大丈夫」
「大丈夫じゃないですっ。それに私今日の便で帰り……」
「今日は、残念ながら……帰れません」
「えっ?」
雫の腰を片手で掴んだ隆介は、これ以上口答えしなくていいとばかりに雫の唇をキスで塞いだ。ギャラリーの出入り口まであと5mほどの会場内、通路のど真ん中。作品を見ていた人も、今まさに会場へ入ろうとしている人も、感嘆の声をあげてこちらを見ている。中には何やら状況を楽しんでいるようにスマホを向けている人も数人。突然のことでフリーズしながらも隆介の胸を抑えると、数秒してようやく解放してくれた。
「あの、これは……流石に良くないんじゃ……」
「ん?いいよ。好きに撮らせればいいこんなの」
「っでも隆介さんまた追いかけられちゃう」
「雫がいるならなんでもいい」
「もうっ!全然よくないですっ。さっきの帰れないのも何故か聞けてないのに……」
ムッとした顔で隆介の方を見ると、そんな顔も可愛いと言われてしまって話にならない。そういうことじゃないのと返すと、言い返す元気があるならよかったよと返された。
「おばあちゃんに電話してごらん」
ニコニコと笑ってこちらを見る彼。入り口からは初冬の青白い日光が差し、厚手のロングコートが風にパタパタとはためく。スタイリング剤のついていないパーマヘアも風に流されて、まるで映画のワンシーンのよう。
どういう意味かもわからず祖母へ電話をかけると、今回の出張が隆介の企みによるものだったと種明かしがなされた。
「本当に?じゃあ全部ただん観光やったってこと?」
「見て欲しか作家さんばまとめたんは、本当。まだ審美眼養わんばいかんしね……」
「じゃあ、じぃじん腰痛は?」
「あれは……すらごとじゃ(嘘だよ)。もうピンピンよ」
どうやら作家さんへの挨拶も腰痛も、本当に祖母と隆介の企んだ嘘らしい。雫のため息を聞いて笑っている祖祖母。ちょっともう切るよと声をかけると、隆介は雫のスマホを奪い取って電話をかわった。
「お電話変わりました、近衛です。無事会えました。ええ、なんとか。ありがとうございました。また明日、ご連絡しますので。……はい。御免ください。失礼します」
はいどうぞ、と差し出された電話はちゃっかり切られている。もう、と軽く怒った顔をしても、隆介にはまっったく効き目などないようだった。
明日の撤収には間に合わせるからと窓口のスタッフに声をかけ、隆介は目の前に泊まっていた黒塗りのミニバンへ雫と共に乗り込んだ。
そんな夢を見てしまうほどに、情緒を揺さぶられる展示。
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「よかったら、こっちも見てってください」
男性に連れられて、子供が喜びそうなサイズ感の小屋を覗いた。それは一辺が2mも無い小さな立方体。雫でもまっすぐ立つと頭がぶつかるような狭さ。全てが真っ白な箱の中に、同色の小さなスツールがひとつ。片面がスクリーンになっていて、カウントダウンが始まっている。
そこへ座ってご覧くださいという声に従ってスツールに浅く腰掛けると、壁面で白黒写真のスライドショーが始まった。
飾り気のない指先
ギターのヘッド
閉じた瞳のまつ毛
枕に流れる髪
車の助手席
白いシーツに包まれて眠る背中
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膝を抱き抱える腕
スタンドマイクの脚
その写真の全てに、見覚えがある。だんだんと視界の端が滲み始め、急速にその全てがぼかされていく。ここにいてはいけないという危機感と、なぜ、どうして、という疑問が雫の脳内を一気に占拠した。室内には映写機で映像を流している時のようなジィーという音が響き続けている。
「雫」
一番聞きたかった声が、自分の名前を呼ぶ。普段存在を感じない心臓が、僕はここにあるんだと強く主張しだした。白で統一された世界は夢の中にいるような錯覚を引き起こし、雫を更なる混乱へ運んだ。
「ねぇ雫」
聞こえているのはスピーカーじゃない、生の声。それでも、雫は横を向けない。喉の奥がきゅっと閉まり、焼け付くように熱く痛い。その優しく甘い声をくれるその人に、雫は見せられる顔も、投げられる言葉も持っていない。
「またどうせ、何もないって言うんだろ。自分の足でここまで来たのに」
単純な心の中を見透かされている。見始めてすぐに溢れ出したものは永遠に止まらず、ライトグレーのスカートの一部はもう黒く染まっている。パグみたいにくしゃくしゃになった顔を両手で覆って必死で呼吸を整えようとしても、息の仕方が思い出せない。
「俺に捕まりに来たって、もう、観念して。お願い」
声の主は雫の前でしゃがみ、顔を覆い続けているその手に優しく触れた。いつも暖かかだったその手が、今日は指先からキンキンに冷たく、震えている。パーマのかかった長い髪は少し乱れていて、どこからか急いできたような雰囲気がある。
その手の冷たさにビクリとして思わず指先が顔から離れたタイミングを、その人は逃さなかった。雫の両手を下へ押し除けて、涙で濡れて歪んだその顔を微笑みながら見つめた。
「……会いたかった」
隆介は自分も泣いているくせに、眉山を下げ、心底嬉しそうに笑顔のまま。両側から温めるように握った雫の手に、そっと頬を寄せた。相変わらず全身真っ黒の装いのその人は、部屋とのコントラストではっきりとこちらに存在を主張している。
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カラッカラの喉を絞るようにして出た、小さな声。東京へ行くことが決まった日、祖母のリストの中に彼の名前があるかは何度も確認したし、祖母はこの会場で見るべき作家が隆介だとも言っていなかった。
私が来るかもしれないという賭けに、彼は勝ったのか。
「運命、的な……?」
あまりにくさいセリフを言ったと本人も自覚しているのか、首も顔も、耳まで赤い。彼の手に包まれたままの雫の手は、じんわりと汗をかいた。離れても離れても、また巡り合ってしまう運命なのかもしれない。素直になっても、いいのかもしれない。
「私も、会いた……っん……!」
皆まで言うなとばかりに右腕で雫の後ろ頭を掴んだ隆介は、柔らかな唇で雫の言葉を止めた。愛の言葉を交わすように、幾重にも重なる唇。苦しさで彼の上着を掴んでも、キスの雨は簡単には止まない。唇が離れた頃には、互いの目がその先を求めていた。
小さな小箱の中で繰り返される1分間のスライドショーを横目に、ふたりは顔を見合わせて笑った。いつのまにか落ち着いた涙の跡を軽く拭うと、隆介は指先でもう一度その涙の筋を追いかけるように触れた。
「泣かせてばかりでごめん」
「ううん、これは私が」
「でも、謝らせてよ。それで、これからも全部俺のせいにして」
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「俺の、奥さんになってよ」
「えっ……えぇ?!」
話が飛びすぎていてついて行けない。一年前に別れたはずなのに、どうして急にそうなるのだろう。戸惑う雫に隆介は言葉を続ける。
「本当はあの日、言おうと思ってて。でも先に帰るし、そのまま連絡取れなくなるし……心配してた」
「えっと……私達、別れたはずじゃ……」
「俺はお礼を言われただけで、別れてない」
「時計も鍵も返して……」
「『貸してた』ものを返されただけ。それに、俺は雫を手放さないって、最初に約束しただろ」
嫌なら今ここで俺を突き離してと強請る彼は、雫の本心をどこまで知っているのだろう。会いたくて、抱きしめられたかった雫の体が、この大きな体を突き放せると本当に思っているのだろうか。
「俺は、もうこれ以上離れていられない」
ようやく止まったはずの涙がまた、ブワッと吹き出すように湧いてくる。この腕の中にずっといたいと願ったあの夜の思いを、そのまま伝えてしまってもいいんだろうか。
ひっくひっくとしゃくり上がる呼吸を整えながら、言葉を紡ぐ。全ての感情を表に出して泣いたのはいつぶりだろう。胸の奥で硬く蓋をして閉じ込めてきた思いは、声にするまでに時間がかかる。隆介は雫の背中を撫でながら、なかなか出てこない言葉を待ち続けた。
「……私、まだ、側にいても、いいんですか」
許可を求めてしまうのは、まだ怖さが残っているから。隆介に迷惑をかけるのではないか、負担を増やすのではないか、そんな悩みばかりが雫を取り囲む。
「俺が、雫じゃなきゃ駄目なんだ。だから……」
一度抱きしめていた腕を解き、隆介の体が離れる。2人の体の間に溜まっていた熱がひんやりとした空気に滲んでいく。雫の頬を撫でて涙が落ち着くのを待ってから、隆介は目を見つめてぽつりと話した。
「雫の相手は俺だって……雫に、選ばれたい」
彼の懇願するような瞳は濡れたように光っていて、ただ雫だけを反射させている。唇はきゅっと結ばれていて、思いの強さを感じる。自分の不安で愛しい人をここまでさせてしまったことを悔やんだ。
もう、悩むのはやめにしよう。私の"最愛"はどんなに悩んでもどんなに苦しんでも、この人なのだ。辛ければ辛いと伝えて、その時出来ることをふたりで考えればいい。
「私も、隆介さんしかいりません」
口にした瞬間に、背中の強張りが解けてジンと熱くなる。こんなにも緊張して、ガチガチになってしまっていたのかと今更気付いた。
まんべんの笑みでこちらを見て笑った隆介は、大型犬が飼い主に飛びつくように雫を目一杯抱きしめる。ぎゅううっと強い腕力で抱きしめられるのも、たまには悪く無い。離れていた期間を埋めるような熱い抱擁に、隠しきれない心はたちまち溶かされていった。
5分か10分か……もうどのくらいの時間が経ったかわからない。自然に惹かれ合った唇で触れるようなキスをして、隆介の手のひらが雫の腰回りに触れ始めた頃、箱の外で「オーナー!」と青年の呼ぶ声がした。
「~っ!」
流石にこのタイミングで、ギャラリーオーナーに会うのはまずい。現実に戻されて焦った雫は、歯止めの効かなくなりそうな隆介を無理やり引き剥がし、乱れた髪と服を軽く整えてから隆介の背中を押して箱の外へ出た。
「近衛さん、いい加減にしてください」
箱から出た矢先、雫の言おうと思っていた言葉を、先ほどの案内をしてくれた青年が隆介へ投げかけている。突然の展開に話が読めない。ふたりの会話を盗み聞きするのもなんだか良くない気がして、そっと1歩半離れて後ろを向いた。
「いくらなんでも長居しすぎです」
「いいだろ別に俺のなんだから」
「後ろ、詰まってます」
「もう誰も入れない。無理。撤収」
「は?本気ですか?」
「フツーに本気」
雫の方を振り向き、肩へ腕を回した隆介は少し待っててと声をかけた。箱の中へ戻るとすぐに小さなプロジェクターとスツールを持って帰ってきた。ほいっと投げるように青年に渡して、中に入っても何もないのだとわかるように間接照明のスイッチを切った。
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「何?」
「私今日は仕事で来てて。オーナーさんに挨拶しなきゃいけないの。あと、他の作家さんにも」
「会期明日までだから、それ全部まとめて明日にしない?」
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「いるいる、大丈夫」
「大丈夫じゃないですっ。それに私今日の便で帰り……」
「今日は、残念ながら……帰れません」
「えっ?」
雫の腰を片手で掴んだ隆介は、これ以上口答えしなくていいとばかりに雫の唇をキスで塞いだ。ギャラリーの出入り口まであと5mほどの会場内、通路のど真ん中。作品を見ていた人も、今まさに会場へ入ろうとしている人も、感嘆の声をあげてこちらを見ている。中には何やら状況を楽しんでいるようにスマホを向けている人も数人。突然のことでフリーズしながらも隆介の胸を抑えると、数秒してようやく解放してくれた。
「あの、これは……流石に良くないんじゃ……」
「ん?いいよ。好きに撮らせればいいこんなの」
「っでも隆介さんまた追いかけられちゃう」
「雫がいるならなんでもいい」
「もうっ!全然よくないですっ。さっきの帰れないのも何故か聞けてないのに……」
ムッとした顔で隆介の方を見ると、そんな顔も可愛いと言われてしまって話にならない。そういうことじゃないのと返すと、言い返す元気があるならよかったよと返された。
「おばあちゃんに電話してごらん」
ニコニコと笑ってこちらを見る彼。入り口からは初冬の青白い日光が差し、厚手のロングコートが風にパタパタとはためく。スタイリング剤のついていないパーマヘアも風に流されて、まるで映画のワンシーンのよう。
どういう意味かもわからず祖母へ電話をかけると、今回の出張が隆介の企みによるものだったと種明かしがなされた。
「本当に?じゃあ全部ただん観光やったってこと?」
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「じゃあ、じぃじん腰痛は?」
「あれは……すらごとじゃ(嘘だよ)。もうピンピンよ」
どうやら作家さんへの挨拶も腰痛も、本当に祖母と隆介の企んだ嘘らしい。雫のため息を聞いて笑っている祖祖母。ちょっともう切るよと声をかけると、隆介は雫のスマホを奪い取って電話をかわった。
「お電話変わりました、近衛です。無事会えました。ええ、なんとか。ありがとうございました。また明日、ご連絡しますので。……はい。御免ください。失礼します」
はいどうぞ、と差し出された電話はちゃっかり切られている。もう、と軽く怒った顔をしても、隆介にはまっったく効き目などないようだった。
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